N井さんといぬいぬさん(Love me, love my dog)3
踵に尻をのせるようにして覗き込むと、香里の視線は知佳よりも低くなる。
「さくせん?」
「そう。あの犬が本当に『いぬいぬさん』なのか確かめるための作戦」
「どんなさくせん?」
声を低めようとして失敗したのか、知佳の声はサ行がかすれている。
「『いぬいぬさん』じゃない名前で呼んでみて、あの犬が答えるか確かめるの」
「ぽち、とか? こたえたら、どうなるの?」
難しい質問だな、と香里はしばし間を空けた。「宇宙人が存在しない」と証明するのは、「宇宙人が存在する」ことの証明よりずっと困難だ、という例をふと思い出す。前者はなにかひとつ「存在する」証拠を提出すればいいのに対し、後者はその証拠をひとつずつ潰していかねばならないからだ。
「『ポチ』って呼んで答えたら、あの犬は『ポチ』かもしれない。でも、『いぬいぬさん』って呼んでも答えたから、『いぬいぬさん』かもしれない。もしかして、呼ばれたらとりあえず返事をする節操なしかもしれない」
我ながらわかりにくいな、と限界を感じながらも香里は説明する。最後の部分しか頭に残らなかったのか「せっそーなし?」と困ったように呟く知佳に、「いいかげんってこと」と香里は返し、論理はひとまずおいて実践の手順に移ることにした。
「私が『ポチ』って呼んだら、知佳は黙ったまま10数える」
「なんで?」
「私が『ポチ』って呼んですぐ、知佳が『りーちゃん、ポチじゃないよ。いぬいぬさんだよ』って言ったとする」
うん、と知佳はひとつ頷く。
「そのあとであの犬が『わん』と答えたとする」
香里は礼儀正しく、しかしあくまで人間らしく、わん、と口にした。
「そうするとあの犬が、『ポチ』に答えたのか、『りーちゃん』に答えたのか、『いぬいぬさん』に答えたのかわからなくなっちゃう。そうすると、困るでしょう?」
確認するように真面目な顔で知佳の瞳を見据えて、しかし考えてみると私は別に困らないな、と不真面目に香里は思う。
こちらをじっつ見つめる知佳に、自分もこんな顔をしているのだろうか、とちらりと香里は思う。知佳は、母親の麻紀子よりも叔母である香里に似ている、と評されることが多い。そう告げられるたびに「あんたなんか産んだ覚えないよ」と麻紀子は嫌そうな顔を香里に向け、それとは裏腹に楽しげな笑い声を立てる。
しばらく考えてから納得したのか、知佳は深く頷いた。
「じゃあ行くよ」
「ごー!」
勢いをつけて立ち上がったためか少々ふらつきつつも膝と腰を伸ばすと、香里の視点はは知佳を見下ろす見慣れた高さに戻る。
遅ればせながら、と苦笑しつつも横目で社殿に浅く一礼し、香里は知佳の手を握り犬のもとを目指す。