謎多き水神先輩はその本が欲しい!
この俺、嶌田東也が水神夜宵と出会ったのは高一の夏、図書室で読みもしない「こころ」の感想文を書いていたときのことだ。
それは夏の暑い日だった。蝉の音。制汗剤の匂い。エアコンの設定温度は27度。淡い汗をかきながら、俺は原稿用紙の八割五分を占める空白を眺めていた。
ペンを回す。ガチャン。
ペンを回す。ガチャン。
ペンを回す。成功。
「書けねぇ。」
俺はそう呟いてのびをした。本の帯すら外していないのだから当然である。課題図書は今やただの肘置きに成り下がっていた。諦めよう。俺は20分の格闘の末そう決めた。カバーに貼り付いた腕をひっぺがし、しばし表紙を睨んだあと、本をリュックに放り込んだ。
「その本。」
「えっ」
水のように澄んだ声が突如左耳の後ろから響いた。反射的に振り向くと、そこには見知らぬ顔があった。美人だ。気の強そうな眼。ちょっと釣り眉。肩にかかる癖のない黒髪。最後に目についたのは前髪を留めている水色のヘアピンだった。
「それ、読まないの?」彼女は続けた。
「うん」
「何で?」
「本、嫌いだから。」
「ふーん」
彼女はリュックに詰められた小説を見つめながら何かを考えているようだった。ちなみに俺が考えていたのは「それよりあんた誰?」「何がしたいの?」「帰ってPUBGやっていい?」。ややあって二番目の疑問への答えが帰ってきた。
「その本、私にくれない?」
「何で?」
「押し花を作りたいの。」
「押し花ァ?」
常識知らずな物言いについ声が大きくなってしまった。奥の机から受験生の舌打ちが聞こえた。彼女は少しきまりが悪そうに声を落とした。
「……ごめん、失礼だったよね。急に譲ってなんて言ってごめんなさい。でも、今どうしてもそれが欲しいの。よかったら買わせてもらえないかな?」
それが先輩との出会いだった。
「私、二年の水神夜宵。今美術室が空いてるからそこで話さない?」
美術室は、二階の図書室の真下にある。向かう間、俺は水神先輩の少し後ろを歩いた。先輩は美人である。重ねて言うが、美人である。100人に聞けばまあ99人はそう答えるだろう。一人は逆張り。ただ彼女には美人というだけでは説明できない雰囲気がある。何というか、"絵になる"。まるで周りの風景をまとめて一枚の絵に変えてしまうような、独特の空気を纏った人だ。先輩が階段の踊り場に飾られた海の風景画の前を横切ったとき、彼女が本当に浜辺を散歩しているように見えたのは、決して俺の目の問題ではないだろう。
水神先輩が美術室の扉を開けると、中には誰もいなかった。油絵具の匂いがつんとする。床が汚い。壁に沿って描きかけのキャンバスがいくつも立て掛けてある。歩きながら未完成の絵を眺めていると、俺の中の芸術評論家もどきがむくむくと膨れ上がり、失礼な採点を始めた。
下手。下手。普通。下手。下手。
「300円」水神先輩が薄水色の財布を覗きながら俺の本を値付けた。
「……別にいいですよ、ただで。」
下手。めっちゃ下手。下手。まだ下書き。
「どうして?お金いらないの?」水神先輩が訊いた。
「……俺が本を持ってたって、どうせ読みもせず古本屋に売りに行ってただで引き取られるってオチですから。それなのに先輩からお金貰っちゃ悪いですよ。」
下手。下手。下手。……そういえば先輩の絵はどれだろう?
