アンダーワールド・ドリーム
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音楽が好きな男がいた。
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強い風と共に、大粒の雪が吹き付ける。周りに遮るものはほとんどないから、僕の身体に直に襲ってくる。防寒服を着ていても、ばすばすと雪が身体に激突するのがわかる。傘を持ってきていなければ、今頃雪だるまになって転がっていただろう。しかし、もしこれ以上吹雪が強まるなら、どこかに影に隠れて雪を凌がなければならない。指先の感覚もとっくになくなっている。せっかく外に出られるようになったのに、無茶をして死ぬのなんてごめんだ。
僕はちょうどいい建物を探しながら歩を進めた。でもそんな建物はなかなか見つからなかった。ただでさえ酷い雪で視界が悪いのに、まともに機能している建物なんてほとんど残っていないのだ。地上に残っているのは大きなビルの崩れ果てた残骸ばかり。そのどれもが、長い年月を経て一種の芸術的なモニュメントのように佇んでいた。しかし今の僕に必要なのは、芸術性ではなくて実用性だった。
焦りで玉のような冷や汗がふきだした頃、雪の隙間に小屋を見つけた。その小屋からはぼんやりと光が漏れているように見えた。僕はその小屋に近づきながら何度も目を擦って確かめてみたが、やはり窓からオレンジ色の光が見える。誰かが小屋にいるのだ。僕はとても信じられなかった。僕以外に、放射能に汚染された地上を闊歩できる人間がいるとは思わなかったのだ。
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僕は注意深く小屋のドアを二回ノックした。もしかしたら中にいるのは人間ではないのかもしれないのだ。護身用の拳銃のセーフティロックを外して、防寒服の内側のポケットに忍ばせた。
しばらく待っても反応がないので、もう一度、今度はさっきよりも強めにドアを叩いた。するとドアからガチャリと不吉な音がした。鍵が開く音だ。そしてゆっくりとドアが開いた。
「人間か」
ドアの僅かな隙間から大人の男の声がした。日本語だ。僕は吹雪にかき消されないように「そうだ」と答えた。男はそれには答えず、ゆっくりとドアを開けた。人が通れるくらいドアが開いたところで、僕は傘をたたんで小屋の中に入った。そして重いドアを閉めた。ドア自体が重いのか、暴風に押されて重く感じるのかはわからなかった。部屋はむっとするほど暖かく、雪まみれの傘はすぐにびしょ濡れになってしまった。
「傘、どこに置けばいいでしょう」と僕は男に聞いた。
「どこでも」
男は僕をちらりとも見ずに部屋の奥に向かって歩いていった。小屋は木の丸太で組み立てられていて、嗅いだことのない不思議な匂いがした。部屋の角には暖炉があって、そこでずっと火が燃え続けていた。写真でしか見たことの無い光景だ。僕は傘をドアの横に立てかけた。
「ありがとう。助かりました。まさか人間が地上にいるなんて思わなかった」
「俺は知っていたよ。地下の人間だろう」
男は椅子に座って、暖炉に向かって何かを投げ込んでいた。男はかなりの巨漢で、どこか身体を動かすたびに小屋が軋んだ。
「前にも会ったことが?」
「死んだがね。長く地上に居すぎた」
男はじっと火を見ていた。僕は話の続きを待ったが、彼は一向に口を開かなかった。ずっと立っているわけにも行かないので、僕も近い椅子に座った。男は僕が椅子に座る音を聞いて、一瞬だけ顔をこっちに向けたが、またすぐに暖炉を眺め始めた。
「ずっとここに住んでいるんですか?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
男はたっぷりと時間をかけてから返事をした。
「その、大丈夫なんですか?」
「身体の心配か?」
「はい。地下で習いました。今、地上は高濃度の放射線で汚染されていて、人間が住めるような環境じゃないと」
「前に居た奴もそう言っていたよ。優等生なんだな」
「成績が良くないと、地上に出る訓練も受けられないんです」
話はそこでまた途切れてしまった。男は地下の生活には興味が無いようだった。前に居た、地下からやって来た誰かから飽きるほど聞かされたのかもしれない。僕はどうしていいかわからず、小屋中を見回した。
改めて部屋を見ると、写真でしか見たことのないもの、初めて見るものがたくさんあった。薪を割る時に使うという斧(でも薪が何を指しているのかは知らない)、今にも動き出しそうな動物の剥製(何の動物かはわからないが、大きな二本の角があった)、小屋を明るく照らしている裸の電球(電気はどこからやってきているのだろう?)、そして果物みたいな形をした木製の道具……。
僕はその木の道具に興味を持った。男に触っていいかどうか聞こうと思ったが、その必要は無さそうだった。僕が立ち歩いても男は何も言わなかったし、その木の道具にはずいぶんと埃が積もっていた。僕は手で埃をはらった。すると手が固い金属の線に触れて鈍い音を放った。
「何をしてる」
