失われた力
クレールは己の左の腰に手を伸ばした。
普段、つまり人外どもと戦わない時には、その場所に【正義】が封印されている。呼べば実体化する武器が手の内から消えたとしたら、そこに戻っているはずだ。
腰に触れた途端、鞭を打たれたような音がした。指先が激しく痛む。
アームが力を解放することを拒んでいる。
目の前が暗くなった。
「エル坊や、うふふ、あなたの武器は……だれの魂が基となっているのか存じ上げないけれど、とってもあなた思いなのね」
【月】の声が徐々に近付いてくる。
「あなたの武器は、あなたを傷つけたくないのよ。だからアタシを斬ることができない。だってそうでしょう？ アタシはあなたそのものなんだもの」
【月】の声が近づくのを止めた。それはクレールから五歩あまり離れた場所に立ち停まっていた。
移動することを止めた、すなわち、攻撃に専念するということだ。
蛇蠍が気炎を吐き出すような、すれた音がした。
「全く厄介な」
ブライトは小さく舌打ちした。
クレールを守り戦う魂の武器【正義】の、その死人の魂の生前の名は、ジオ三世という。
娘を、妻を、友や臣民を守り通すことができなかった、力のない貴族である。
己の無力を悔い、心を残し、死を受け入れることができず、この世に残留した、あわれな老人の魂である。
それは人としての感情を全て失った死者だ。娘を守ることだけに凝り固まった、父親の怨念だ。
「男親というヤツは、娘とニセモノの区別が付かないもンかね？
それとも、娘と一緒であの化け物にテメェの女房の影を見ちまったか？」
呆れ声を上げたブライトだが、実のところ【月】に対して危機感を抱いてはいない。
武器を失ったクレールのことも案じていない。
それよりも気にかかるのは、背後に現れたはっきりとした殺気の方だ。
ブライトは躊躇することなく戦いの中心から目をそらした。
抜き身の刀にすがってようやく立っている、幽鬼のように痩せた男がいた。
その後には一人の踊り子の不安げな顔が見える。
「よう、腰巾着。何しに来た？」
ブライトは妙に軽く明るい声を、イーヴァン似投げかけた。
彼は苦々しげに大柄な男を睨み付けて、
「白髪のチビは、どこだ」
粗い息の下から、掠れた声を出した。
彼が探しているのはクレールであるらしい。
ブライトは答えず、顎で客席側を指す。
イーヴァンは杖のように床に突いていた長剣を持ち上げ、構えた。
ブライトは若者……と言うよりは少年の、混濁した目に、一途な意思を見出した。
それはに嫉妬の火だ。
イーヴァンは、主人が執着しているのは「美しい少年」の方だけと信じている。
自分が呑み喰い屋でその小柄な少年に負けたことが先入観となっていた。
自分を倒したあの「チビ助」にはなにか特別なものがある。
崇拝してる主人があの子供に固執しているのは、自分に敗北感を覚えさせたあの少年が、特別な何かを持っているからに違いない。
