8.
明後日は翠尾と病院に行く、という金曜日のことだった。
みんな、それぞれやることがあるのだろう。放課後の教室はすでに誰もいなくて、残っているのは暇な俺だけだった。
帰るのも億劫で、かといってこのままでも手持無沙汰で眠くなるだけ。てことで、とりあえず課題にでも取り掛かろうかと、鞄へ手を伸ばしたその時だった。静寂の中へ、ゆっくりと溶けるような、引き戸を開ける音が響く。
気になって音のした方へ顔を向けると、そこに居たのは藤ノ森だった。なんでまだ残ってるんだろう、と思ったのは俺だけではないらしく、俺の存在に気付いた彼女はすぐさま質問してくる。
「何やってんの?」
刺々しいその物言いは、まだ先日の件を忘れていないと語っていた。視線の迫力もなかなかのもので、よっぽど気にしてたんだなと思わずにはいられない。
それと同時に、何にそんなに怒ってるんだろうなとも思う。この間のことは、確かに、藤ノ森のカッとなった気持ちも分からないではないし、俺も怒らせようとしていたふしがある。でも、あれは彼女の頭に血が上っていたのが主な原因で、後々に引きずるような怒りではないと思っていた。
まさか彼女の怒りがここまで長引くとは夢にも思わなかったし、現に俺は今の今まで忘れていた。
「いや、別に」
「そう」
藤ノ森は速足で歩き、きびきびと鞄と手に取って出て行こうとした。
無言の背中が、これ以上俺と一緒に居たくないと語っている。
「藤ノ森は、何やってたんだ?」
すると、立ち止まって振り返ってから、言う。
「あんたに関係ないでしょ」
「まあ、そうだけど。でも、気になったからさ」
「…………何にもしてないわよ。図書室に居ただけ」
「そっか。本、好きなんだな」
「そうだけど。……ねえ、なんなの? 何か用?」
「うん。できれば、話をしたいなって」
すると、彼女は盛大に顔をしかめた。そして、俺の真意を探るようにじっと見つめてくる。結局、不本意そうに彼女は口を開いた。
「……どういう風の吹き回し?」
「藤ノ森なら、分かってくれるかなって思ったんだ」
「だから、なんなのよ。翠尾のこと?」
「そう。翠尾ってさ、人間だったんだなって思って」
「はぁ?」
この一か月、ずっと俺のなかを渦巻いていたこの感情を、なんて言葉にしたらいいのかと、悩む。考えてはいたけれど、答えは出ず仕舞いだった。
「翠尾ってさ、変だよな?」
「……何、それ」
「なんて言ったら良いんだろうな。俺たちとは違うって言うか。浮世離れしてる、って言えば良いのか。とにかく、違ったんだ。俺が、今まで出会った人間とは」
思い返してみても、息苦しかった記憶は、やはり一度たりともなかったのだ。
自慢じゃないが、俺は世渡りが上手い。自分でもそう自負していて、事実、他人との衝突という経験を、驚くほどしたことが無い。どうすれば、相手と上手い付き合いが出来るのか、それを本能的に悟り、実行することが出来る人間だった。
その話が、唯子が前に言っていた、俺の自分が無いという部分に繋がるのだろうが、やはり今考えてみても、その話に危機感は感じない。
だって、もうずっとこの調子で生きてきたのだ。良いことばかりで無いのなんて、俺が一番よく分かっている。けれど、俺には他人を真正面から受け入れる包容力も、跳ね除けるだけの覚悟もない。
これしかないのだ。俺の中身は、この能力を使いながら生きていく準備を、既に終えてしまっている。
だから、本当に自慢にならないけれど、きっと俺は、こうやって誰ともぶつからずに生きていく。その事実はとても俺に馴染んだし、重苦しい気分になったとしても、息苦しくなったことなんて、一度もなかったのだ。
彼に出会うまでは。
彼、当然ながら翠尾なのだが、その人はとても唐突に俺の人生へ現れた。
君ってさ、その名前気に入ってる?
