3.
ここにきて突然だが、少し藤ノ森の話をしたい。
藤ノ森は俺たちのクラスメイトで、出席番号四十番、大人しく控え目、静かで、読書家の眼鏡っ子。俺に限らず、男子全般と話もしたことがなさそうな女子だ。
彼女は、このクラスで少しばかり特殊な立場に居て、所謂浮いている生徒というレッテルを貼られている。さすがに高校生になってまであからさまないじめをしている生徒はいないが、無視やちっとも面白くないからかいは日常茶飯事だ。
それも勿論良いことでは無いのだけど、やっぱり一番の問題は当人にある。無視をされることを分かってるからか、よっぽどの用事でもない限り、誰かに話しかけたりは絶対にしない。いつでも何かに怒っているような無表情で、本を読んでいるか、そうでなければ机を睨んでいるか。机の周りで騒ぐクラスメイトにからかわれても、じっと唇を一文字に結んで、うつむいて、耐えるように小さな肩を怒らせているだけだった。
いじめられる人間独特の雰囲気、とでも言おうか。そういった、負の感情が取り巻く空気を、彼女はこのクラスの誰よりも濃く身にまとっているのだ。
なんとまあ、不器用な子なのだろうと思う。自分を誤魔化して、上っ面だけでも笑って馬鹿やってれば、少なくとも今よりは楽だろうに。それができないのかしないのか。それともしたくないのか。
何かと悪い意味で目立つ子なので、目に止まることは多いのだが、まあ、俺には何の関係も無いことで。藤ノ森のことが嫌いなわけではないが、別に、あいつのために何かしたいだとか、そんな殊勝なことは思いつきもせず。
だから、俺にとっては彼女はどうでもいい同級生だったのだけれど、突然語りだしたのには理由がある。
ある日のことだ。
「翠尾と仲良いんでしょう?」
俺と藤ノ森しかいない放課後の教室だった。俺は何をするでもなく時計を睨みつけていて、彼女は本を読んでいた。
俺は窓側の席に、藤ノ森は丁度教室の真ん中にある自分の席に、二人の間に距離があるまま顔を合わせ、話を続けた。
「いや、別に。確かに話すことは他の奴らよりも多いとは思うけど、周りが思うほど仲良くはないよ」
「そうなの。確かに、あなたと翠尾って、仲良くなるようなタイプに見えないものね」
「そう見えるか?」
「ええ」
まあ、確かにその通りかもしれない。というか、翠尾と仲良くするタイプって想像つかない。あいつは、どちらかと言えば……仲の良い友達がいないタイプ、だ。
「翠尾のこと、全然分からなそうな性格してそうだもの」
「まあな。翠尾の性格が分かるやつの方が珍しい気もするし」
「そうかしら。私には、分かるような気がするけど」
藤ノ森は、薄めの文庫本を手にして、あるページを開いていた。誰の何て言う本なのかは、皆目見当つかない。
「翠尾のことが?」
「ええ。彼はきっと、寂しいのよ」
ふむ。寂しい。分かるような分からないような。
「だから人間でいることが嫌なの。寂しくて虚しいから、他の何かになりたいのよ」
うーん。そうなのか?
「きっと人間を憎んでる。なんて愚かなんだろうと、心のどこかで嘲笑っているんでしょうね」
いや、それは違うだろうな。
俺は今まで翠尾の相手をしてきて、彼の人間全体に対する嫌悪感は感じたことがあっても、憎悪という感情を感じたことは一度もない。清々しいまでの、嫌悪のみの感情。
翠尾の心の中は、渦巻くような憎悪はない。凍てついてひび割れているような、冷たい感情のみなのだ。
翠尾は複雑な人間のようで、その実、とてもシンプルだ。
「いや。違うよ、きっと」
「何であなたに分かるのよ」
「翠尾には、少なくとも憎んでる人はいない。俺は、今までそんな話を聞いたことが無いし、あいつの何かに対する憎悪の感情を感じたことは一度もないんだ。まあ、翠尾と直接話したことないんなら、そう思っても無理無いとは思うけどさ」
「…………親しいから、あの人のことが分かるって?」
「だから、親しくないって。それから、翠尾のことは全然分からない。藤ノ森だって言ってただろ?」
「じゃあ、私はもっと分かってないって言ってるのね。翠尾のことが大嫌いなあなたよりも」
憎々しげに彼女は呟いた。眼鏡のレンズごしの黒々とした瞳にも、はっきりとした憎いという感情が読み取れる。
「分からないよ。世界を憎んでる藤ノ森には。憎まれたいと思ってる翠尾の気持ちは、分からない」
彼女と翠尾は、違う。
「藤ノ森さ、仲間を探すなら、もっと別のやつを探したほうが良いって」
「……何よ、仲間だなんて、思ってないわよ……。分かってたわよ、最初から……! 彼が、……彼は! 私たちとまったく違うところに立ってて、全然違う方向を見てて……! そういうところに、私は、憧れたんだから!」
「うん」
「だからっ……!」
ぽろ、と藤ノ森の目から涙がこぼれた。すると、彼女は不本意そうに顔をしかめ、ごしごしと乱暴にブレザーの袖で涙をぬぐった。あまりに力を入れすぎたため、目元が赤くなってしまっていたけれど。
そして、まるで親の敵でも見るように俺を睨みつけた後、荷物を持って教室から出て行った。
藤ノ森も、普通で平凡なようでいて、それでいてひどく歪んでいて。なんて複雑な人なんだ。
彼女の痛みなんて、俺はどれだけ考えてみてもちっとも分からない。翠尾に至っては、例え藤ノ森と話をしても、考えようともしないはずだ。
藤ノ森は、翠尾の何かに惹かれ、憧れていた。
恐らくは俺が嫌っている、彼の“何か”に。
それが、翠尾にとって良い“何か”なのか、そうじゃないのか、それだけなら、俺は知ってみてもいいなあ、と思った。




