白い山のイメージ
「そんなに卑下しなくてもよくってよ、マイヨール。アタシは、とっても綺麗な、楽譜通りの演奏で感心したのだもの。
あなたち、田舎周りの旅芸人にしては、とてもレベルの高い楽士を抱えているわね。
まあ、音は良くても、それに合わせてお前達がどんな演技をしているのかまでは、知れたものではないけれど」
「耳の痛いことでございます」
頭を上げないまま、マイヨールは答えた。言葉が終わっても、彼は頭を上げることができなかった。
脇の下から嫌な汗が噴き出している。
『こいつは困った。真冬のムスペル山に放り出されたみたいに、頭が凍り付いて働かなくなっちまった』
大陸のほとんど真ん中にある、カルデラ盆地を抱え込んだ休火山まで、フレイドマル一座が脚を伸ばしたことはない。
この一座だけではない。ギュネイの民の九割方は、その山の実像を知らないはずだ。
それでもこの万年雪を頂く山の名前は、マイヨールも含めギュネイの民なら皆知っている。
夏でも雪が降り積もる。
家が氷でできている。
土が凍り付いて作物も家畜も育たぬ。
故に民は川虫を捕らえて食している。
凍え死んだ人々の亡骸が眠る氷の棺が墓地からあふれている。
嘘と言い切ることはできぬが真実とは掛け離れている噂話が、人々の間でかわされる。
噂の根底に幾ばくかの事実が無いわけではない。
山頂は年中雪を被っているものの、その丸い懐に抱かれた地域は、むしろ他の土地よりも雪雨が少ないくらいだ。
山奥では冬の間の雪を突き固めたブロックを用いて狩猟のための特火点を造ることはある。それは使い捨てで、春には融けて無くなる。
川虫や蚕の蛹をタンパク源の一つとして重要視しているのは事実だ。しかしそれらは常食されるわけでなく、非常食か嗜好品の扱いだ。
氷の棺については、魚や獣の肉を一時的に保存するため氷をくり抜いた箱を造るのを、だれかが見間違えたか言い違えたのだろう。
人々が事実に尾鰭を付けてた噂を広げたがるのには、理由がある。
山懐に、御位を自分の腹心に譲った元皇帝陛下が移封された小さな国があったからだ。
国の名はミッド、領主は大公ジオ三世。
哀れな老人が簒奪者から理不尽な仕打ちを受けている――物事を悲劇にしたがる判官贔屓な人々が、幻想を抱き、無責任な噂を広げる。
何年か前にその火山が大噴火して、彼の小国が消し飛んだという伝聞も……それ自体何処まで本当のことなのか判らぬままに……流言飛語のいい加減さを加速させている。
噂は噂としても、ムスペル山という固有名詞はその実物を知らない人々によって寒い場所の代名詞して用いられる。
マイヨールの脳裏には、果てのない真っ白な雪原に一人放り出された己の姿が浮かんでいた。尖った氷柱が牢獄の檻を形作り、彼の周囲を取り囲んでいる。
鳥肌が立った。そのくせ、汗が噴き出る。
マイヨールも莫迦ではない。この手強い役人貴族を言葉だけで言いくるめ、ごまかし通すのは無理なことだと、昼間の一件から察している。
それでもどうにか相手を自分のペースに巻き込んでやるぐらいはできるだろうと高をくくっていた。貴族嫌いから生ずる軽蔑心が彼の目先を曇らせていた。