Ep.150 代償の大きさ
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……」
唸り声を上げながら膨らむ黒い塊は、その背に黒い羽を造り上げると空へと舞い上がった。無数に絡み付く蛇の頭の絡み付いて出来あがった大きな両翼は、羽ばたく毎に凄まじいつむじ風を撒き散らす。
「もう少しだよ。待ってて、レイスちゃん……」
燃え盛る獣を駆るタナトスは徐々に近づく黒い塊に目を細めて呟く。吹き上げる火柱を足場に駆け抜ける獣は、すぐ目前といったところで反転する。獣は何かの気配を感じ取ったのか、背後に向かって唸り声の威嚇をがなり散らすのであった。
「私は今忙しいんだ。後にしてくれないかな?」
眉を寄せるタナトスは後ろを追ってきた人影に告げる。火柱の巻き起こす灰色の煙を縫って、黄金の翼は姿を表した。
「それは僕としても同じ意見だ。テュポエウスの回収の邪魔はさせない」
現れた天命騎士ブレイズは黄金に輝く礫を繰り出す。タナトスが駆る業火の怨霊はそれらを軽々と燃やし尽くすと、死角へと巨体を翻したのだった。
「あれじゃない……レイスちゃんは私の大切な友達だよ」
空を斬るタナトスの短剣は何もない空間に光を残した。たちどころに強くなる怪しい光源は彼女の声に呼応する。
「罹病門、開きます……廃吐息」
空中に現れた腐食の激しい扉が開かれると、暗闇からナニカの口が伸びる。鼻を突く腐臭を放ちながら開かれた異形の大口は、まるで吐息を吹き掛ける様に白い煙をブレイズへと浴びせた。白煙に包まれる騎士の身体は瞬く間に崩れ落ちてゆく。
「――これが終焉王の求めていた扉の力……凄まじい異能だ、確かに興味深い」
崩壊するブレイズの身体は光の粒に変わると、再び集結する。
「……だがそれでは、不死者には通用しない」
ブレイズは再び翼を広げるとタナトス目掛けて空を駆ける。翻した両翼の間から煌めく刃を突き出すのだった。
「これで終いだッ、君も我が血となるがいい――」
突き立てた刃は少女を貫くと、紫色に輝く午後の日向へと進む。空に進む黄金は確かな手応えを覚えて高笑うのであった。
「……そこで遊んでいて。私は今、忙しいの」
彼方に進むブレイズを尻目にタナトスは獣と共に駆ける。罹病門の撒き散らした毒の幻覚に侵された彼を哀れんだように彼女は進んだのであった。
◆
「……まだ、大丈夫」
焼け爛れた左手を握り締めるタナトスは、右手で鼻を伝う違和感を拭う。袖口に拭われた赤い血に、強がりのような笑みを浮かべて呟いたのだった。
「二つのめの約束を破ると、こうなるって事だったのか」
痛みは不思議と感じなかった。火傷と内蔵の痙攣する感覚。不思議と頭では供物を捧げずに呪術を使った代償なのだろうと納得している。タナトスはそれら全てを受け入れる様に、笑ってまた呟いた。
「このまま、レイスちゃんの所まで……私なら平気だから、こんなの全然、痛くないよ」
燃え盛る毛皮を揺らす怨霊は犇めく黒い塊へと跳んだ。揺れ動く衝撃は幾度も痛みを押し寄せるのだが、タナトスは呻き声の一つも上げずに耐える。
「レイスちゃん、そこにいるんでしょ!?」
固まる黒色の怪物は幾度も分裂を繰り返し膨らみ続ける。膨大に広がる黒蛇達は近付いてくる彼女へ向けて、警告するように牙を剥いた。唸り声は全てタナトスへ浴びせられている。
「――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ」
絡み合う大蛇はタナトスの駆る業火の怨霊を遥かに凌駕する大きな口を開き掛かった。
「レイスちゃんを返して! 裂傷門、開きます。切裂刃爪」
再び現れた扉から赤黒い腕が飛び出す。歪に伸びたそよ指先には真っ黒にくすんだ鋭い爪、掻きむしる様に大蛇にそれを突き立てたのだった。
「――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
裂けた蛇の頭は枝を分ける様に再び形を変えると、一斉に怨霊の怪腕を締め上げた。
「つぅっ……ま、まだだよ……」
右肩から腰に掛けて深く刻まれる裂傷に、タナトスは堪えきれずに吐血した。それでも黒蛇の隙間を抜ける機会を伺う彼女は、次の扉を開く印を刻み付ける。
「ら……羅針門、開きま……」
タナトスの声が飛び出す間際、蛇はその喉元に喰らいついた。声も出ない状況にも関わらず、彼女は必死に短剣で空を斬るのであった。
「……ゴフッ……び、らぎまず……圧縮発声」
膨張を続けるレイスを挟むように対の扉から怨霊が顔を出し、大気を震わせる不協和音を轟かせる。一時的に黒い塊は押し込められたように見えた。
「このまま……いけ……ば……」
タナトスの鈍痛が響く。強大な呪術の代償は既にいくつもの致命傷をその身に深く刻んでいたのであった。堪えきれず身を捩る一瞬に、黒蛇達は一点に絡まり巨大な大蛇を造り上げた。
「……そんな、七死……霊、門でも……抑えきれない」
大蛇はタナトスを呑み込み、更にその黒色を空へと拡大したのだった。