Ep.86 不釣り合いな物々交換
月明かりを反射する甲羅は、ゴツゴツとした歪な造形で夜空を覆い隠す。次々となぎ倒されてゆく木々を避けながらレヴァナントは懐の弾丸を取る。手慣れた所作でカラの薬莢を落とすと、自身の血で濡れた右手で握りしめた八発を補填した。
(……上手くいく保証はないが、試してみるか)
巨大蟹の八つの手足が上空から雨の如く降り注ぐ中、レヴァナントはその動きに合わせて飛び付いた。
「――おら、どうしたぁ?!」
その巨体に似つかわないほど精密に蟹足はレヴァナントを正確に狙い穿つ。
(……ここだッ!)
振り落とされる間際、硬い外殻を繋ぐ関節の隙間に銃弾を撃ち込む。弾かれはしない部位、しかし絶望的に威力が足りない。
「まだそんな銃で遊んでんのか? さっきの蛇頭の方がまだマシだったなッ」
すぐに振り落とされるレヴァナントはまた別の足に飛び乗ると、同じように銃弾を放ち続けた。黒蛇を使うことなく引っ込めたまま八発を撃ち尽くすと、距離を取るように巨体蟹から離れるのであった。
「やっと諦めたのかぁ?! 逃がしはしないがなぁッ!」
追撃せんと爪を伸ばす。レヴァナントは再び呪剣を構えた。
「……よし、準備完了。あとは運任せか」
レヴァナントはイメージしていた。自身の血に潜む黒蛇達が狂い暴れ廻る事を。
「今だ……喰い破れッ!」
「な、なんだァッ?!」
強固な甲羅の内側を、八つの巨大な黒蛇が突き破ったのであった。
◆
「馬鹿なァッ、なんだこれはァ……」
巨体蟹カルキノスは弾け飛ぶように飛散していた。レヴァナントの黒蛇はキャンザァの内部から姿を表すのであった。
「付け焼き刃でも案外上手く行ったな……名づけて黒蛇榴弾ってとこか?」
ミナーヴァの魔法を参考に黒蛇を圧縮するようなイメージで、レヴァナントは自身の血液を薬莢に塗り付けた。蟹の節々から撃ち込まれた血塗られた銃弾は、キャンザァの体内へ進む。そして瞋の剣によって強化された巨体な黒蛇頭は内部から殻を喰い破ったのであった。
這い廻る黒蛇によって砕かれた外殻は粉々に砕かれてゆく。キャンザァ本体と思わしき大きな破片の塊から苦悶の叫び声が聞こえた。
「グァッ、クソ……いい気になるなよ、こんなもんで俺の神水守蟹は――」
「――今だッ! 全員で破片を狩り尽くせッ」
レヴァナントは暗闇に向かって叫ぶ。息を潜めて隠れていた数十人の野盗達は、雄叫びと共に飛び出したのである。
「な、何ィッ?! ちょっと、ま、まてッ――」
盗賊集団は武器を振りかぶり力任せに蟹の破片を叩きつける。殊の外、簡単に砕ける殻は潰されると同時に煙のように消えてゆく。
「これだけ同時に壊されれば再生も間に合わないだろ?」
キャンザァの声を発する蟹の残骸にレヴァナントは再び銃口を向ける。
「終焉王について知っている事あれば話せ。そうすればもう少しは生かしておいてやるぜ?」
「グ……グッゾォォッ、そんな事、話せる訳ねぇだろォォ――」
最後の抵抗とばかりに飛びかからんとする残骸に、レヴァナントは躊躇なくその引き金を引いた。今度は弾かれる事もなく粉々に撃ち抜いたのであった。
『……馬鹿がッ、この借りは必ず返してやる』
飛び散る破片の中で消えて無くならない一欠片がレヴァナントの死角を縫うようにして動いた。小石ほどの小さな蟹は森の闇へと小さな足を動かす。
「オウッ、散らばった破片は全部ぶっ壊したぜ」
『――クギャァ……』
森の奥から現れたステゴロは、レヴァナントを見つけて歩み寄った。命からがら逃げ出した小蟹は思わぬ登場人物によって踏み潰され、小さな光を放ち消えるのであった。
◆◆
夜明けを知らせる鳥の声がようやく聞こえだした頃、御者の男は興奮したように瞳を輝かせていた。
「さあ、約束通り馬を手配してやったぜ。これでさっきの貸し借りはチャラだろう?」
野盗の頭、ステゴロはふてぶてしくいい放つ。
「なんだよ馬一匹しかいねぇじゃねぇか」
レヴァナントが呆れたように呟くと、御者は声を荒げたのであった。
「何いっているんですか?! これはただの馬じゃないっ、神獣【麒麟】ですよ?!」
鼻息荒く騒ぎ立てる御者は、興奮する気持ちを押さえられないように身震いをして続ける。
「麒麟は神の使い! いわば生ける伝説! この青白い絹のような毛並み、冴え渡る赤い鬣、間違いなく神の化身っ!」
騒ぎ立てる御者の男に、ステゴロは表情を曇らせる。すぐに手下の盗賊に手綱を引き寄せさせて怒鳴った。
「バカやろうッ! そんな貴重なモノをなんでわざわざッ―」
「し、しかしボス……その……」
野盗の一人が何かをステゴロに耳打ちすると、浮かない顔でステゴロはまた口を開いた。
「……まぁ、確かにお前らには世話になった。それなら、この麒麟とやら売ってやる。それでどうだ?!」
なぜだか突然丸くなるステゴロの提案にレヴァナントが答えようとすると、彼よりも先に答えたのはタナトスであった。
「そっか! じゃあこれと交換ってのはどうかな? 結構良い品だと思うんだけど」
タナトスは大きな荷物から何かを取り出すと、それを得意気に見せる。宝石のあしらわれた短剣にステゴロは二つ返事で馬と交換したのだ。
「……おい、お前まだ短剣持ってたのかよ?」
「……血糊はちゃんと綺麗に拭いたから、大丈夫だよ」
見覚えのある短剣はかつてタナトスが西の盗賊から拝借した代物。喜んで受け取るステゴロの姿を背に、タナトスは悪戯に舌を出す。
「交換成立だなっ! 用も済んだならさっさと行きな」
ステゴロは麒麟を引き渡すと三人を追い立てるように言い放つ。急かされる御者の男は手綱を握ると馬車を走らせたのであった。
◆◆◆
森を抜け、高野に降り注ぐ朝日を浴びて馬車は軽快に進んでいた。心なしか前よりも揺れの激しい馬車に、レヴァナントが尋ねた。
「なあ、御者さん。前よりもずっと速くないか?」
「そりゃあもちろん! 何たって麒麟ですよ、この速度ならずっと早く到着できそうです。2日……いや、もっと飛ばせば1日半くらいで国境の街ですよ」
激しく揺れる馬車を器用操る御者の男は、興奮したように鼻息荒く答える。
「本当かッ?!」
身をのり出すと勢い余って振り落とされそうになる、レヴァナントは馬車の進む遠くの荒野を眺めるのであった。