N井さんといぬいぬさん(Love me, love my dog)4
「ポチ」
香里は声を大きめにして呼び、知佳とともに口を閉じたまましばらく待つ。待つ間に、「ポチ」はフランス語の「Petit」からきているのだ、とどこやらで雑談交じりに聞いた記憶が浮かび上がり、どう見ても小さくはない、そして明らかに知佳より重さのありそうなこの犬が返事をしないのも当然かもしれない、と考える。考えてから、もちろん大きいポチも悪くないと思うけれど、と世の中にいる小さくないポチに向けて、心中でひっそり言い訳する。
10数え終えたらしい知佳が犬から香里へと視線を移す。
この方式で手当たり次第に続けるときりがない、と香里は初めての挑戦にして早くも挫折の予感を嗅ぎ取り、有力候補である「いぬいぬさん」と似たような呼び方を中心に試みる方針に決めた。下手な鉄砲でも数を打てば当たるかもしれないが、それでも的を絞っておくに越したことはない。
「いぬ」
犬と呼ばれて返事をする酔狂な犬かもしれない、と思いつき香里は呼んだ。10秒の沈黙は、どこからか聞こえる蝉の声に彩られる。
「いぬいぬさん」
短く一度、鳴く。
「いぬいぬ」
敬称を略して呼んでみる。答えない。
それならば、と香里は呼ぶ。
「いぬいさん」
わうん、と犬は一声鳴いた。
知佳は目をぱちりと開き、同じように開いた口から、あ、と声がこぼれる。
「『いぬいぬさん』じゃなくて、『いぬいさん』じゃないの?」
香里は提案してみる。もしかしたら飼い主の名前が「いぬいさん」で、この犬はそれに反応しているのかもしれない。
「ちがうもん。いぬいぬさんだよ。ねえ、いぬいぬさん?」
うあん、とまたその犬は鳴く。
「いぬいさん」
わん。
「いぬいぬさん」
わう。
「いぬいさん」
あん。
「いぬいぬさん」
おん。
「いぬいさん」
「いぬいぬさん」
わ、わん。
「節操なし」
「いいかげん」
答えはない。
「せっそーなしじゃないみたい」と犬を見つめたまま結論を下す知佳に、「いいかげんでもないみたい」と同じ方向に視線を固定させたまま香里も同意を示した。
「じゃあね、ほえてみよっか」
知佳は提案する。唐突にも感じたが手詰まりなのは確かなので「そうだね。軽く吠えてみるか」と香里は「軽く」を強調しつつ返した。
「わんっ」と知佳が吠える。
「ばうわう」と香里も控えめに吠える。
犬は吠えない。
「りーちゃんの、なに?」
「英語の、犬の吠え方」
「えいごのいぬって、なきごえがちがうの?」
心底不思議だ、とでもいうような知佳の疑問に、自分が幼いころは同じ疑問を抱いていたことを香里は思い出す。同じだよ、と当然のように答えをもらっても、納得がいかなかった。耳から入る音は違うのに、口から出る音が同じだなんて、あるのだろうか。もしかしたら、並べて聴き比べてみると、わずかにも違うのかもしれない。そんな考えが捨てきれなかった。
「私は外国に行ったことないから、わからない」
「りーちゃんもわからないのかあ」
知佳はむうっと考え込む仕草をした。