さとうまじめ 2
あの頃、一人で殻に閉じ籠っていた俺に声をかけてくれた時の彼女と同じ。幼い頃の俺は絵に描いたような優等生で、一言で言えば、“The 真面目”。他者からの認識と自分のそれに大して差はなかったように思う。友達という友達も作らずに、一人で教室の隅っこで本を読んでいるような奴だった。俺自身一人が楽だと思っていたし、大して面白いとも思えないようなことで周りに合わせるのは苦手だった。
それに、あの空気感が好きじゃなかった。あの年頃特有のとでも言えばいいのか、“面白い奴こそ正義!”、“目立つ奴が言うことは絶対!”、みたいな目には見えない教室中を支配する、いや寧ろ学校というコミュニティを支配する、そんな空気だ。勉強ができる奴より運動ができる奴。大人しくそこにいるだけの奴より派手に目立つ奴。陰より陽の要素が強い奴の方が偉くて、一軍だとか二軍だとかに勝手にランク付けがされていく。誰が宣言したわけでもないのに自然発生的に作り出される、その空気が苦手だった。
ボケられるでもなく、面白いリアクションが出来るわけでもなかった俺が、その見えない空気に馴染めるはずもなく――。
集団行動、集団生活が当たり前の学校というコミュニティの中で、その空気に馴染もうとしない俺はイレギュラーな存在なわけで。そして、またそれをよく思わない奴等も出てくるわけで。俺を“つまらない真面目な奴”だと認定したそいつ等は俺を吊し上げにしたがった。自分達より下の存在を作って優位に立ちたかったんだと思う。俺の名前が“はじめ”ということもあり、“さとうまじめ”、“まじめ君”等と分かりやすいあだ名を付けられた。最初はそんな軽いものだった。
だけど、俺をからかっていた連中は、一体俺にどんな反応を期待していたのか。みっともなく泣き叫ぶ姿か、それとも情けなく媚びへつらう姿か。期待していた反応が見られなかったからなのか――元々俺はそんなに表情を作るのが得意じゃないんだ――からかいの内容はどんどんエスカレートしていった。主犯グループ以外の周りの奴等も俺のことを“まじめ君”としか呼ばなくなっていたし、終いには、担任すらも出欠確認で“さとうまじめ”と呼ぶようになっていた。
皆が皆、そう呼ぶものだから、きっと自分の本名を知る奴なんて誰もいない。今更、訂正したって意味がないんだと俺は小学生ながらに諦めていた。我ながら冷めた性格をしていたと思うよ。
そんなある日の放課後、彼女は現れた。朝からからかわれ続けて疲れが溜まっていた俺は教室で机に頭を預けながら、物思いに耽ふけっていた。
「ねぇ、帰らないの?」
静かな教室に響いた可愛らしい声。しかし、まさか自分に向けられたものだとは思っていなかった。
「ねぇ、佐藤くん。さとうはじめ君」
え……、俺?
慌てて体を起こすと机の前に同じクラスの女子が立っていた。他の奴等はいつの間にか帰っていたようで、ここには自分と彼女しかいない。
「もう、みんな帰っちゃったけど帰らないの?」
不思議そうに自分を見つめるくりっとした目。何とも言えない感情が湧き出てきて、思わず目をそらした。そういえば……
「名前……」
思わず呟いていた。
「え、何?」
彼女は俺と同じ目線になるように踞んで、首を傾げている。
「俺の名前知ってたんだ」
「うん? そりゃ、同じクラスだし知ってるよ」
当たり前でしょ? と覗き込んでくる目はどこまでも純粋だった。
「先生ですら俺のこと、“さとうまじめ”って呼んでるし」
「あぁ、そういえばそうだね。でも、あの先生はたぶん本気で間違えてるんだと思うよ。なんだろなぁ、抜けてるっていうか天然っていうか。先生に言えば? あの先生なら、ちゃんと直してくれると思うよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
今時、キラキラネームなんて言われるくらい色んな名前の子がいるくらいだからね。あの先生、本気で佐藤くんのこと“まじめ君”だと思ってるんだよ。
――なんて、どこにそんな自信があるのか。そんな事を事も無げに言う彼女。そこまで言い切られてしまうと、彼女の言う通りかもしれないと思えてくるから不思議だ。すると突然、彼女は「あれ? 待って待って」と言って慌て出した。
「佐藤君、もしかして私のこと知らないの?」
まさかだよね。と見られるが、そこは許してほしい。何故標的にされたのかも分からず、今まで散々からかわれ続けた――意地でも苛められたとは言わない――俺は他人に期待することも興味を持つこともとっくに諦めていたのだから。だけど、申し訳なさが無いわけではない為、正直に伝えてみる。
「同じクラスなのは知ってる」
「名前は?」
…………。
そんな馬鹿なと言いたげな視線を向けられ思わずごめん、と呟いていた。
「まぁ、いいけど。私は、鳴瀬結希」
「なるせ……さん」
「そう。あ、私のことは名前で呼んで。別のクラスにね、双子のお兄ちゃんで鳴瀬葉瑠っていうのがいるの」
「へぇ、鳴瀬さんって双子なんだ」
「そうなの。――って、違うでしょ! 名前で呼んでって言ったじゃない。私もはじめ君って呼ぶからさ」
「分かった。これからはユキちゃんって呼ぶよ」
拗ねたように頬を膨らましたり、パッと弾けるような笑顔になったり、彼女はころころと表情が変わる。
初めて言葉を交わしたこの時から、既に俺は彼女に惹かれていたのかもしれない。俺の閉めきっていた心の扉はいとも簡単に開けられてしまっていた。