N井さんの土曜日(Saturn on Saturday)
「表なら図書館、裏なら美術館」
ぴちり、と硬貨は弾かれてくるくる舞い上がる。落ちるところをすかさず左の手の甲に落とし、右手でふわりと閉じ込める。
神社の中に遊具があるのか、公園の中に社があるのか、どちらともつかない空間である。参道から外れたところにある、一人乗りの手摺付きブランコの脇に知佳は立っていた。支柱に寄りかからないのは、体が傾いでいると硬貨の軌道が乱れるからだ。
うまくできると気分がいい、と知佳は満足に顔をゆるめて、しかし右手を退けた途端むっとしかめられる。
「……え、また図書館」
そうすれば裏返るかもしれないとでもいうように、知佳はじっと結果を見つめる。
もちろん一度出た結果は覆ることなく、一度その結果に未来を委ねると決めたら知佳は従う。 そうでなければ、硬貨を投げる意味などありはしない。
「じゃあ、表なら北、裏なら東」
北図書館、東図書館、中央図書館。徒歩でアクセス可能な図書館は3つあるが、この方式だと2択しかできないのだからある程度恣意的になるのは仕方ない。
蔵書数も多く、閲覧席の椅子の座り心地も良好な、N井さんお気に入りの中央図書館を除いたのは美術館に行けない意趣返しではないのだ、と知佳は右手の親指で硬貨を高く跳ねあげる。
高校一年生にしてここまで洗練されたコイントスの技術を有するのは自分だけだろう、という自負が知佳にはある。硬貨は任意の直径を軸に回転し、しかし自身の回転には左右されずにまっすぐに上がってまっすぐに落ちる。
「————中央」
落ちてくる途中の硬貨を片手で捕まえて、N井さんは言った。
N井さんは、悪魔である。少なくとも知佳はN井さん本人からそのようなことを聞いている。黒に近い灰色の髪に、同じ色の瞳をもち、マントのような一枚布の黒い衣を纏ったその姿は、知佳の目の前に唐突に出現した。
「やっぱり中央図書館か」
「いいかげんこちらの嗜好を覚えろ」
「覚えてるよ。ただね、たまには気分を変えて違うところもいいかな、と思っただけ。ほら、美術館とか」
N井さんが現れたのを幸いと、知佳は直談判にもちこんで様子をうかがう。
「変える必要はない」
はいはい、と生返事をしながら知佳はN井さんの手から滑り落とされた硬貨を受け取る。
「えぬいさん、かがんで」
N井さんの首に下げられた鎖と、その先にある輪を引き寄せて、輪の中に硬貨をはめ込む。これをするたびに、知佳は観光地にみられる日付と名前が自由に刻印できるメダルと、別売のメダルをはめ込むためのキーホルダーかペンダントの鎖を思い出す。もしかしてあれを流用したのだろうか、という疑問はくすぶるが、まだくすぶらせたままにしてある。
とはいえ連想されるのは形態だけで、知佳の手にある鎖は観光客用ペンダントの安っぽい金色のものとは似ても似つかない、N井さんの髪のような鈍く光る灰色だ。輪になっている部分だけを持っても、重みがある。
「はい、いいよ」
知佳は鎖を手放して、硬貨分だけ重さを増した負荷をN井さんの首に戻す。そうしてから、ブランコの座面に置いた自分の荷物を取り上げた。
「じゃ、行こうか」
N井さんは鳥居の脇、ブロック塀との隙間をすり抜け、知佳はきちんと鳥居をくぐる。
「えぬいさん、最近歩くの嫌いだよね」
「そう思うなら、歩かせるな」
「私はえぬいさんと歩くの好きだよ」
N井さんと知佳はほとんど車通りもない路地を並んで歩きつつ、中央図書館を目指す。
「あ、そうだ。あのね、えぬいさん、五十音表の上でコインを動かして文字を示してもらう、っていう伝統的な方法があるんだけど、どうかな? 今度やってみない?」
「面倒だ」
「えー。えぬいさん本読めるんだし、あいうえおくらいわかるよね。これなら目的地に着いてから出てこられて楽だと思うんだけど」
「断る」
「歩かなくて済むよ」
「いや、歩く」
「そうなの? んー、まあいっか」
「このままでいい」
はいはい、と知佳は笑って、少し歩幅を広くしてみる。N井さんは、ぴたりと隣についてくる。
————これは、何も為さない悪魔の、無聊な日常である。