第18話 目覚め
俺は、桜さんに支えられて、ベッドから起き上がると、彼女が差し出した白湯を飲んだ。只の水だったが、心に沁みた。それと同時に、彼女に対して、止めどない罪悪感が湧いてきた。俺は、こんなにも優しい女性を、不貞の果てに蹂躙してしまったのだ、と。
持っていたコップから、視線を彼女の顔に戻した。彼女は、相変わらず女神のような、吸い込まれそうな微笑を湛えて俺を見ていた。
「具合はいかがですか?」
桜さんは、コップを持つ俺の手を、自分の手で包むように支えた。俺の手が震えていたのだろうか。彼女の、俺のことを気遣う雰囲気が伝わってきた。自分の心が押し潰されそうになるのを感じ、俺は堪えられずに声を出した。
「ここがどこかも、どうやって来たのかも、分からないんだ」
俺は、どうかしていた。俺の身に起こっているであろう、有り得ない話を、桜さんにしていた。こんな馬鹿げた話、他人が聞いたら一蹴するだろう。でも、何故だか分からないが、桜さんなら聞いてくれる、そんな確信めいた気持ちがあったのだ。
「……という次第でね、私自身どうやってここまで来たのか分からないんですよ、桜さん」
「少し、よろしいですか?アロイス様」
「あ、何でしょうか」
桜さんは、真剣な眼差しで俺の顔を真正面から見据えた。あー、これはきっとアレだ、コイツ大丈夫か?みたいな感じかな。疲れてるんだろうから寝ろ、とか、そういうこと言われるかな。俺はドキドキしながら彼女の言葉を待った。
「私のことは、桜、とお呼びください」
「は?」
え、何を言ってるのこの人は。文脈的にどういう流れなのか、さっぱり分からないんだけど。
「私から申し上げることではないことは重々承知しておりますが、敢えて申し上げます。奴隷に敬称などをつけるものではありません。それに……」
「それに?」
桜さんは言いよどんでいた。何だろう、言い出しにくいんだろうか。俺の社会では無かった風習や風俗でもあるのかもしれない。
「……それに、私がそう呼んで欲しいのですが、ダメでしょうか?」
上目遣いでお願いが来ました。あー、この子ちょっとあざといよ、やっぱり。でも可愛いんだよちくしょう。それに、物欲しそうな顔で見つめられるとか、そんなことされると、ここ最近の俺はどうにも我慢が……。
「桜」
「はい」
呼び捨てにされた桜さんは、凄く嬉しそうだった。そんな嬉しそうなキラキラした目で見られると、また暴発しそうになるな、おかしいな俺、病み上がりだよな。まあ、しかしここは何とか踏ん張る。話が進まなくなるからな。
「……あのね、俺もどうしたら良いか全然分からないんだけど、桜はどう思うかな」
しまった、余りに漠然としているな、この問いかけ。俺なら、何を?そんなこと知らんわ、とか答えて終わりそうだが。
「そうですね」
桜さんは少し考えるような素振りを見せたが、そんなに間を置かずに答えた。
「ご自身の思いに、素直に従えば良いと思いますよ」
「そうか、そうだよな」
自分で考えているようでも、そこには神の導きがあるのです。この国ではそう信じている人が多いようですよ、と桜さんは教えてくれた。
念のため聞いてみたが、全く違う世界から人がやってきたなどという話は、おとぎ話以外では桜さんは聞いたことが無いらしい。桜さんの反応があまりに普通だったので、こちらでは幾らでもある話なのかとも考えたのだが、そういうわけでもなかったようだ。
当面は、どうこうしても仕方ないのであれば、情報収集に徹するしか無いか、と考えていた時だった。
「ひとつ、ご提案があるのですが」
「え、何でしょう桜さ、いや、……何かな、桜」
桜さんからの問いかけに、思わず素で答えかけて、そうそう呼び捨てだった、と思い出した。そして、呼び捨てだったら丁寧口調もおかしいよなぁ、と言い回しを変えてみた。結果、大正解だったらしく、桜さんは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。私の希望を聞いてくださったこと、嬉しいです」
「あ、いや、て、提案、そうそう、ご提案って何?ご提案」
核魚雷を食らってあっさり撃沈どころか蒸発しそうになる自分の理性を必死で手繰り寄せながら、俺は桜さんの方に身を乗り出しつつも呪文のようにご提案と繰り返した。
「あ、その、ひとつお役に立つやもしれない話があるのですが」
桜さんは、笑顔のまま身を引きつつ、すっと立ち上がった。避けられた?今俺避けられた?おじさんちょっと悲しい。
「そ、そうですか。……で、どんな話?」
若干身の置き所を失った感のある俺に、桜さんは、変わらぬ笑顔で言った。
「お話も良いのですが、その前にお食事はいかがですか?」
そうだった、寝込んでからまともに何も食ってなかったな、そういや。俺ってば、食い気より色気になってたのか、なんとも恐ろしい。
もう少し、もう少し。