Ep.72 劣等感
タナトスの姿が扉の中へと消えた頃、ミナーヴァ達は終焉王の刺客が解き放った巨大な虫達と交戦を続けていた。
「なんて数なのッ」
「ミナーヴァさん、大変だっ! ネメシス君の傷、かなり深いよ。早く治療しなくては……」
大百足によって負傷したネメシスを庇いながら戦う二人は、逃げ場のない岸辺で苦戦を強いられていたのであった。
「僕の事は捨て置いて下さい……それよりも扉に向かった本体を……きっとタナトス姉さんが、危ない」
ネメシスは二人に懇願する。タナトスを追いかけ扉をくぐっていった大百足の目的は知る由もない。それでも間違いなく姉に危害を加える恐れがある。次期当主に成り得る姉を何としても救いたいのであった。
「馬鹿なこと言わないで。あなたを見殺しにしたらあの子が悲しむ」
ミナーヴァはそう言って雷撃を放ち続ける。焼き払われる虫達、しかしその身体はすぐに再生し襲いかかってくる。
「そうだとも。僕らはリーパーちゃんに助けられてばかりだから、君を守りきれなきゃ顔向けできないよ」
獣のような姿に変身したキルビートは、歩けないネメシスを背負いながら必死に虫達から逃れていた。すぐに特大の稲妻が周囲を凪払う、ミナーヴァは退路を確保するとキルビートに叫んだ。
「キルビート、あなたはネメシスを連れて早くここを出て! タナトスの加勢には私が向かうッ」
頷くキルビートは元来た階段を目指し駆け出す。すぐに沸き出る虫達を退けながら半獣の彼は進むのであった。
「ま、待ってく、ださい……姉さんを、助けに……」
ネメシスは弱々しく口を開いた。いつの間にかミナーヴァの作った退路は虫達に塞がれ、ついに逃げ場が無くなる。襲いかかる虫達がキルビート目掛けて飛び立つのであった。
◆
その時虫達の猛撃は急に止まった。奇声を放ち始めた虫達は次々にその場へ崩れ落ち、化石のように砕けたのであった。
「何が起こったの、急に苦しみだしてる?」
「虫達が消え始めてる……」
「……あそこに、タナトス姉さんが」
キルビートに背負われたネメシスは、扉の前に立つ姉の姿を見つけて震える指で指した。
湖の中心に聳える扉は片方だけ開かれていた。中から現れたタナトスらしき少女の頭を、爛れた大きな手覆い被さろうとしていたのであった。
「あれは、タナトス?!」
「リーパーちゃんが危ないッ!」
心配する二人の目に思いもしない光景が写る。赤黒い巨大な手はタナトスの頭上で止まると、再び扉の中へと帰っていった。まるで優しく彼女の頭を撫でたような奇妙な光景に二人は固まってしまうのであった。
「……あっ! おーい、今戻るからね」
岸辺でこちらを見つめる姿に気がついたタナトスは三人に向かって手を振ると、元来た道を引き返すように再び水面を駆け出したのであった。
「よっ……ほっ、っと……皆ただいま。……あれ? そんなボロボロでどうしたの?!」
「あなたこそ大丈夫だったの? それにその格好は一体何があったのよ?!」
ミナーヴァは扉から帰ってきた彼女の容姿に驚いて尋ねた。つい数分前まで幼さの残る顔立ちだったはずのタナトスは、扉の向こうで着替えたであろう装束も相まってすっかりと大人びていたのであった。
「扉の中でお母さんに貰ったの。髪の毛も結って貰ったんだよ。似合うかな?」
嬉しそうにクルリとその場を回るタナトス。後ろを向いた彼女の腰元のベルトには、二本の短剣が携えられている。
「お母さん……?」
理解が追い付かないミナーヴァは口を開けたまま彼女をじっくりと見いってしまう。そんな呆けるミナーヴァにキルビートは声を荒げた。
「ミネルウァさん! そんな事より今は早くネメシス君をッ」
「ネメちゃん?!」
タナトスはキルビートのすぐ横で苦痛に悶える弟の姿に気がついた。
「ね、姉さん……その服は……母様の」
「ネメちゃん大丈夫なの?! 酷い怪我だよ……」
「僕なら、平気だよ……この二人に助けられた……それよりも、姉さんが無事で良かった……」
姉の安否を確認したネメシスは、肩の力が抜けたように壁寄りかかった。
「ネメちゃん……ありがとう。私ね、お母さんから全部聞いたんだ。七死霊門とリーパー家の呪いの事。お父さんが私のために祝詞を考えてくれた事。アイテル姉さんもネメちゃんも、私の事を守ってくれていたんだね」
