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意固地な育児なし

作者: amaki

 上京前、電車に乗り込もうとする私に向かって、母親がこんなことを言い出した。

 「浩美、あんたは顔も運動も勉強もたいしたことない。なのに、口だけは上手いやん。だもんで、あんたは口で生きていかなかんよ。口が災いしたら、あんたは走るのがちょっとだけ早いもんで、走って逃げなさい」

 そのときほど、我が娘に何てことを言うんだと思ったことはない。

 私は口が上手い? そんなことを人に言われたことは初めてだったし、もちろん親の口から出るとも思っていなかった。

 とはいえ私には、その「口」とやらをどうやって人生に活かしたら良いのかが分からなかった。

 噺家だろうか、それとも政治家だろうか。しかし、いくらそんな大それた夢を見ようとも、私が既に私立の文学部に入学してしまったことに変わりはないのである。伸び代がもう幾分もない大学生活を始めようとしている私にとって、頭の痛いアドバイスであったことは間違いない。もっと早く教えて欲しかったよ、お母さん。

 それでも母親の言葉というヤツは大きいもので、入学してからも私の頭の中を回り続けた。


 「私にも出来るんだからやってみなよ。時給も悪くないのよ」

 同学年の恵理から個別指導塾のアルバイトの話が舞い込んだのはそんなときである。

 母が言うように、「たいして」頭がよくない私に出来るものであろうかと一時は悩みもした。ただ、塾講師とは話すのが仕事だ。これで母親の意向にも沿え、悩まずに済むということを鑑みれば、特別断る理由も見当たらなかった。

 幸い、小学校や中学校の生徒が基本らしく、そこまで大学受験で良い結果を残すことが出来ていなかった私でも出来そうな学習内容ばかりで、なんとか続けることが出来ている。

 ただ、アルバイトというものを初めて経験する私には、どうしても問題点があった。

 母親の呪縛から逃れるという余りにも適当な理由ではじめたこのアルバイトは、とにかく大変だったのである。


 「浩美先生も、ここで教え始めて3ヶ月ですね。そろそろ慣れてきましたか?」

 教室長が仏のような顔と声とで接して来た。ここでは下の名前に先生を付け、敬語で話すことが教室のルールとされている。

 「美貴先生、お疲れ様です。ようやくですけど、緊張はほぐれてきました」

 「それは良かった。でも浩美先生、これからは緊張感を絶やさないことが大切ですよ。生徒は生徒、友達ではありませんから。では、お疲れ様です」

 塾講師はみんな笑顔だ。そりゃあ接客業と言ってしまえばそれまでだが、どうしてここまでの優しさと、笑顔を提供することが出来るのだろう。

 私には彼らが「プロ」に見えた。

 私は教室長に会釈をし、目一杯の笑顔で返事をして教室の扉を開ける。

 教室は小さなビルの二階に位置しており、小走りで螺旋階段を駆け下りる。螺旋階段を降りるとそこはビルの前で、車道沿いの歩道のようなところに行き着く造りになっている。そこには待っていた恵理が、疲弊し切った様子で立ち尽くしていた。


 「お疲れ」

 教室から15分程度離れた居酒屋で、マリブコークのグラスをカチンと鳴らす。お互いにシフトが入っているときは必ず二人で来ることになっていた。

 東京の女子大生は、軒並みカフェやバーに行くものだとばかり思っていたが、恵理は「敢えてよ」と譲らず、こうして毎回無理矢理にでも連れて来られている。

 「もう浩美も3ヶ月よね。そろそろ慣れたてきたんじゃないの」

 マリブコークを疲れ目で眺めていた恵理が言う。それを一気に飲み干していく彼女は、スーツ姿も相まってOLさんのように見えた。

 「全然。何あれ、デスクワークとか言うから楽だと思っていた私が馬鹿だったよ。子どもに教える以外にも4つも5つも書類の記入欄を埋めなきゃいけないし。授業日の振替は保護者とも擦り合せなきゃいけないって理由で、完全固定シフトなのが一番衝撃的だったかな」