それは、入学してから数か月した頃で、さすがに翠尾の本性を知らない人間が居なくなった頃。俺だって知っていた。翠尾がどんな変人なのか。
けれど、持ち前の世渡りスキルで、ごく自然に言葉を返した。どういう意図があってそんなことを聞くのか、全く全然分からなかったけれども、嫌いではないと答えれば、ふうんと笑う。
裏が無いと思った。その瞬間、俺は今までの人生を悔いる。
理由なんて、今考えてもさっぱり分からない。けれど、無性に、子供の頃に戻りたいと思ったのだ。昔に戻って、人生をやり直したいと。
動揺は顔に出さなかったと思う。態度にも出さず、これ以上無いほどうまく、隠しきったはずだ。それでも俺の動揺は止まらない。実は、翠尾は俺の動揺に気づいてるんじゃないかと、疑心暗鬼になっていく。
けれど当の本人は、そんな俺のことなんて知らん顔、と言った様子で自分の席へ戻っていった。
俺の胸はざわついたまま。見逃された、だの、見下されてる、だの、馬鹿げた妄想が頭をよぎる。でも、それも次第に落ち着いていった。
それでも大丈夫だ、と思ったのだ。翠尾に俺の化けの皮が剥がされたとしても、困ることなんて思い浮かばなかったのだ。
だって翠尾だ。俺が、実は被害妄想に囚われ易い、他人を疑うことしかできない人間だと翠尾が知ったところで、それがどうしたというのだろう。それで、一体どうなるというのだろう。
そこまで考えて、俺は少しほっとした。もちろん、不安な気持ちが、完全に消えたわけでは、無いのだけれど。
そうやって翠尾は、とても唐突に、いとも簡単に、俺の人生の一部となった。
「今でも、よく、分からない。でも、俺は翠尾に会って、自分が大嫌いになったんだ。人生を悔いた。やり直したいと、思ったんだ」
藤ノ森は、戸惑っているように見えた。
まあ、それも当然かと思って、苦笑いを堪える。だって、この間自分を泣かせた男が、突然目の前で弱音を吐いているのだから。律儀に話を聞いている分、彼女はお人よしだと言える。
「俺はもう、何も分からない。翠尾が、嫌いなのかも、そうじゃないのかも、俺はもう分からないんだ」
それでもやっぱり、あいつに良い感情は持てない。
変化を望まない俺に、無理やり後悔をさせた張本人だ。勿論、そんなの俺が勝手に後悔しただけで、翠尾に何の非も無い。けれど、そんな理屈なんかよりも、自分の生理的な嫌悪の方が勝ってしまっている。
「なあ、藤ノ森、どうしたらいいかな。どうしたらいいんだろう」
「どうって…………」
「藤ノ森は、翠尾に憧れたんだよな? どういうところが? どうして?」
彼女は、次第に俺に憐みの視線を向ける。
今の藤ノ森に、俺はどう映っているだろうか。ただの、矮小な人間に見えているのだろうか。そう思うと、腹の底が冷える思いがした。
恐ろしい。
俺と言う人間は酷く小さい存在なのだと、誰かにばれてしまうことが、何よりも恐ろしかった。だからいつでも余裕ぶる。小さく見られないようにと、冷静に自分を偽る。
それがきっと、翠尾から見える俺なのだ。
「傷つかないところ」
彼女は、とてもはっきりとした声で言った。
「何て言うか…………。誰かに傷つけられても、それに知らん顔できるところ、かな。だから、傷ついてないように、私には見える」
「なるほど」
確かにそれは、的を射ているかもしれない。知らん顔。なるほど、なるほど。だから、俺たちには翠尾はつかめない存在に思えるのだ。何を言ったって、彼は知らん顔が出来るのだから。
傷つけられた痛みを知らぬふりが出来るなんて、俺には程遠い行為のように思えた。
そういうところは、俺も憧れるかもなあ。
そう呟くと、彼女は顔をしかめ、困ったような顔をしたまま、ぼそりと言葉を落とす。
「私は、あんたにも、憧れたけど」
「俺にも?」
こくりと頷く。
「翠尾は知らないふりをするけど、あんたはその逆に見えたから」
「逆って言うと……」
「痛みに、耐えてるように見えたの。受け流すんじゃなく、受け入れようとしてるみたいに、思えた。私は傷つけられることに敏感だから、どっちも出来そうになくて、だから、二人ともに、憧れた」
彼女はとても大事なことを言うように、言葉を紡いでいく。そうか。藤ノ森には、そう見えていたのか。
少し落ち着いて、客観的に俺と翠尾を見てみる。
痛みに耐えながら、受け入れようとしながら、必死に自分を取り繕おうとしている俺。
本当は痛くても、知らぬふりをしながら、傷をも見ないふりをする翠尾。
真逆だ、と思った。だから似ている、とも。
「藤ノ森」
「な、何?」
「ありがとな。話聞いてくれて」
「…………別に」
用は済んだんでしょ、とぶっきらぼうに言って鞄を持ち上げる彼女の耳は赤かった。俺にあんなことを言ってしまったと、恥ずかしがっているのだろうか。
藤ノ森が教室を出る直前、「こないだはごめん」と言ってみた。すると、彼女はびくりを体を震わせ停止し、小さな小さな声で、「………………別に」と言った。
ばん、と大きな音がして扉が閉まった。しんと静まり返る教室。そこには俺一人だけ。
あの瞬間の、翠尾の笑顔を思い出す。
初めて、彼の笑顔を見た瞬間。裏が無いと、思った瞬間。
きっと俺は翠尾になれた。翠尾になれる道も、用意されていた。
けれど、今の道を選んでしまったのは、俺。
あの笑顔を、俺は無意識の内に捨ててきたのだ。
俺は、翠尾になってみたかった。すべては、ただ、それだけだった。