顔を上げたネメシスは初めて見る姉の真剣な眼差しに、口を開けて呆然としてしまう。
「私ね、ずっと勘違いしてた。リーパー家の血筋なのに呪術はまるで劣等生で……たまたま七死霊門が使えるってだけで次の当主に決まっちゃって。きっと二人は、こんな私の事が嫌いなんだろうなぁってなんとなく思ってた」
「タナトス姉さん……? 何を言って……」
口を挟み掛けるネメシスに近寄ると、彼の頭を優しく撫でるタナトスは続けた。
「だけどそれは、全部が私の為を思ってだったんだね。本当の事を聞いてさ、私凄く嬉しくて。家族からこんなにも愛されていたんだって。だからネメちゃん本当にありがとう。アイテル姉さんにも、今度会ったらちゃんと伝えなきゃね!」
タナトスは満面の笑みでそう告げた。幸せそうな姉の笑顔に、ネメシスは目頭が熱くなるのを感じた。およそ恵まれてなどいない重い呪いを背負わされた姉は、リーパー家を怨む事すらしないのであった。
「さぁ、すぐに家帰ろう!」
ネメシスを立ち上がらせると、タナトスは再び彼の頭を撫でる。彼女の姿にネメシスは幼い記憶に残る母の面影を見たのであった。急に溢れ出る涙を必死で隠しながら、姉の胸に顔を埋めるネメシスなのであった。
◆
「オルトロス、ネメちゃんが怪我してるの。全速力でお家に連れていって!」
宝庫の外へ出たタナトス達は、入り口で待っていた二つ頭の猛獣オルトロスの背に乗った。タナトスの言葉に唸り声で答えたオルトロスは全身の毛を逆立てると、恐ろしい程の速さで駆け出したのであった。
「皆っ、しっかり掴まっててねっ!」
「は、速すぎるッ――」
「キルビートッッ! ネメシスをしっかり支えてッ――」
猛烈な向かい風に堪えながら四人は必死にしがみついた。荒野を掛ける巨大な獣は、竜巻のような猛烈な砂埃を後ろに巻き上げて進んだ。やがて遠くにリーパー邸を捉えると、オルトロスは少しだけその速度を落としていった。
「み、皆……大丈夫?」
ミナーヴァは乱れた前髪を直しながら同乗者の安否を確かめた。すぐ近くで縮こまるタナトス。苦痛に顔を歪めるネメシス。そんな彼を守るように覆い被さるキルビート。四人は無事に長い家路を越えたのであった。
「タナトス、そういえば……その短剣が新しい死柱なの?」
ミナーヴァはタナトスがしっかりと抱き抱えている二本の短剣を指差して尋ねる。
「うん、これもお母さんから貰ったの。まだ試してないけど……」
タナトスはそう言って短剣を抜いて見せる。複雑な装飾が施された刀身が、夕陽を反射して輝く。
「なんとなく前の死柱よりしっくりくるんだ。私、前よりずっと七死霊門使いこなせる気がするの」
短剣を鞘へ戻すタナトスはそう言って微笑んだ。その瞬間、ミナーヴァは彼女の姿に狂気にも似た冷たいモノを感じた。
「それはそうと……ミーネちゃん……」
不意にいつもの表情に戻るタナトスは、眉を潜めてミナーヴァに近寄った。なにやらゴニョゴニョと口ごもった様子で何かを尋ねようとしていたのである。
「どうしたの?」
「あのね……お母さん、服は用意してくれたんだけど、その……他に、着るものは無くてね……」
モゴモゴと聞き取りづらい声で彼女は続ける。
「私、そのほら……前はこんなに大きく無かったから、ミーネちゃんは……あの、ここはどうするのが普通なの……?」
「大きくって……なッ、あなた……?!」
視線をタナトスの胸元に落としたミナーヴァの顔がみるみる赤く変わる。突然の彼女の大きな声に、キルビートは心配そうに声をかけた。
「ミネルウァさん、どうしたの?」
「キルビートッ、こっちを見ないでそのボロ布貸しなさいッ!」
「え? ちょっ、ちょっと一体何が……」
「いいから早く渡しなさいッ!」
ミナーヴァは猛烈な勢いでキルビートが纏っていたローブを奪い取ると、そのまま追い払うように離れさせた。
「タナトスッ、これ巻いてなさい! まったく、あなたって子は、いつもそうゆう所が――」
「エヘヘ……ミーネちゃんありがとう。家についたらアイテル姉さんの使ってないヤツ探してみるよ」
苦悶の表情を浮かべるネメシスを他所に騒がしい二人。キルビートは突然身ぐるみを剥がされ、訳も解らず向かい風の寒さに耐える。四人はようやくリーパー邸へとたどり着いたのであった。