歪んだ鏡
「意識を保て!」
クレールは叫び、武器を振り下ろした。
顎から胸までの肉ごと、この男を浸食し始めた【月】の欠片をえぐり取るつもりだ。
深紅の剣先は、はじき返された。
勅書の中身を言葉として発させるのが「役目」であった伝令官の喉元から、別のモノ、見覚えのある蝕肢が突き出ていた。
「そうやって……己の欠片を分け与えた他人の体を媒体にして……移動するのかっ!」
間髪を入れず、真っ直ぐに己に向かってくる蝕肢をかわしつつ叫ぶクレールに、
「ちょっと当たっていて、ちょっと違うわね」
伝令官の喉の奥から、その男のものではない声が発せられた。
「アタシは鏡。鏡はいろいろなモノを写す。例え小さな欠片でも、周囲をその表面に映し出す。
アタシはそれを見る。それを聞く。そしてアタシ自身の肉体に投影する」
その声は「グラーヴ卿の声」とは違うように、クレールの耳には聞こえた。
柔らかく、優しげでいて、粘り着くように甘いその声は、確かに【月】が発する声に違いない。ただし先ほどまでのざらついた雑音が消えている。
ブライトの耳にも、その声は「グラーヴ卿の声」とは違うようには聞こえなかった。
柔らかく、優しげで、芯の強そうな、聞き馴染んだ声に似て聞こえた。
彼はほんの一瞬【月】の本体のある場所に、片方の目玉を向けた。
『なるほど。姿だけでなく声まで真似られると来たか』
エル=クレール・ノアールが【月】という銘だと判じた化け物は、村井との目には、
「エル=クレール・ノアールをモデルに、匠が性愛女神を彫り上げたなら……そしてそれが数百年の時を経たなら……おそらくこのような裸像ができるであろう」
という形に見えた。
『しかも、対象物を長く見、詳細に写し込むほどに、本物と虚像の差が縮まる……らしいな』
この時の【月】は不運であった。ブライトが彼女(?)をチラリと意識したその一瞬間、今度は彼女の方が「よそ見」をしていのだ。
戦闘の相手を、衛兵や伝令に授けた小さな破片からのぞき見るのではなく、我が目で見、鏡本体、すなわち自分の体の表面に写し込もうとするあまり、彼女は邪恋の相手がこちらを見てくれたことに気付かなかった。
クレールの姿を写し取ったニセモノの横顔に浮かぶような恍惚の色が、本物のクレールの顔に広がった所を、少なくともブライトは見たことがない。
今この場所でクレールがそんな顔をしているわけでもない。
それでも彼女がもしその表情を浮かべることがあったとしたなら、それは今のこの石像もどきと同じ形になるに違いなかった。
『あいつは、本物の行動を直接投影しているんじゃねぇな。
写し盗るのは、今現在の対象の姿形、もしかしたら能力。偽物の着ぐるみを被って相手に也きっk手自分のやりたいことをやっている。
やれやれ、厄介な鏡の化け物め』
ブライトの目玉はすぐに元の位置に戻った。
直後、彼の眉間には深い縦皺が刻まれた。
クレールが硬直している。
おびえている。
ブライトにはクレールの物真似と聞こえた【月】の声は、クレールには自分の声とは聞こえなかった。別の、懐かしい聞き覚えのある声と感じた。
「アタシはとっても好奇心が強いの。あれもこれも、総てを知りたいし、総てを手に入れたい」
その声の優しさ、懐かしさ故に、彼女の体は強張っている。