第43話 信昭公の決意
やっと、やっと投稿できた。
自室の布団の上で、春香は目覚めた。
一瞬記憶が混乱したが、道場で何が起きたかはっきりと思い出し、春香は羞恥心と悔しさで頬を赤く染め、唇を噛んだ。
暫くして、はっと我に返った春香は、噛むのを止めると、手で唇を拭った。そう、そこはアロイスが触れた場所であった。
上半身を起こすと、春香は、両の拳を太股の上に置き、血が出るほどに強く握り締めた。
春香は、沈んでいた。
対外仕合で初めて負けたことに対しては、そんなに重く捉えていなかった。人がやることなのだ、いつかは負ける時が来る。齢二十を前にして、春香はそう達観していた。
春香が沈んでいるのは、そんなことが理由ではなかった。
ただ不甲斐なかったのだ、自分のことが。
あんな負け方をするくらいなら、そしてその結果、あんな気骨の欠片も感じない不具者の慰み者になるくらいなら、自害して果てた方がどんなに良いだろうか。
ただ情けなかったのだ、自分のことが。
しかし、自害など敵わないことも、春香には分かっていた。己が身の身請けが条件で仕合に臨んだのだ。その約束を反故にするなど、武家の娘として、家名に泥を塗るような行為であることは誰よりも分かっていた。
春香は、握り締めていた両の拳を開いた。指の細い女の手とは言え、至る所に豆やタコが出来ていた。今まで積み重ねてきた鍛錬の激しさを彷彿とさせるその手は、まさしく誇り高い武人の手であった。しかしまた、女故、武人として腹を召すことも許されない。女武芸とは因果なものよ。昔聞いたその言葉を、春香は噛み締めていた。
◇◇◇
「お、お館様!今、何とおっしゃられました!」
「春香は、あの者に、あー、何と言ったか、そうそう、アロイスとやらに任せようかと思うておる、と言ったのだ」
「お館様、本気でございますか。お戯れにも程がありますぞ」
信春は、断じて容認できないと、信昭公の顔を見据えた。信昭公は、その眼光を受け流し、こう言った。
「信春よ」
「はっ」
信昭公は目を細めた。
「主人より強い嫁の貰い手など、まともな武家にあるかのう」
「そ、それは」
信春は、鍛錬を積む毎に春香が確実に強くなるのが嬉しくて仕方なかった。打てば響く小槌のように、幾らでも水を吸い込む海綿のように、春香は信春の教えに応え、技術を吸収していった。恐ろしいまでの才能の持ち主、天賦の才という言葉では生ぬるい程の力。自分では到底届かない頂に至ろうとする春香に、信春は信奉に近い感情でもって接していた。しかし、一方でそれは彼女の将来を確実に狭める行為でもあった。
「何、お前を責めているわけではない。春香をあそこまで良い娘に育ててくれたお前には、言葉では言い尽くせぬほど感謝しておる」
「は、勿体なきお言葉」
「ただな、実際は先程の通りよ。生まれが生まれだけに、こうなってしまうのは分かっていたことだが、いざとなると、不憫で堪らぬ。親とは、勝手な者よのう」
「そのようなことはありませぬ」
「最も、貰い手があっても嫁に出すわけにもいかず、かと言って、道場でも開かせるわけにもいかず、戦場にも居場所など無い。不遇な子よ」
信昭公は、窓より中庭を見やった。中庭には、鮮やかな緑の見事な葉桜が一本あった。春香が生まれたときに、植えたものであった。
「あの、アロイスとやらは、春香より強いのであろう?」
「仕合では勝ちましてございます」
「……勝ち方は聞いておる。しかし、あの刀を切り飛ばすとは、なかなか豪快ではないか」
信昭公は声を立てて笑った。あの刀は、只の刀ではない。振っていた春香も知らないことではあったが。
「ですが」
「信春」
信昭公は信春を見据えた。強い、鋭いその眼差しは、続く言葉の重さを物語っていた。
「ワシは、春香より強いであろう、そのアロイスに任せると言ったのだ。異存あるまいな?」
「……、はっ」
暫し間を置いたが、信春は肯定の返事を返した。主人の決めたことに、とやかく言うことは無粋であった。本来であれば、一番気が重いのは主人のはずなのだ。思い至った信春は、自らを恥じた。
「ふむ。……そこでだ、信春。お前に、お前を見込んで頼みがある」
「は、何なりと」
「春香のお目付役として、一緒に行って欲しいのだ」
頼み、と言われた時に、何となく察しはついていた。信春は、少し考え、信昭公に応えた。
「……、条件をひとつ」
「何だ、珍しい。申してみよ」
「あの男、春香様に相応しいかどうか、私が検分するということで、よろしいですね」
信春は、信昭公を改めて見据えた。信昭公は、軽く手を振った。
「構わん、好きに受け取れ」
「では、相応しくない場合の処断は」
「それも任せる」
「……、主命、承りましてございます」
「頼んだぞ、では下がれ」
促され、信春は信昭公の前を辞した。誰もいなくなった部屋で、少し間を置き、信昭公は声を発した。
「これで良いのか、桜」
誰も居ない部屋に、どこからともなく現れたのは他の誰でもない、桜であった。彼女は音もなく信昭公の前に座ると、頭を下げた。
「はい、信昭様。辛いご処断、ありがとうございます」
「あの男は、本当に『ケガレの者』なのか?」
「はい、なかなか筋の良い方でございますよ」
そう言うと、桜はにっこりと笑った。刹那、信昭公の背筋に悪寒が走った。彼は、震えそうになる体を拳で抑えながら、わざとらしく伸びをひとつすると、彼女に問うた。
「……そうか、巫女の後見であり、佐久夜姫の化身たるそなたの言うことだ、これ以上は言うまいて。ただ」
信昭公は桜を睨み付けた。
「もし春香に万一の時は、ただで済むと思うなよ」
「分かっております故、ご心配なさらず」
「そうか、なら良い。もう下がってくれ」
「はい」
信昭公は独りになると、深く深く息をついた。
「全く、……世話の焼けるものよな」
中庭の葉桜は、今を盛りに生い茂っていた。
月1ペースとか、我ながら遅すぎる……。




