Ep.169 逆転の兆し
黒い雲は吸い寄せられるように遠くに浮かぶ異形の生物へと流れてゆく。禍々しいそれに近付くに連れ、周囲の光景は悲惨さを増していた。
荒廃する足元に意識を向けながらも、二人の視線は片時も怪物から外れない。先行するレヴァナントの背を追いかけるティナは複雑な心境で言葉を探していたのだが、ついぞ一言が出ないでいた。
そんな彼女の様子を知ってか知らずか、先を走る男は振り返ること無く口を開く。
「衝突したら俺の合図で奴から離れてくれ。オルクスも連れて出来るだけ離れて欲しい」
レヴァナントの話を聞いたティナはようやく重い口を開けた。
「そんな……あなた一人で何が出来るって言うの?!」
眼前の怪物は既に人智を越える程巨大化している。どう考えても相手にすらならないことは目に見えてわかる。
「ああ、俺一人じゃ奴まで近付けない。だからティナの力が必要なんだ」
「私は、何をすれば良いの……?」
空に浮かぶ異形まで後僅かといった所に近付くと、レヴァナントは足を止めて振り向いた。確かな勝算があるのか、その顔に浮かべた曖昧な表情にティナは眉を寄せる。
「夕暮れ時まで後少し。それを逃したらチャンスは無い。頼むティナ、俺を信じてくれ」
彼の目には固い意志が窺えた。理由を聴いたところで彼の決意は揺るがないであろうと、唐突に理解してしまう。間近で見る怪物はその猛威を禍々しく振るう。
「何もわからないけれど、あなたに任せても平気なのよね?」
「ああ。あの化物は必ず俺が何とかする」
レヴァナントは迷い無くそう答えた。
「……わかった。でも約束して、必ず貴方も生きて帰ってきて。これ以上、誰も失いたくない」
ティナは目に浮かんだ感情を振り払うように空を見上げて言った。
「心配すんな。今の俺は呪われた不死者、そう簡単にはくたばらねぇよ」
彼は笑って答えてた。黒い雲の切れ目に沈み行く橙色の光が見えた。
◆
「――オルクス!」
鳴り響く破壊の調の合間にティナは彼を見つけて叫んでいた。異形の鎧姿のオルクスは師の特大剣を構え、迫り来る怪腕に向けて応戦していたのだった。
「馬鹿野郎ぉッ、ティデイナは引っ込んでろって言ったはずだろう!?」
特大剣は迫り来る不気味な獣の牙を穿つ。猛攻は止まることを知らず、オルクスを徐々に劣性へと誘ってゆく。ほんの一瞬生じた彼の弛みを、怪腕は見逃さなかった。形を変え鋭い歯を剥き出した獅子の腕がオルクスの背後から迫る。
「――極剣、虚空連歌」
獅子の牙がオルクスに届くと思われた刹那、ティナの音速の突きはその行く手を弾いた。進路のそれた怪腕は遥か先へとその衝撃を伝える。
「オルクス、私も戦う。そうでなきゃ師匠に顔向け出来ない。それに――」
ティナは視線を背後へと向ける。追撃とばかりに迫る獣頭を模した二本の怪腕が迫り来るなか、彼女は構えを止めた。
「馬鹿ッ、言ってる側から油断してんな――」
慌てるオルクスを尻目にティナの視線は既に本体へと向いていた。唸り声が迫る背後には気にも止めずオルクスへと手を伸ばす。瞬間、彼女の背後で大きな炸裂音が響いた。
「大丈夫、彼も師匠の意思を継いでるから」
オルクスは交差する怪腕に眉を寄せた。ティナを狙った怪物の獣頭達は狙いを逸らされ地上へと落ちてゆく。レヴァナントの放った剣技、流剣は二つの強大な暴力を残らず受け流していた。
接触する間際に打ち放った斬撃に耐えきれず、拾った騎士剣の刃は粉々に砕け散る。衝撃が巻き起こした砂煙漂う中心に立つ黒い戦闘服姿の男は、折れた騎士剣を投げ捨てると新たな武器を拾い上げて構え直していた。
「……チッ。クソ雑魚野郎の出番なんて、微塵もねぇんだよ」
特大剣を握り直したオルクスは額に青筋を浮かべて吠えた。頷くティナも得意の構えで怪物を見据える。
「もう少しだッ! 後少しだけ、このまま持ちこたえてくれ」
拾い上げた斧槍を構え、レヴァナントも叫んでいた。空は黒い雲と同化するように暗く沈んで行く。