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ルイゾン夫人

『試してやろうか。まずは百を五つ』


 マイヨールは右の手首に左の指先を添えた。己の脈で「正確な五百数えるだけの時間」を計ろうというのだ。

 ところが正確さを求めてした脈取りの当ては見事に外れた。

 脈動が普段より五割は速い。

 悪餓鬼のような悪戯心に興奮している自分のばかばかしいさまに、彼はむしろ少々愉快さを覚えた。


 風景幕にくるまって隠れつつ、笑いで肩を揺するマイヨールに、高齢で痩せたの踊り子が一人、声をかけた。


「センセ、あまりお坊ちゃん(モンプチシュー)(いじ)めてやりなさんな。ここは()()()に免じて、許しておやんなさい。

事が済んだあとで、()()()がたっぷりお灸を据えてやるからさぁ」


 彼女も苦笑いしている。骨張った手を拳に握り、頭を小突く手振りをした。

 この五十に手が届こうかという劇団員はルイゾンという名で、先代の座長、つまりフレイドマルの父親の頃から一座に所属する最古参だった。

 周囲の者は尊敬を込めて彼女をマダム・ルイゾン(ルイゾン夫人)と呼んでいる。しかし、ルイゾンはファーストネームだし、なにより彼女は一度だって結婚をしたことがない。従ってこの呼び方は相当に奇妙なものだ。

 それでも、皆が呼び慣れ、当人も呼ばれなれてしまっているため、その奇妙さに違和感を感じる者は、劇団の中には一人もいない。


 マダム・ルイゾンは美人とは言い難い面相をしている。演技者としてもどちらかといえば地味な存在で、若い頃から端役脇役ばかりを演じ続けていた。

 舞台の中央にただ一人で立って(かっ)(さい)を浴びたことはない。

 逆に、脇役であればどんな役でもこなすことができた。早着替えの時間とタイミングさえあれば、一幕の間に十役を演じ別けることもしてのける。

 器用の後ろに貧乏が付くような踊り手だ。

 こういう演技者こそが、一座にとっては必要不可欠な人員なのだ。どんな演目も脇を固める彼女がいなければ成り立たない。


 舞台の端から全体を見渡し見守り続けた彼女は、最長老となった今、総ての団員達から慕われる母親のような存在となっている。

 マイヨールも、そして我意(がい)の強いフレイドマルも、例外ではない。

 ことにフレイドマルは、かつて彼の()()()を替えてくれたこの古株には、三十路を過ぎた今でもまるで頭が上がらないときている。

 マダム・ルイゾンが握ったげんこつは、冗談でも比喩でもなく、間違いなく若禿の頭頂部に振り下ろされるはずだ。


 マイヨールは悪戯を見つけられた子供の顔をし、


「人聞きの悪いことをいいなさんな、マダム。むしろ私ゃ獅子(ライオン)の親心のつもりなんだよ。……向こうのが幾分年上だがね……。

 あの坊やが自分で千尋(せんじん)の谷を這い上がろうって気になるのを、こうしてそっと待っているって寸法さ」


 答えるマダム・ルイゾンは悪童を諭す母親の顔で、


「だからねマイヨールちゃん、その谷底の岩なんかよりもずっと硬いゲンコをお見舞いしてあげようって言うの。その代わり、ってことにして、今は助け船を出して頂戴(ちょうだい)な。

 大体、ここでお役人様の機嫌を損ねちまったら、坊ちゃん(モンプチ)の首だけじゃ到底済まないってことぐらい、センセなら分かり切ってるはずじゃぁないの」


 諭し持ち上げつついうルイゾンにマイヨールが反論できるはずはなかった。

 錦の御旗を掲げるグラーヴ卿が、毒々しい赤で塗られた唇をゆがめて


「執行」


 と呟こうものなら、即座にイーヴァンとかいう忠実の頭に馬鹿が付く若造の剣が(ひらめ)いて、あっという間に一座全員が処刑されるだろう。


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