忘れたい過去
ブライトはクレールの両親が「生きていた頃」の姿を知らない。当然声を聞いたことなどない。
彼らが出会ったのは、彼女の父親が死に、母親が行方知れずになったそのあとだ。
また、ブライトはクレールの口から両親についての詳しい話を聞いたこともない。
彼女が自ら率先して話すことはないし、ブライトも積極的に聞き出そうとしなかった。
山奥の小さな集落に押し込められた老いた元皇帝と若い妃が、人食い鬼共にどのようにむごたらしく殺されたのか。いかようなおぞましい手段で拐かされのか。
あえて聞くまでもなく見当が付く。
『親父は真っ当な死に様じゃなかったろうし、お袋が着衣乱れぬまま連れ去れれたなんてことは到底ありえねぇ』
鬼畜の所行という言葉はこの場合比喩ではない。童女であったクレール姫がどれほどのショックを受けたのか、想像に難くない。
幼いクレールは、跡継娘として「良き人物」たるべき教育を受けた。
しくじりに際すれば己を責めるあまりに鬼に堕ちかけたことが幾度かあるほどに、責任感の強い彼女のことだ。親と故国が受けた辱めすらも、自分に力があれば防げたと思い、自分が非力であるが故に皆を救えなかったと悩んでいるだろう。
エル=クレール・ノアール、いやクレール・ハーン姫にとっては、両親、殊更生き別れてしまった――今も生きているという保証はない――母親という存在そのものがトラウマだと断じてもよい。
『ウチの可愛いクレールちゃんは、本人が見間違うくらいに母親似だってことか』
ブライトは、男の体から生えた真っ黒な女の顔らしき物体を睨み付けた。
こんどの視線は【月】にも感じ取れた。面の上に喜色が広がる。
「ああ、見て、アナタ。アタシを見て。アタシだけを見つめて」
蝕肢と腕が攻撃の動きを止めた。
クレールが身を起こすのに十分な隙だった。それでも完全に体勢を立て直すための猶予を与えてくれるほど【月】は寛大でも、悠長でもない。
ブライトが見ているのが「己自身」ではないことに、【月】が気付くのに長い時間は要らなかった。
僅かの間休んでいた蝕肢はすぐにまた元の攻撃的な動きを取り戻した。
尖った先端がクレールの顔面めがけて真っ直ぐに飛びかかる。
避けつつ、撲つ――クレールは判断し、行動した。
蝕肢は彼女の白金の髪を二筋ばかり引き千切り、顔の横を通り過ぎた。
すかさず剣を跳ね上げるように振った……筈だった。
クレールの腕だけが、天に向かって突き上げられていた。
手の中には何もなかった。握り、頼っていた武器が、ない。
通り過ぎた蝕肢の先端が、U字に舞い戻ってきた。身を縮めてやり過ごし、床を転げて逃げた。
執拗な追撃がクレールを追いかけて床にいくつもの穴を開けてゆく。
クレールの身体は壁……といっても厚織りの天幕地だが……の際まで転がった。
逃げ場がなくなった。
顔を上げると、【月】は遠く離れた場所で顔面に焦慮を広げ、歯ぎしりしていた。
「忌々しい! 本当に男の体という物は何故これほどまで美しくないのかしら。重いばかりで動くことさえままならないなんて」
胸から頭をはやした奇っ怪な物体が、よたよたと歩いている。
どうやら乗っ取った伝令官の肉体が思うように動かないらしい。あるいは彼はまだ息が合って、かすかに意識を保ち、必死に元の主に抵抗している可能性がある。
そして【月】は、乗っ取った身体自体を「操縦」している間は、攻撃の手を弱めなければならない様子だ。




