覚悟③【如月聖華】
「ど、どうして――どうして、こんなこと」
新宿三丁目の路地裏。足首から血を流した女が、這いつくばって私を見上げている。
七月というのに雨がしとしと降っていて、シャツや下着が肌にべたつく。女も私もずぶ濡れだけど、女の目から涙が流れているのがわかる。地面の水溜りには血の赤がじんわり広がっていた。
「あんたに恨みは一つもないわ。ただ、指示されたからやってるだけ。あんたが殺される理由も知らない」
「なによそれ。子供の気まぐれな遊びだって言うの?」
「はあ?」
私はしゃがみこんで、女の濡れた髪をぐしゃっと掴んだ。女が小さく悲鳴をあげる。
「あのね、あんたに対する殺意はないけどね、私にはやらなきゃいけない絶対的な理由があんの。もし今大地震が起きたって、背後から大勢に襲われそうになったって、私はあんたを殺すよ」
「あ、あなた、やらされているの? 誰かに。ね、そうなの?」
「やらされているけど、自分の意思でやめてもないわ」
「ねぇ、その絶対的な理由ってなに? お家、大変なの?」
「自由になるためよ」
「やっぱり――怖い大人にやらされているんでしょう? ねぇ、こんなこと、したくないんでしょう? 私が助けてあげる」
「〝こんなこと、したくない?〟 んー、どっちでもないかな」
女の首に真横からナイフを充てる。刃先が皮膚を掠り、血が流れる。女が息をのむ。
「この仕事はね、お金も業務内容も悪くない。あのヒョロメガネは大嫌いだけど、一方的に暴力を振るってきた父親と違い、働いた分のお金はきっちり振り込んでくれる。部屋まで用意してくれるしね。それにリリアは、聖真やあんたみたいに、私を勝手に悲劇のヒロインにしない」
「や、やめ、て――お願い」
「まあ、聖真はこの仕事嫌みたいなのよねえ。メンタルの薬飲んでどうにか精神保ってるみたいだけど。情けないよねぇ、お金もらってる癖に」
「でもあなただって、同じ女性殺して――なにも思わないわけ、ないでしょ? ざ、罪悪感とか」
「ザイアクカン?」
親近感のないワードに、素っ頓狂な声が出る。
「あなたきれいだしまだ若いのに、人なんて殺して、自分で自分の人生めちゃくちゃにして……そんなの、悲しいじゃない。私このまま死んだら、寝ても覚めても、あなたの心に付きまとうわよ。あなたの罪悪感として、一生付きまとうわよ」
「んなことねーよ」
勢いよく、女の首にナイフを刺した。血飛沫が舞い、視界が真っ赤になる。
「私ね、二年前まで毎晩、父親の暴力に怯えて寝れなかったのよ。それが父さんが死んで、自分が人殺しになってからは、毎晩ぐっすりでさあ。ねぇ、あんたが妄想する罪悪感ってさ、そんな恐怖や支配と縁遠い、余裕のある人だけ持てる感情だよね? もしそういうの期待してるなら悪いけど私、あんたを殺すことに罪悪感どころか痛みも快楽も感じない。あんたは世にも軽薄な殺意で死んでもらうことになるわ」
ぐっと力を入れると、皮から頸動脈へと貫かれ、刃先が骨にコンとあたる。
ナイフを抜いて、すかさず女の腹も刺した。血が滝のように溢れて、女の身体がごろんと静止した。床にしゃがみ込み、脈がなくなったのを確認する。
血に染まったレインコートを脱ぐ。雨を浴びながら、手持ちのシートで顔と体を拭いた。組織に任務完了の連絡をすると、すぐに清掃班が駆けつけてきた。
彼らに会釈をして、伸びをしながらその場を離れた。