第35話 思いは巡る
話を終えた後、佐久夜さんは少し用事があると言って部屋を出て行った。俺は、湯船もあるということだったので、久方ぶりにゆっくりと風呂に入ることにした。
風呂は、何だか旅館の大浴場にある露天風呂みたいであった。一緒に入って世話をすると言って譲らなかった桜さんが、俺の背中を流してくれている。
「桜」
「はい」
ふと、背後にいる桜さんを呼んだ。ちょうど良い機会だ、前から不思議に思っていたことを、この際聞いてしまおう、と俺は考えたのだ。
「桜は何故、俺に親切にしてくれるんだ?何故こんなに尽くしてくれるの?」
「私がアロイス様の奴隷だから、ではいけませんか?」
「じゃあ、奴隷じゃなくなったら、親切にはしてくれなくなるのかい?」
俺は冗談っぽくそう言った。俺としては、すぐに切り返しが来ると思っていたのだが、桜さんから返事は無かった。それどころか、さっきまで布で俺の背中を洗っていた手も、止まってしまっていた。
「さく…」
俺は桜さんの名前を呼びかけて、止めた。柔らかい感触が背中を包むのを感じたからだ。しばらくの静寂の後、俺の耳元で、小さな囁きがあった。
「……アロイス様はいじわるですね」
挑発するようなその甘美な響きに、俺の心臓が、飛び跳ねた。
◇◇◇
ひととおり終わった後に、俺は桜さんと一緒に湯船につかっていた。そう言えば、彼女とこうやって肌を重ねるのも随分と久し振りだ。横に一糸纏わぬ姿で寄り添ってくれている彼女を見ていると、久し振りの風呂で血行が良くなったせいか、どうにも元気が良くて困るのだが、ここは我慢しよう。しかし、本当に綺麗な人だな、剣術も相当な腕前のはずだが、肌には傷一つ無い。そう、傷一つ、無いのだ。実は、最中に気付いたのだが、何となく久し振りを優先したゲス野郎である。が、やはり気になるものは気になる。
若干聞いてはいけないような気もしたが、このままモヤモヤするのは精神衛生上よろしくないと判断し、俺は口を開いた。
「桜、そう言えば、胸は大丈夫だったのか?」
「む、胸ですか?あ、あの、それはどういう…」
桜さんは、言葉を最後まで言うことなく、顔を真っ赤にして俯き、こちらを窺うように上目遣いで見てきた。彼女は、明らかに狼狽えていた。何か確信を突くような質問をしたのだろうか。
「あ、いや、言いにくかったら良いんだ、無理に聞こうとは思っていないよ」
俺は桜さんに極力優しく微笑みかけた。きっと言えないような事情があるのだろう。
「あ、あの、その、……大丈夫、なんですが、もう少しだけ優しくしていただけると嬉しいです…」
消え入りそうな声で言った桜さんの言葉の意味が、俺には、何を言われているのか暫く理解できなかった。前後の脈絡を考えずに発言した俺が悪い、のか?
