獣の嘆き
その頃、俺は貧しかった。
それは考えが足りないって意味での貧しさであり、愛情が足りないって意味での貧しさでもあり、もちろん金がないって意味での貧しさでもあった。
ボロ雑巾みたいな姿で、ドブネズミみたいな生活をしていた。つまり、区拗ねて逃げてその日暮らしの生活をする餓鬼だった。
けれど、そんな俺に優しくしてくれる変わり者も稀にいた。
その1人が、神父のおっさんだった。
ボロボロの教会で着古した礼服をまとっているにも関わらず、おっさんの周りには人が溢れていた。そしていつも、温かな笑顔を見せていた。
その笑顔は俺にも変わらず向けられた。普段汚物をみるような視線や敵意しか向けられていなかった俺には、それがむず痒かった。だから、雨風が強い日や凍えそうな夜みたいなどうしようもない日にだけ教会を寝床にした。
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ある大雨の夜、いつものように扉をわずかに開けて潜り込むと、真っ暗な礼拝堂でおっさんが酷く熱心に祈りを捧げていた。
こんな夜分に祈っている事、なによりその姿が何かに怯えるようなものだったので俺は思わず声をかけていた。
するとおっさんは、今まで見たことない恐怖や殺意を込めた瞳で振り向き、直後、俺だとわかるとすぐにいつもの表情に戻った。
そして、悪戯が見つかった子どものような気まずそうな顔で語り始めた。
「君は、産まれ落ちた赤子は善と悪どちらだと思う?」
「知らない」と俺は答えた。
おっさんは、「そうだよな、難しいよな」と優しい笑顔を浮かべて、それでも話を続けてきた。
「私は人間は悪を抱いて産まれると考えているんだ。
誰もが心の内に獣を抱えている。
普段は皆それを抑えて暮らしているが、時折…そう、時折怒りや悲しみや、とにかく大きな感情の動きでその獣が顔を出してしまう事があるんだ。
でもそれは仕方ない。人間は完璧ではないからね。
ただ、獣が顔を出した時は神様に許してもらわなきゃいけない。私は弱い人間でした。どうか許して下さいって。
そして願うんだ、獣を押さえ込む力を下さいって」
「それじゃあおっさんは、許してもらいたくて祈っていたの? 」
俺の問いかけに、優しく頭を撫でると彼は微笑んだ。
その手からはうっすらと血の臭いがした。
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翌朝、街はある死体の話で持ちきりだった。
その理由は2つあった。
1つはその死体が名の知れた娼館のオーナーだったから、もう1つはあまりにも凄惨な姿だったからだ。
具体的にいうと、ブロックで執拗に叩き潰された顔面は元がどんな形だったかわかるものではなかったし、一部は昨晩の大雨で流れ出していたそうだ。身元も体型や服装から判明したらしい。
だが、それだけの事件にも関わらず犯人が突き止められる目処はないようだった。
それは名が知れていた理由が娼館の規模だけではなく、女性たちへの悪辣さも含んでいたからであり、詰まる所恨みを持つものが多過ぎたからだ。
さらに、下手に突いて裏社会のものが出てきても困ると警備隊も本腰を入れ辛かったのだろう。
目を覆うような凶行に、正体不明の犯人という目立つお題目は、退屈なこの街の住民にとってはいい話のネタだった。
それに加え、恨まれて当然の裏社会の人間という被害者像は人々にとってはどこか蚊帳の外の出来事で、安心して口に出しやすかったのだろう。
そういったわけで、その話題は教会に訪れる信者たちの間でも頻繁にあがっていた。
語る口調は恐怖と憤り、しかしその裏には隠しきれない好奇心と愉悦が潜んでいた。
一方それに耳を傾ける神父のおっさんは、いつも通りの温かな表情を浮かべつつも、どこか怯えや心苦しさを滲ませていた。
信者たちはその所以をおっさんの心根の良さからだと受け取っているようだったが、昨晩の姿をみた俺はおっさんが犯人だからだろうと睨んでいた。
だからといってそれを誰かに相談したり、おっさんを警備隊に突き出すような事もしなかった。
何故なら数少ない温かな寝床を失う事は出来れば避けたかったし、それ以上に確たる証拠も、調子の良い正義感も俺は持ち合わせていなかったからだ。
それからも、あの夜の事がなかったかのようにおっさんは変わらず接してきた。だから俺も変わらず、懐かず離れずの距離で教会を寝床にした。
犯人だろうという疑いは変わらず持っていたが、不思議と恐怖や不安はなかった。
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そんな風に変わらない日々を過ごしていくうちに、事件について口にする人は徐々に減っていき、2.3週間もするとまるでそんな事なかったかのように話題を耳にする事はなくなった。
おっさんも一見すると事件が起こる前と変わらないように過ごしていたが、時折怯えに目を曇らせるのを俺は見逃さなかった。
