水面下の動き
目の前の、不機嫌さを隠そうともしない男に群青色のローブの男は苦笑した。苦々しげに眉根を寄せて、目の前のコーヒーを一気に煽る。
「コーヒーは、そんなして飲むもんじゃないで」
「煩い」
相当ご立腹らしい。それもそのはず、順調に進んでいた研究を一時中断されているのだ。研究中毒の黒からしてみればそれは大いに腹正しいことなのだろう。
「リヒトの奴……」
「まずな、お前さんがそんなに部屋を汚くしてることが悪いんやで?」
「どこがだ。多少、資料が散乱していただけで特に汚くはなかったはずだろう」
「質問返しすんで? それこそこっちからしてみればどこがや。足の踏み場もない、山積みの資料がいつ倒れてくるかも分からない部屋で研究やるな」
いくら、研究中の能力で資料の倒壊を防げたとしてもそれは無理な話である。この男がどれだけ優秀であったとしても……
「リヒトには勝てへんで」
「アイツの能力が『家事』て、おかしいだろ。男なのに母親かよ」
「残念ながら、それはお前や青あたり限定やから」
黒や青は、とんでもなく自分のことに関しては無頓着である。むしろ、日常生活でよく生きているなレベルで、だ。そんなこの男の世話係みたいになっているのがリヒトという男だ。
『能力』は家事。それこそ、滅多に聞くことのない『能力』だ。何せ、そんなもの人の努力次第で習得できるのだから。よって、彼は異質である。
「終わりましたよー」
「おー、ご苦労さん」
清々しい顔をして出てきたリヒトはその笑みを僅かに深めて黒に向ける。未だ憮然としている黒はその笑顔を向けられても動じることはない。
「次は1週間後にして下さいね?」
「別に片付けなくてもいいだろう」
「……夜さん、この人に教えてくれてたんじゃなかったんですか?」
「ムリやったわ」
夜、とは群青色のローブの人物のことだ。大抵は黒、藍、白などそのローブの色で呼ばれているが群青やら水色に関しては少々ネーミングセンスに欠けると言うことでそれらから連想したものになっている。
「何で諦めてるんですか!!」
「あんな、リヒト。諦めも肝心やで?」
「そう言って、面倒になったんですね!?」
「いや、ちゃう。黒の奴が一ミリも聞こうとせえへんかったから諦めたんや」
「同じことですよ、それは!!」
夜の言い訳を完全に一蹴したリヒトはため息をついた。黒にもう整理整頓能力など毛頭求めてはいないのだ。彼は、自分のやりたいようにやればいい。
現状、研究漬けの日々を送っている黒を窘めるのはリヒトと夜くらいだ。しかも、彼に正面切って説教できる人物など数少ない。
「黒さんはいい加減、片付けることを学んで下さい」
「……何で」
「何で、じゃないですよ!!」
確かに、机上の整理整頓能力は毛頭求めてはない。しかし、せめて書きかけの資料内の整理くらいはしてほしいものだ。困るのだ、これはこれで。
「何回も番号振って下さいって言ったのにー!」
「あ」
あ、じゃない。あ、じゃ。そのせいで、整理する時にとんでもなく時間がかかるのだ。一枚に流れで書いてあるのならば構わない。しかし、どうだろうか。
一枚に何故か2つの研究考察が書いてあるのだ。お願いだから、書類上だけでも整理をしてくれ。後はもう何もしなくても構わないから。
それを毎回言っても直さなのが黒であるからもう仕方が無い域に達しつつある。それでも、口うるさく言うのは改善して欲しいからである。その見込みは当分なさそうなのも前々から知っている。
「忘れてた」
「というよりも覚える気がないんやろ」
黒の無関心さはもうどうにもならない。研究にしか関心がないため、食を抜くことなんてほぼ日常的なことだ。
「黒さんが研究中毒者なのは知ってますけど、流石に……」
「何だ」
リヒトの言葉が呆れで詰まる。それを察した夜は「どんまいな」と声をかけるが張本人は首を傾げているだけである。
「4日も食べてないのはいけないです」
「……。」
「は? 4日!?」
夜が黒を見れば、ローブの下に隠れた表情が僅かに苦い顔をしている。そういえば、ここ最近は確かに解読に進歩が出たためにより研究中毒になっていた。
