恋人たち(序、一、二)
序
ピエロは、夜空を見上げた。銀の月が、煙草をふかしている。
空中ブランコの揺れる音が、まだ耳に残っている。蛍のように灯っている。
「我々の主は、あの月だ」
ピエロは呟いた。
「人間はみんな、蒼白い制服を着ているんだから……」
一、カトリーヌ
とある街。古代の城壁や神殿の跡が、いたるところに形を留め、近世的な建築物との不気味な調和を醸している。明け方などは、乳白色の霧が一面を被っていて、足の向く先に何があるのか、見当もつかない。
にも拘わらず、人々は眼を鋭く輝かせ、留まることなく歩み続けていた。
カトリーヌは、ある財産家の一人娘で、歳は十七。汚れのない白い肌と、艶やかな黒髪を持つ、可憐な少女だった。
彼女の父親は、一代で財を成し、貴族を凌ぐ富と名声を勝ち得た人物で、夜毎宴会を開いては、名のある紳士淑女を招いて酒食を共にしていた。また、母親は彼の後妻で、これは一昔前に栄えたある貴族の血を引く娘であったが、その美貌ゆえに彼の目に留まり、妻となったのである。
カトリーヌは乳母に育てられ、昼夜を共に過ごしてきた。カトリーヌはこの乳母に、深い愛情を持っているのだが、近頃は両親に夜の宴会への出席を求められ、乳母もそれを勧めるので、気分が冴えない。もとよりカトリーヌは、両親があまり好きではなかった。子供ながら、彼らの無関心を見抜いていたからである。
あるとき乳母に、
「お父さまとお母さまは、私が好きじゃないみたい」
と漏らしたことがあったが、そのときの乳母の困惑した顔色を見て、彼女のそれは確信に変わった。その後は、乳母にさえ、両親の話をしなくなった。
「婆やまで、私に宴会に出ろって言うの?」
「それは、まあ、だってお嬢さまはもう、よいお年頃ですからね」
カトリーヌは溜め息を吐く。乳母の皺だらけの笑みの下に、例の困惑の表情が、ありありと読み取れたからである。
二、カトリーヌとアラン
カトリーヌは、銀の月明かりの下、雑木林へと駆け入った。宴会は、想像と違わず退屈で、華麗な衣装の招待客は皆、脊髄の通っていない張り子の虎としか見えなかった。
カトリーヌは林を歩き、大きなトネリコの木の下へ辿り着くと、そのたくましい幹の陰から、彼が姿を現した。
「来てくれたんだ、カトリーヌ」
二十歳くらいの若者だ。
「もちろんよ、アラン」
アランが自ら打ち明けたところによると、彼はとある道化師の息子で、父親と喧嘩をして、今は別れて暮らしているという。その外、彼は詳しい素性を明かさないが、陽気で話したがりな気質と、まるでこの林の木々の間に居を構えているかのような身軽さが、カトリーヌの若い心を魅了していた。
「この林には、七人の妖精が住んでいてね、絹のヴェールをまとって踊るんだ。君が来ないうちは、僕は煙草をくわえて、それを眺めている」
「変なの。妖精が?」
「妬いたかい? 妖精といっても、みんな男の妖精だ。ロバの頭にヒトの身体、脚はヤギで、蹄もついている。それに、こんなところには、君に敵うような美しい人は、一人もいないよ」
「街に出たらいるんでしょうね」
「おっと、訂正しよう。いや、補足かな。この世の中、どこを探したって、君に敵う人はいない」
「あの世にはいるのね」
「そう苛めないでくれよ」
林の夜の優しいさえずりに囲まれて、二人は恋を楽しんだ。
あまりの楽しさに、二人は時をも忘れ、別れる頃には既に、夜も更けていた。
「なんてことだ、カトリーヌ。僕らの愛の語らいが、純潔な月の女神の気に障ったんだ。こんなに時を進めるなんて」
「私は平気よ、怒られても。うちの両親には、却っていい薬になると思うし」
「送っていこうか」
「アラン、それはだめ。あなたの身がばれれば、一貫の終わりだから」
恋人と別れたカトリーヌは、こっそりと邸の庭へ入り込み、暗がりのなか、一本のリンゴの木に身を預ける。そこからバルコニーへと移ったとき、カトリーヌは胸を撫で下ろし、耳に恋人の声を甦らせた。
別れを惜しんだカトリーヌが、
「あなたの瞳は硝子のよう」
と言うと、彼は、
「君の硝子細工になりたい。そうすれば、君と一緒にいられるから」
そう言った。そのときの、優しい哀しみに満ちた彼の声を、ありありと思い出していた。
「それはだめ。あんまり可愛がって、うっかり壊したりなんかしたら嫌だから」
……それはだめ。あんまり可愛がって、うっかり壊したりなんかしたら嫌だから……