そんな姿を見るたびに、やはりこの人が犯人なのだろうと俺の確信は深まっていった。
しかし、操作が難航しているのかはたまた警備隊も興味をなくしたのか一向に捕まるような気配はなかった。
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2ヶ月ほど経ち秋風が夜を冷やし始めたある晩、獣のような叫び声に俺は目を覚ました。ドタバタと逃げるように階下へ降りてきた何かは、そのまま脇目も振らず十字架へと祈りを捧げ始めた。
それは、神父のおっさんだった。
何かに押しつぶされるかのように縮こまり、血を吐くように祈るその姿に俺は声を掛けることも出来ず、かといって目を逸らす事も出来ずに立ち尽くしていた。
どれくらい経っただろう。
荒い呼吸も震えも止まったおっさんは祈るのを終え、そこでようやく俺の存在に気付いたようだった。
軽く驚き、そして何かに納得したような或いは観念したかのような寂しそうな微笑みを浮かべ、呆然とする俺の方へと歩み寄ってきた。
「情けない姿を見せるのは2度目だね」
少し照れくさそうに。
「そうだな、大人でもあんな風に情けなく震えるんだな」
俺は生意気にそんな口をはたいた。
おっさんはまた、寂しそうに微笑んだ。
それから、何かを飲み込むかのように一拍置くと
「私が殺したんだ」
と告白した。
その顔は、泣いているようにも笑っているようにも苦しそうにも安心しているようにも見える今まで見たことない表情で、俺は吐く息に乗せて「そうかよ」と呟くので精一杯だった。
どうして俺に、なんで今、俺はどうなるのかどうすればいいのか。そんな疑問が頭の中で渦巻いていたけれど、それ以上に何かを覚悟したようなおっさんの雰囲気が俺に耳を傾けさせた。
「君は優しい子だ」温かな眼差しが真っ直ぐにこちらを見つめた。
「あの夜の姿を見た君は、僕が犯人だろうときっと気付いていたはずだ。それでも誰かに告げる事も、逃げる事もせずに私の誤魔化しに付き合ってくれた」
違う、そんな事ない。と口に出そうとするけれど、そんな俺をおっさんは目線で制した。
「今も、こうして殺人者だと告げた私の言葉に耳を傾けてくれている……。私には、それが、出来なかった。罪人だとわかった相手を糾弾し、あまつさえ暴力へと走ってしまった」
それが何の事を言っているのか、恐怖と後悔に歪んだ顔をみて俺は察した。
何があったのか、どんなやりとりをしたのかはわからない。けれどおっさんはその中で、自分の中の獣を抑えられなくなってしまったのだろう。
「本当に私は弱い人間だ。自分の半分も生きていない君に懺悔をする程、弱く、醜く、情けない」
項垂れ絞り出すその言葉に、俺は何も返す事が出来なかった。
「私は、許してもらえるのだろうか」
その問いかけは俺に対してなのか、殺した男へなのか、どこかにいらっしゃる神様に向けてなのか、それともおっさん自身になのか空中にぽつりと投げ出された。
「わからない……けど…獣だったらそんなに悩まないんじゃないかな」
ボソリと零した俺の言葉に、おっさんはハッと顔を上げた。
「やっぱり君は、優しい子だよ」
その声は、今にも泣き出しそうほど震えていた。
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その後おっさんは、ありがとうと俺の頭に手を置くと温かなミルクを淹れてから出て行った。
なんとなく、もう会えないような気がしたけれど、緊張の糸が途切れたからか急速に襲ってきた眠気に抗えず、ただぼんやりと見送った。
翌朝は気持ちの良い秋晴れで、信者たちが訪れる前にと、俺はそそくさと教会を後にした。
おっさんはまだ戻ってきていないようだった。
いつものように、気の抜けた買い物客や不用心な露店商から朝食を拝借しようと市場の雑踏に潜り込み、耳を澄まし目を凝らして獲物を探した。
「-----神父-------殺された----」
普段ならノイズとして聞き流す世間話。
けれど、その日の話題は、言葉として突き刺さってきた。
曰く、数ヶ月前の殺人事件の犯人として神父が出頭したとの事。
曰く、けれども警備隊が連行する最中に何者かに射殺されたとの事。
立ち話をする中年の女性たちは見るからにいいカモだったが、俺は何も盗れないままその横を通り過ぎていった。
「そうかよ……」
言葉が溢れる。
「おっさんは、それでよかったのかよ……」
死の瞬間、おっさんは何を思ったのだろうか。裁きへの、苦悩からの解放に安堵したのだろうか。それとも恐怖や後悔に張り付かれたのだろうか。
どちらにせよ、人であろうとおっさんが葛藤する事はもうないのだ。
それが何故だか変に悔しくて、そして寂しくて、涙が零れそうだった。
あぁ、俺は、あの人が好きだったんだな。
暗い知らせや心とは裏腹の澄み切った青空を見上げ、俺は一声
「にゃー」
とないた。




