第1話 ここはどこ?
高架下を抜けると、そこは広場だった。
穏やかな日差し、がやがやとした喧噪の中、人々が行き交っていた。簡易テントのようなものが連なり、また露天商のようなものが並んでいる様が、まるで小さな市場のようにも見えた。俺は、呆然と立ち尽くして、その光景を見ていた。
「あれ?俺は忘年会の帰りで、駅南にタクシーを拾いにきたはずだったんだが」
そう、俺は勤務が終わった後に職場の忘年会に行ったのだ。そして、帰宅すべく駅までやってきたが、疲れていたこともあり高いけど帰りはタクシーでいいやー、とばかりに駅の南側にあるタクシープールにやってきたはずだった。それが何故こんな見たことも無い、しかも真昼の広場に来ているのか、さっぱり理解できなかった。はて、と思いを巡らそうにも、普段の俺からすれば割と飲んでしまったので、アルコールが相当回っているのか、脳が考えることを拒否していた。そしてもう何だか面倒なので、取り敢えず分からんもんは分からんと棚上げすることにした。不思議と来た道を戻る気は全然起きず、一体どこだここは?と軽いノリで俺は行き交う人々の中に入っていった。
俺は観光客気分で、辺りを観察しながら宛もなくフラフラと店らしきものの間を歩いた。まず、俺は行き交う人々の風貌に言葉を失った。所謂外人だらけなのだ。俺の住んでいる地方都市では、そこそこ外国人も見かけるが、この広場はどうだ、外人しか居ないではないか。しかもその服装ときたら、皆一様にくすんだような色の服ばかりで、パッとしないのばかりだ。というか、時代的にかなり古くないか、その格好。
店らしきものに置いてある品物にも目をやる。荷押し車や屋台、または地面に敷かれた布の上に置かれたりして並んでいる品物は、どれもこれもイマイチ印象に残らなかった。野菜は形が不揃いで、色もそんなに美味そうではなかった。肉は、そう言えば売ってないな、魚も無い。こんな野菜ばかりだったら、農協の友人が見たら怒りそうというか、呆れそうというか。まあ、映画とかで見る外国の市場に似ているような気もしないではない。
次に、俺は視線を上げ、広場全体を見渡した。ヨーロッパの古い街、とでも言えば良いだろうか、昔行ったイタリアのヴェネチアのようだなと感じた。赤茶けた煉瓦造りの建物に囲まれた、この広場っぽい場所は、雰囲気がとても似ていて懐かしい感じすら覚えた。
はて、久方振りに羽目を外したから、酒が回り過ぎて幻覚でも見てるのか。そういやトンネルくぐったら別世界で両親が豚になったとかいうサウザンドな映画もあったな。ヴェネチアなら確かにもう一度行ってみたいとは思っていたが、などと取り留めもなく考えていると、左手の指に違和感を覚えた。
「ん?指輪がない」
左手の薬指に、当然はまっているはずの、結婚指輪が無かった。どこかに忘れてきた?いや、そんなはずはない、MRIを撮った時以外で外したことのない結婚指輪だ。その時でも、節からなかなか抜けずに苦労したのだ。電話やら財布やら他のものならともかく、結婚指輪を忘れるなどあり得なかった。そんなことが万一にでも起こったら、血の制裁を覚悟しなくてはならない。しかしその万一が起こっていた。どないすんねん、俺。
念のため、他の所持品も軽く探った。ジャケットの内ポケットにスマホ、左ポケットにハンカチ、右ポケットに鍵と小銭入れ、いつもの収納場所だ。仕事でいつも持ち歩いている3ウェイのビジネスバッグの中は、仕事用にと買ったばかりのタブレット、趣味のデジカメ、スケジュール帳に筆記用具、小さな水筒にちょっとしたお菓子、折りたたみ傘に防災グッズがいくつか。あと財布に自転車通勤用のサングラスで、こちらもいつも通りであった。指輪だけ盗まれたとも考えにくい。というか、絶対に指から外さないものだけ無いとか、どんだけ。
相当な衝撃を受けたが、意識は未だ若干モヤがかかっているような感じであった。泥酔とまでは行かないと思うが、やはり割と酔っているような感じだ。
指輪が消える、縁が消える、嫁との縁、では無くて現世との縁?俺って実は死んだとか?まあ、最近仕事が激しく厳しかったから、過労死してもおかしくは無いけれど、まあ、現実的には酔い潰れてどっかで寝てしまった、ってところかな。俺、今まで酔い潰れたことなんてなかったんだけどな。そんなことしたら嫁に怒られるしな。
俺は、原因はともかく、結婚指輪を紛失するという、絶対にやってはいけないことをやってしまった感に、酷く狼狽していた。そして、次の瞬間、全てを解決した。
「うむ、これはタチの悪い夢だ。そうだ、そうに違いない」
人生における危機的状況にあたり、自分の居る場所云々など俺の中では些末な問題になっていた。思考回路は酔いを押しやり、久し振りに焼き切れる寸前まで回転し、どうしたらこの危機を乗り越えることが出来るのか、あらゆる可能性を考慮し検討を重ねること1秒。俺は、玉虫色の結論に達し、ようやく心の平穏を取り戻していたのであった。
遙かなる高みでの戦いを制し、落ち着きを取り戻した俺は、自分の置かれた状況を少しだけ考えた。夢だと分かれば、この不可思議な状況も、まあいいじゃん、くらいに思えた。そして、落ち着いた俺を襲ったのは、何となく不快な臭いだった。何故だろう、臭いのだ。鼻の悪い俺でも臭うくらいなんだから、相当臭いはずだ。俺は、周囲を見回した。
人々は、店員も客も、やはりどこかパッとしないというか、何だろう。端的に言えば、汚い。そして、恐らく臭い。服は、まるっきり中世ヨーロッパとか、その辺りを彷彿とさせるもので、飾り気などほとんど無いし、色も似たような色ばかりだ。ボロボロの浮浪者みたいなのを着ているのもいるし、多少小綺麗かなと思う人も、縫製何それ?みたいなのしか着ていない。靴に至っては、裸足の人までいた。おいおい、流石に裸足は無いだろう。夢だったら臭いとかするかねぇ?何だろう、やはりこれは夢ではない、ひょっとして映画か何かのロケ現場にでも迷い込んだか?この人たち全員エキストラ?でもそれだったら人払いしてるだろうし、今頃スタッフの人が飛んで来てそうだけど。
でも今って確か夜だよなぁ、そういや何時だろう、と腕時計を見た。時間は、うん、全く当てにならないなこりゃ。日差しと全く一致しない時間に若干の失望感を感じてしまった。まあ、無駄だろうな、と思いつつも標準電波の強制受信を仕掛けて、俺は歩を進めた。
ヴェネチアを実際見たことのある人間としては、懐かしさを覚えたものの特に惹かれるものも無いまま、俺は広場を抜け、通りに出た。地面はむき出しで、多少平らにはなっているが、雨降ったら大変だろうなぁ、という凹凸が幾つもあった。つーか、あれ馬車?東欧に行ったとき、町中の普通に車の往来がある道路で、これまた普通に馬が荷車を引いていてびっくりしたことがあったが、ここは東欧なのか?にしては、日差しや建物は明るい感じで、あんまり東欧っぽくないんだけど。という偏見丸出しな思索にふけりつつ、通りを歩いていくと、気が付けば真正面に一際大きな建物があった。
投稿はとってもゆっくりになる予定です。
まったり進行で、よろしくお願いします。