男がその音に気付いて言った。僕が振り向くと、男はじっとこちらを見つめていた。肉付きのいい顔に埋まった両目からは、どんな表情も読み取ることができなかった。
「これ、なんですか?」
「何をしているのか聞いているんだ」
「気になったんです。地下じゃ、こんなものは見たことがない」
僕がそう言うと、男は再び口を閉ざして僕に背を向けた。微かに口元が「お前もか」と動いたような気がした。声は無かった。気がしただけだ。
「ギターだよ。楽器だ」
「がっき……」
初めて聞く言葉だった。それが音楽を作り出すものだと知ったのは、もう少し後の話だ。その時の僕は、音楽が楽器から産まれるものだということも知らなかった。地下にあったのは完成された曲というデータだけだったからだ。
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僕は男から食事をもらい(今までに食べたことのない、柔らかい料理だった)、雪が収まるまで小屋に留まらせてもらえることになった。僕は単純に感謝の気持ちを伝えたかったが、僕の言葉は男には感動を与えることはなかった。
「これはただの親切心だ。親愛とは違う」
男はそう言って僕の言葉を遮った。よく意味はわからなかったが、少なくとも男が僕の言葉を煩わしく思っていることは理解できた。僕は仕方なく、黙ってソファーに横になって天井を見上げた。電球が消えて、暖炉の光だけが薄暗い小屋を照らしていた。天井にもたくさんの丸太が敷き詰められていた。時折強風や、男が椅子に座りなおす衝撃で小屋が揺れた。薪(男から正体を教えてもらった)がパチッと弾ける音もした。僕はちらりと右腕にはめた腕時計に目をやった。夜の一時十三分。まだ大丈夫だ。
「心配してるのか」
眠ろうとしていたので、突然の男の言葉に驚いてしまった。おかげで返事をするのに時間が必要になってしまったが、男はさして気にしていないようだった。ひとりぼっちの男には、時間が有り余っているのだ。
「決められているんだろう。地上に出ていられる時間が」
「そうです。連続で七十二時間以上、月に一週間以上、地上に出てしまうと体内の許容放射線量を越えてしまう」
「越えるとどうなるんだ」
男はいつも抑揚のない喋り方をした。そのせいで男はいつも怒っているように聞こえた。
「DNAが破壊され、身体がぼろぼろと崩れ落ちて死にます」
全て地下の施設で習った、教科書どおりの答えだった。本当にそうやって死ぬのかどうかはわからない。そのページだけ写真がなかったし(他のページには、地上の様子をわかりやすく収めた古い写真が必ず添えられていた)、地下に戻ってこられない人間の死体を回収することはしなかったからだ。
「お前の前に来た奴は死んだ」
男は独り言のようにそう言った。実際に独り言だったのかもしれない。
「お前よりも若い男だった。奴は古い言葉に興味を持った」男は本棚を指差して言った。本棚には見たことの無い言語で書かれた本がたくさん並んでいた。
「英語だ。地上が汚染される前、世界的に普及していた共通言語だ」
英語の存在は知っていた。カタカナの言葉の大体が英語由来であることも習った。でも、英語そのもの自体は誰も教えてくれなかった。
「奴は必死に英語をマスターしようと勉強していたよ。地上に出るたびに俺の小屋にやってきて、丸二日間泊まっていった。さすがに発音まではわからなかったみたいだが、半年も経つ頃には読み書きができるようになっていたよ。もう半年で、奴は本棚の本をぜんぶ読み終えた。地下にはない物語がよっぽど気に入ったみたいだったな」
僕は男の話を黙って聞いていた。外は相変わらず吹雪いていたが、男のしっかりとした声をかき消すには至らなかった。
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「旅に出る?」
俺は驚いた。まだ大人に手もかけていない、尻の青い少年がそう言うのだ。
「なんのために?」
「僕も物語を書きたい」
俺は少年の目を見てため息をついた。そこにはまだ怖さも恐れも知らない、無垢な決意の光があった。無垢さは諸刃の剣だ。強力だが、扱いを間違えると持ち主に危害を及ぼす。だいたいの人は時間と共に無垢の剣をひっそりと胸の奥にしまいこむ。そうしていつの間にか無垢さは鈍らの鉄の塊になっているものなのだ。それは俺とて例外ではなかった。
だから、目の前にいる栗毛の少年が無垢さを振り回していることに心が痛んだ。俺の親愛が少年を戦場に駆り立て、彼の死期を早めてしまった。
「死ぬぞ」
「どうせ地下にはもう戻れません」
少年のリュックはサンタクロースの袋みたいに大きく膨らんでいた。少年は言っていた。地上に残された食糧を地下に運び込むのが、少年たちの所属している組織の目的だと。
何ということか、少年は自ら退路まで断っているのだ。無垢さに立ち向かうには、同じ無垢さが必要だということを俺はその時初めて実感した、どれだけ正しい理論でも、どんなに安全な生き方でも、少年の無垢の剣を止めることはできはしないのだ。
「そうか」
そう言うのが精いっぱいだった。既に善悪という感覚はこの地上においては時代遅れのものとなりつつあるし、幼い頃から地上で生活している俺はたくさんの醜い人間の死体を見てきている。それでも、目の前にいるまだ未来のある少年が自殺にも等しい衝動に駆られているのを直視することはできなかった。