流石に訂正して聞き直す度胸は、俺には無かった。
風呂から上がると、サマンサさんがニヤニヤしながら体を拭く布を持ってきた。中年のエロ親父かお前は。実は桜さんをいじるのが好きなんだよねぇ、この人。澄ましていれば桜さんに負けず劣らずの美人さんなのに、残念感が漂ってるよ。
部屋に通されると、待ちくたびれたのか、佐久夜さんは既に一献傾けていた。
「仲睦まじいのを肴に、というのも悪くないですね」
なんだそりゃ。
◇◇◇
膳が運ばれ、食事が始まると、俺は言葉を失った。
「どうされましたか?お口に合いませんでしたか?」
煮物を一口食べ、若干固まりかけていた俺を見て、佐久夜さんが不思議そうに問うてきた。俺は慌てて首を振った。
「あ、いや、とても美味しいです。とても。というか、懐かしい味です」
久し振りに、飯を食った気がした。
「そうですか、アロイス様の故郷の食事に似ているのですか?」
佐久夜さんは笑顔で聞いてきた。
「何故、……いや、そうですね、似ていますね」
実際は、似ているというよりも、そのままだった。煮染のようなその煮物は、とても優しい味だった。
「甘みが割とありますね。調味料は、何を使われているのですか?」
俺は、何気なく聞いていた。外国で久し振りに食べた日本食、といったところなんだろうか。こちらにやってきてから、素材の味全開な料理しか食ってなかった俺には、こういう“味気のある”食事は、本当に嬉しかった。
「アロイス様がご想像のもので合っていると思いますよ」
佐久夜さんはそう答えた。この人は、やはり何というか、全部分かっていそうな、知っていそうな雰囲気だな。
「そうですか、こちらにもあるんですね。何やら、安心しました」
佐久夜さんは微笑んだ。
食事も終わり、俺はひとり部屋に残されていた。そう言えば、こうやって完全にひとりになるのも久し振りだな。改めてひとりだけになると、どうしても色々な思いや感情が巡り始める。
ともすれば、人は自分を特別な存在だと思いたがるものだ。しかし、現実には特別な存在など、居はしない。人間は、常に孤独で小さいものだ。短い一生を、孤独に耐えながら生き、あるいは耐えられずに逝くのだ。俺もそんな小さな人間のひとりに過ぎない。そんなことは分かっている。
翻って、今の俺の現状を鑑みるに、明らかな異常事態と言って差し支えないはず。そして、今のところ俺以外の、文明的に同レベルの世界を生きている人間とは遭遇していない。いや、隠しているだけなのかもしれない。腕時計やスマホが神代の魔法具などと言われるような世界だ、うっかり21世紀地球の科学技術を披露しようものなら、良くも悪くも注目の的になることは間違いないだろう。
俺だけ、なのだろうか。いや、そんなことはないだろう。きっと似たような境遇の人間はいるはずだ。
一番の謎は、やはり桜さんだろう。彼女は一体何者なのか、何が目的なのか。彼女が、俺にこだわる理由が全く分からない。思い当たる節もない。当たり前だ、面識も無いのだし、接点がまるで見当たらない。まあ、異世界に飛ばされているということを前提に考えるのであれば、彼女が何者なのかは、分かったところであまり意味は無いのかもしれない。
桜さんが俺をこちらの世界に呼んだ可能性はある。どうやってかは分からんが。桜さんではなくても、例えば佐久夜さん、彼女はあからさまに怪しい。佐久夜さんが関与している可能性は濃厚だ。特に、俺の本名を知っていた。幾ら漢字が読めるにしても、鞄の中の紙切れに書いてある文字を読んだだけで、何も知らない相手がいきなり偽名を使っているなどと考えるだろうか。
と、ここまで考えて、俺は結局は同じ結論に達する。色々考えたところで、俺が偽名を使っているのは事実であるし、ここが地球ではない、純粋に過去でもない、どこか異世界であろうことも、恐らくは事実。そして、この異世界で俺が生きていくには、桜さんや佐久夜さんの力を借りなければいけないことも、厳然たる事実なのだ。今やるべきは、真実の追究ではなく、まずは己の生存環境を確立し、現世帰還の可能性を模索することだろう。生きてさえいれば、可能性は常にある。少なくとも、俺はそういう生き方をしてきた。それは、場所がどこだろうが変わらない。そうなったときに、彼女たちがどこの誰か、何の目的があるのか、それは大した問題ではない。結局は今のところ彼女たちを頼らざるを得ないのだから、その意図に沿うように動くしかない。そういうことだ、俺は悪くない、うん、悪くない。
とかまあ、小難しいことを考えて、俺は桜さんとの逢瀬を楽しむ大義名分を得るのに必死なのであった。嫁様への説明責任を果たす、その日に備えねばならぬものでな!