「私を古本屋と一緒にしないでよ。いいから貰っといてほら!」
「はあ。」
そう言って水神先輩は俺の掌に300円を押し込むと、勝手に背中のリュックを開いて『こころ』を持っていってしまった。先輩は青のスクールバックを生徒机に放り投げると、自分は教壇に陣取った。
「それより暑いよねー。ねぇジュース買ってきてよ」
水神先輩が手団扇をしながらぼやいた。
「それ、俺に言ってるんですか?嫌ですよ。自分で行って下さい」
「さっき300円あげたでしょ?」
「これはもう俺の300円です。パシるんならもう300円ください。」
水神先輩は一瞬財布と相談して、すぐに小銭入れを閉じた。
「ケチ……」
先輩はウォータークーラーまで水を汲みにいった。
「何ですかそれ?」
水は汲みに行ったはずの先輩は、なぜか両腕いっばいに書道の半紙を抱えて帰って来た。
「書道部の友達に貰ってきたの。」先輩は事も無げに答えた。
「そっか、男の子はこういうの知らなくても不思議じゃないよね。これね、押し花に使うの。」
確かに押し花の作り方なんて知らなかった。
先輩が作るのを横で見ていたら以外と簡単なようで、要するに適当に並べた花を半紙2枚、新聞紙、本の順にハンバーガーにすればいいらしい。つまり、半紙はどう考えても貰いすぎだった。
水神先輩が押し花にしようとしていたのは俺の知らない花だった。
「これ、なんていう花ですか?」俺は訊いた。
「知らない。水色で綺麗だったから一輪だけ持ってきたの。」
そういえば水神先輩のヘアピンも財布も水色だったなと、俺は思い出した。この先輩は何やら水色にこだわりでもあるらしい。
「……でもこの花、そのへんに生えるような花じゃないですよね?これ、どこから持ってきたんですか?」
「……道。」水神先輩が真顔で答えた。
「道。」俺はおうむ返しをした。
花を挟む作業が終わった。
「よしっ。あとは重石を乗せるだけ。」
先輩はそう呟くとーー
花を挟んだ小説の上に、デッサンに使う石膏の生首を乗せた。
「………………え?」
俺は目を疑った。何をしているんだこの人は…?小さな文庫本の小説の上に石膏の像なんて大きなものを乗せて、バランスを保っていられるはずがない。そう思ったときには時既に遅し。机から滑り落ちた石膏像は側頭部を床にしこたまぶつけ、欠けてアンパンマンみたいになってしまった。
水神先輩はそんなことお構いなしだ。
「あ~、石膏像じゃだめだったか……極論、本に圧力さえかけられればいいのよね。そうだ!本を座布団代わりに敷いて授業受けようかな。……いや、でもやっぱり、仮にも人が魂を注いで書いた本をお尻に敷く訳にはいかないよね。」
「…何を言ってるんですか?」
「そうだ、あれを……!」
水神先輩は美術準備室に飛び込むと、今度は画板と万力を持って現れた。先輩は本を二枚の画板で挟むと、それを側にあった万力で絞め上げ始めた。
……このあたりで、だろうか。水神先輩の一連の行動を見守っていた俺は、ふとこう思った。
『なんだこの光景は。』
「おりゃっ!」
万力に足を掛け、全体重を乗せる女子高生が目の前にいた。埃っぽい床には右頭蓋の欠けた石膏像とその破片が転がっている。大量に余った半紙が教壇の上で雪崩を起こしている。
俺は目の前に広がる景色を眺めながら、水神先輩の今まで行動を走馬灯のように振り返っていた。そして一つの結論に達し、一人納得した。
ああ、そっか。
…………この先輩アホなんだな。
世の中には、何かに夢中になると周りが見えなくなる人種がいる。この先輩もきっとその一人なのだろう。
さて、このあたりで正直に告白しよう。俺がこの謎だらけの先輩に言われるまま、のこのこと美術室までついてきたのは、何を隠そう水神先輩が美人だったからである。先輩がタイプど真ん中だからである。美人の先輩と美術室に二人きりというシチュエーションがこの上なく刺さるからである。
しかし、今や俺の勘はけたたましくサイレンを響かせ危険を告げていた。ヤバい。もうこの先輩に付き合うのはやめよう。でないと後々何か面倒事に巻き込まれる予感がする、と。
だというのに、この謎多き水神先輩はそんな俺に屈託のない笑顔を向けて無邪気にもこう言い放つのである。
「嶌田くん!君のおかげで押し花ができた!ありがとう!!」
今のところ、『こころ』は万力でがっちりと掴まれて動く気配もない。