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「次の日、奴は小屋を出て行った。十年近くの話だな」
「その人はどうなったんでしょう?」
「死んだだろうね。まだ地上で生きていけるほど、人間は進化できてない」
「でもあなたは人間だ」
「何にでも例外はある」と男は言い放った。それとも、男は人間ではないのかもしれない。
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翌朝、僕は男に「また来ます」と言って小屋を後にした。男は相変わらず暖炉から目を離さなかった。
外は吹雪もだいぶ弱まり、昨日よりも歩きやすくなっていた。ただ、そのぶん傘に雪がたくさん積もってしまい、途中で傘が壊れてしまった。仕方がないので防寒服を深く被りなおして地下への入り口へと急いだ。
「お疲れ様」
長いエレベーターを下り、四方を機械に囲まれた施設に降り立つ。アシスタントの背の高い女性が僕を出迎えた。
「成果は無さそうですね」
「いや、あるよ。雪だらけでどこをどう探しても無駄ってことだ」
女性は眼鏡を直してカルテを僕に渡した。
「だいぶ値が高いようですね。なにかに近づかれましたか?」
「値が?」
僕はカルテを見て、びっくりして答えた。まだ今月は二日しか地上に出ていないのだ。建物の中にいたから多少は多めに浴びているだろうが、それにしても異常な量だ。
「もしかすると不発弾があるのかもしれません。なにか不審なものは見かけませんでしたか」
「不審なもの……いや」
僕は小屋の男について話そうとしてやめた。彼のことを話したところで組織が信じてくれるとは思えないし、信用したらしたで彼をあのまま放ってはおかないだろう。見つけたものを意図的に報告しないのはこれまでにも何回かやっていたが、人間を庇うのは初めてだった。
「吹雪が凄くて、長いこと建物に隠れてたからね。そのせいかも」
「なるほど」と彼女は言ったが、さして納得しているようには見えなかった。
「さっさと除染室に行くよ。ガイガーカウンターが警報を鳴らしちまう」
「そうしてください」
それに僕はまた彼に会ってみたいと思っていた。ギターが頭から離れなかったのだ。
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僕はそれからも何度か男の小屋に足を運んだ。男は何も言わずに僕を小屋の中に招きいれ、食事をごちそうしてくれた。男の作る料理は味付けが濃く、地下では味わえないものばかりだった。こんなにたくさんの味があることも始めて知った。
それから僕はギターを練習することにした。男は何も教えてくれなかったが、僕が一人で練習する分には何も言わなかった。幸い本棚にギターの教科書があった(それも日本語だった)ので、独学で勉強することはできた。ギターを練習し始めてしばらく経った頃、錆びだらけだったギターの弦が張り替えられていた。男が張り替えなおしてくれたのだ。僕は礼を言おうと思ったが、男は相変わらず暖炉の炎を見ているだけだった。前にも自分で言っていたように、彼は誰かからの親愛も求めていないし、誰も親愛しようとしていないのだ。これだって単なる親切でしかない。
ある程度コードが弾けるようになって、教科書に載っていた簡単な曲はマスターした。ただどの曲もワンフレーズしか載っていなかった。僕は一つの曲を通しでを弾いてみたい衝動に駆られた。
しかし本棚に楽譜のスコアは一冊も無かった。もともとそんなものはなかったのか、それとも男が焼いて処分してしまったのか……。
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「厳しいな」
男は言った。
「ほとんど人はいない。まともな人間の生きていく環境じゃない」
「あなたは生きている」
「俺は特別だ。外で生きていける身体を持って生まれたし、今さら地下に戻ることなんてできない」
「もし、奴に……」と男は続きを言いかけてやめた。
「いや、なんでもないな」
「それがいいでしょうね。お互いに」
「お前もそうなるのか」
「さあ。僕は彼ほど幼くはないし、彼ほど純粋でもないですからね」
男は突然、鼻歌を歌い始めた。抑揚のない酷い歌だったが、心が揺さぶられるような感触があった。地下で聞いたことのあるメロディだった。
「俺が唯一知ってる曲だ。記憶の奥底にこびりついてる」
「彼はどこにも居ない男」
「そういう名前なのか」
「僕が今つけました」
僕がそう言うと、男は始めて破顔した。僅かな顔の動きだったが、少なくとも僕にはそう見えた。
「お前は作家にでもなったらいい」
「もちろん」
結局、きっかけが欲しかっただけなのだ。
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音楽が好きな男が居た。好きなアーティストはビートルズ。新しいアルバムが、まだどこかにあるはずだ。レット・イット・ビーの次……。