N井さんといぬいぬさん(Love me, love my dog)1
「あのね、あのね」と知佳は「ね」に合わせて跳ねるように進む。
「なあに」と香里も同じく、た、たん、のリズムで続きを促す。
知佳と手をつないでいる、というよりも知佳につかまられているために、香里の右腕の肘から先は、知佳の動きに合わせて弾む。
香里の大学の夏休みは、7月の初旬から始まる。麻紀子が長い夏休みを取るためには、今のうちにできる仕事を終わらせておかなければならない。つまり、香里の大学が休みで、知佳の幼稚園が休みに入らない2週間弱、迎えを任されることになる。
午後の陽射しはきらきらとこぼれて、始まりかけた夏を楽しげに彩る。
「いぬがね、いぬいぬさんなの」
「いぬさん?」
尋ねてから、なぜ犬に「さん」という敬称はこれほどまでに不似合いなのだろう、と香里は違和感に軽く眉根を寄せた。
やぎさん、くまさん、うさぎさん、きつねさん、おおかみさん、と思いつくままに並べてみる。「ねこさん」は少し不自然かもしれない。どうやらさん付けが似合うのはいわゆる「森のなかまたち」に属する動物であるらしい、と即席の分析にそれらしい答えを導き出しながら、香里は大股にゆるゆると歩む。
知佳の2歩、すなわち「た、たん」の1セットがおおむね自分の1歩になるような歩幅で、香里は歩を進めていく。
「ちがうよ。いぬいぬさんなの」
「いぬいぬさんなのか」
「そうなの」
知佳は嬉しそうにこころもち高めに跳ね、香里の右手も大きめに振れた。
た、たん、た、たん、と知佳の足音はときに途切れながら繰り返す。「た」で右足を大きく一歩前に出して、両腕をぐっと後ろに振る。「たん」では走り幅跳びの要領で右足を軸にして踏み切り、ぶんっと前に振った腕の勢いで体を一気に進めると、両足をそろえて着地する。
遅れそうになると、知佳は早足で進み、少し香里を追い越したあたりでまた跳ね始める。
踏み出す足は右なので、知佳の体は左側を歩く香里を仰ぐように開く。知佳の体の発達が偏りそうだな、と香里はいささかの懸念を覚え、道を渡ったらつなぐ手を逆にしよう、とこっそり決意した。
いぬいぬさん、と香里は口の中で転がし、その響きを弄ぶ。
いぬいぬさん。「いぬさん」より違和感は少ない。
なぜだろう、と香里は再び思考の糸をたどろうとして、けれど答えらしきものに行き当たる前に、問題の犬に行き遇うこととなった。