真夜中に寝ているのかさえも分からないレベルでなにやらやっているらしい。少し前に、それにキレたリヒトが物理で寝かせさせたとも噂で聞いたような。
「なんなん、ほんま。黒、お前その歳でもう死に急いでるん? やめとけ、まだやることあるやろ」
「何をどう解釈してそうなったんだ」
「4日も食わんて、餓死すんで? なあ?」
「ああ、夜食多めに差し入れてたんで。正式には食べてないわけじゃないですよ」
リヒトがそう言えば、夜はなんや、と脱力して椅子に深く座り込んだ。今、一番の戦力になるこの人物を喪うわけにはいかないのだ。
1人早とちりした夜はさておき、黒はその雰囲気を突如として一変させる。しかし、それはほんの一瞬のことですぐにいつも通りに戻った。
「なんかあったんか」
「……少なくとも、俺らには関係はなさそうだ」
「お前はそう言って、7割方関わりのあることだったりするやん」
「その時はその時だ」
「その開き直り方、やめてや」
魔力量の多い黒は、夜もできないことはないのだが魔力の変化を感じることができる。それは、研究中でも、だ。
人が生きている限り、その呼吸を無意識に行うように黒はその魔力の変化を無意識に感じてしまう。今も、どこかで大きく揺れ動いた魔力を感知したに違いない。
「北西の方向ですね」
「北西言うたら、学園の方か」
黒の反応した方向をリヒトが言えば、彼は興味なさげにああ、と呟く。学園からの魔力の揺れがここまで来るのは異例だ。
そもそもの話、学園からここまではかなりの距離がある。その距離は学園からどんなに頑張って移動して来ようとも1週間以上は余裕でかかる距離だ。
終焉の塔があるのがクルフィレール大陸の東の端に近いところだ。対して、学園は北の方面にある。位置的には対極とは言わずともそれに近しい位置に存在している。
「学園にえらい魔力持ちが居るみたいやな……」
「来年の引き抜き候補をもう考えてるんですか?」
「何で今の発言でそうなんねん」
呆れた様子の夜は、用事は終わったやろとリヒトを部屋から追い出して黒に向き直った。あの時のあの反応は、間違いなく。
「珍しいんとちゃう?」
「……。」
無言のただ、北西の方向を見ているだけ。そして、不意にその方向から視線を外したかと思えば整理された書類の山に向かっていく。
「いい加減、素直になった方が身のためやで」
「何に対して言っているんだ」
幾つかの山に分けられたそれの一部から、書きかけの資料を手に持って感情のない声音で夜に返答する。その意味を知っていても尚、黒は答えることはないと夜も知っている。
手にした書きかけの、無意味な文字の羅列が意味しているのは一体何なのか。黒はそれを見つめながらただただ無感情に息を吐きだした。
「……ほんま、不器用過ぎんで」
「出て行け」
「はいはい」
これ以上の詮索はうざったしいとばかりに夜を追い出した黒だったが、ドアが閉まる直前に呼び止める。群青色のローブが揺れて、フードの奥に隠された怜悧な瞳が黒の瞳と合わさる。
「準備はしておけ」
「分かっとるで」
歪な形を作った唇は、どこか愉しげな声を零した。静かに閉まったドアを見つめながら手に持つ資料に書かれた文字を紡ぎ出す。
『Ice』
いつもの見慣れた言葉が紡ぎ出された瞬間、床一面に咲き誇った無色透明な華。冷気が一気に放出されたそれに黒は資料を置いて次の言葉を紡ぎ出して――――爆発した。
「黒さん!?」
「無事だから」
「いや、部屋は!?」
「急ごしらえで張った3元素結界で無事」
「というか、何して爆発なんてさせたんですか!?」
部屋は結界のおかげで見事に無事だが、その威力は音を聞く限り凄まじくドアの蝶版が壊れていた。
結果、また黒は部屋を追い出されて1人不貞腐れることになった。
「2,3日部屋に戻れませんからね!」
「は?」
流石にこのやり取りを聞いてた夜も今回ばかりは何も言えず、ただ笑いをこらえていただけだった。
何故か黒のいらない話を引きずったので、次回は京雅に戻ります……。
しおりを挟んだままにして下さった方々、ありがとうございます。