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日本最高峰の料亭でバイトすることになった話――5

 五月三日。ゴールデンウィーク初日。


 事前に連絡を受けていた俺は、指定された午前九時に『はな森』を訪ねた。もちろん、バイトのためだ。


 迎えてくれた板前さんの指示で調理服に着替え、板場へと向かう。


「よく来てくれた! 俺がいねぇときに助けてくれたそうだな? 恩に着るぜ」


 待っていたのは、中背細身のおじいさんだった。


 角刈りにされた髪が真っ白になっていることや、顔に深い皺が刻まれていることから、かなりの高齢だと思われる。


 だが、背筋がシャキッと伸び、眼差しから溢れんばかりの活力を感じるため、衰えとは無縁であるようだった。


 おじいさんが、ニカッと相好(そうごう)を崩す。


「俺ぁ、ここで板長(いたちょう)やってる高峰厳三(げんぞう)ってんだ。気軽に『厳さん』とでも呼んでくれ」

「い、板長!?」


 驚かずにはいられなかった。


『板長』とは、板場の総責任者。いわば、その店における板前のトップだ。そして、『はな森』は日本で一、二を争う名料亭。その板長ということは、和の料理人の頂点に君臨しているといっても過言ではない。


 俺が『はな森』でご馳走になった日、おじいちゃん=厳さんが帰ってこられないと知った由梨さんと高峰さんは、大慌てしていた。そのため、高峰さんのおじいちゃんは、板前さんたちから相当頼りにされているのだろう、と推測していたのだが、まさか板長なんて重要人物だとは思いもしなかった。


 ここまでの大人物(だいじんぶつ)を前にして、どうして平静を保てるだろうか? 完全に緊張した俺は、錆び付いたようにぎこちない動きで頭を下げる。


「ははははじめまして! お、俺……あ、いえ、自分は、神田哲と言います!」

「なんだぁ? ガチガチじゃねぇか。緊張してんのか?」

「は、はい。恥ずかしながら」

「かしこまるこたぁねぇよ。楽にいこうぜ? そんな有様じゃ、できる仕事もできなくなっちまうぞ?」


 厳さんが、「かっかっかっ」と豪快に笑った。意外と気さくなひとみたいだ。


 厳さんの気遣いと親しみやすさのおかげで、俺の肩から力が抜ける。


 ホッと息をついて、改めて頭を下げた。


「ありがとうございます。今日からよろしくお願いします」

「おう! 頼んだぜ、哲!」


 厳さんが歯を見せるようにして笑い、板前さんのひとりに声をかける。


(とも)! ちょっと来てくれ!」

「はい!」


 智と呼ばれた板前さんが、早足で厳さんのもとに来た。


(こいつ)に仕事教えてやってくれるか?」

「わかりました」

「任せたぜ」


 俺の指導を智さんに頼み、厳さんが去っていく。


「それじゃあ、はじめようか」

「はい!」


 こうして、『はな森』でのバイトはスタートした。



     □  □  □



 普段から家事をこなしており、一度『はな森』で手伝いをしたこともあって、雑用にはすぐ慣れた。


 昼の営業が終わり、皿洗いや掃除を済ませたころには、時計は三時を示していた。


「どうだ、哲? 上手くやれたか?」

「はい。困ったことも特にありませんでした」

「そいつぁ、よかったぜ」


 俺の調子を確かめにきた厳さんが、快活に笑う。


「じゃあ、今日はこの辺にしとくか。上がっていいぞ、哲」

「わかりました。おつかれさまです」

「おう! おつかれさん!」


 厳さんと先輩たちに頭を下げて、俺は板場をあとにした。


 更衣室で私服に着替え、裏口から外に出る。


 俺の足取りは軽かった。


 仕事でミスをすることはなかったし、厳さんも先輩たちもいいひとだった。これなら、上手くやっていけそうだな。


 思わず鼻歌を奏でてしまう。それほどまでにいい気分だ。


「おい! どこ行くんだよ、哲!」


 その折り、裏口から出てきた厳さんが、俺を呼び止めた。


「どこって……帰るつもりですけど」

「んなこたぁ、わかってんだ。そっちじゃねぇだろ」

「はい?」


 厳さんの言ってることがわからず、俺は首を傾げる。


 厳さんが溜息をついて、手招きした。


「ほれ、ついてこい」

「は、はい」


 戸惑いつつも、厳さんのあとを追う。


 厳さんが向かったのは、『はな森』に隣接している庭付きの一戸建てだった。木造建築の日本家屋は見るからに立派で、『お屋敷』や『豪邸』という表現がふさわしい。


 その門の前に立ち、厳さんが得意げに笑った。


「立派なもんだろ?」

「そうですね。誰のお宅なんですか?」

「俺のだが?」

「……へ?」


 そんなもの決まっているだろう? とばかりに厳さんが言ってのける。


 思いも寄らない回答に、俺は間の抜けた声を漏らした。


 目をパチクリさせながら表札を見ると、たしかに『高峰』と記されている。


 俺はますます戸惑った。


 なんで、厳さんは俺を自分の家(ここ)に連れてきたんだ? 帰るつもりって言ったんだけどなあ……。


 困惑する俺に構わず、「行くぞ」と厳さんが門をくぐった。そのまま玄関まで向かい、戸を開けて大声で呼ぶ。


「おーい、彩芽!」

「はーい」


 厳さんの呼びかけに、清らかな声が返ってきた。


 とん、とん、とん、と軽やかな足音が近づいてきて、高峰さんが姿を見せる。


「こんにちは、神田くん」

「あ、ああ。こんにちは」


 ふんわりと微笑みながら、高峰さんが挨拶してきた。いまだに状況がつかめないながらも、俺は挨拶を返す。


「じゃあ、彩芽。あとは頼んだぜ」

「うん、わかった」

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