 プハァと飲み終えた恵理は、グラスを少々大げさに机に置く。

 「まあまあ、そう言わずに。私もその辺はかったるいかなって思うけど」

 「やっぱり、私には向いてなかったのかなあ。他の塾講師はみんなプロっぽいし」

 「プロっていうほど、プロかね」

 「私から見れば恵理だってプロだよ。私はアマチュア、甲子園クラスかな」

 自分で言っておいて、甲子園クラスもなかなか凄いものじゃないかと、独りでにツッコミを入れたくなる。高校球児たちに謝りたいほどだ。

 私はきっと、草野球レベルだろう。

 「でもさ」と恵理は続ける。

 「それを差し引いても、時給はやっぱり魅力的よ。コンビニや居酒屋じゃ、こうはいかないわ」

 恵理は何かと時給の良さを推してくる。

 「それはそうだけど。でも、やっぱりキツいかな。私には子どもの扱いなんて分かんないよ。それに、ちょっと子どもは恐い」

 「大丈夫よ。東京の子どもなんて自立するのが早いんだから。何考えてるのかよくわかんないけど、そういう子ほど好きにやらせたらいいのよ。あ、マリブコークもう一杯お願いします!」

 恵理も上京組で、私と同じような田舎の出身らしい。勝ち気で痛々しいところもあったけれど、どこか一本筋が通っているような、そんな元ヤンみたいな子だった。

 「確かに、みんな少し変わったとこはあるね。『私のときってこんなに大人びていたっけ』とか、『そこだけそんな無茶苦茶な価値観なんだ』とか」

 「そうそう。あ、どうも」

 恵理は新しいグラスを受け取りながら、話を続ける。

 「私も半年前には似たようなこと考えてたかもしれないわね。だけど、それが面白いし、凄さだと思うのよ。アイツら、東京の養分でとんでもない育ち方してるから」

 そこまで言うとまた恵理は二杯目のグラスを一気に空け、手元の煙草に手を伸ばす。火を点け、美味しそうに吸い始める。


 私は、就職に困らないという考えもあってのことだが、東京というところに憧れて今ここにいる節がある。

 実際に来てみれば、格別に何かが違うということはなく、少し便利になっただとか、流行を少しだけ理解出来るようになったぐらいしか見当たらない。

 駅員さんは冷たいし、売り子さんはしつこい。何が良くてこんなところにいるんだろうと思うこともあった。

 それでも帰りたいかと聴かれたら、長い目で見てもそういう気は起こりそうにない。ここにいれば何かにチャレンジしても許される、誰にも何も言われない。そんなことは当たり前のはずなのに、そんな可能性を感じるのがこの東京だった。

 嫌いになれそうで嫌いになれない。何にでもなれそうで何にもなれない。その不思議さが、私にはとても居心地のいいように感じる。


 「東京の魔力、か」

 私は心の中の感想が、ポロっと出てしまうようにつぶやいていた。

 恵理は煙に噎び、半目でこちらを見ている。

 「魔力って。だったらアイツらは魔人の子どもってことね。悪魔ちゃんとか、怪物くんみたいな。ほら、そう考えたらもう恐くないでしょ。むしろ愛おしいわ」

 「なるほど。ちょうどモンスターペアレントって言うくらいだしね。なんとなくそれ、分かる気がする」

 「でしょ? ああ、なんかアイツら急に可愛くなってきた」

 恵理のこういうところが可愛いと私は思う。見た目はケバケバ、普段の外面から想像もできないようなギャップがあるのだ。ギャップ萌えという言葉が相応しい。

 「恵理は悪魔ちゃんみたいかも」

 率直な感想をぶつけてみる。

 「え、そう? そんなこと言われたのは初めてだよ」

 「なんか小悪魔っぽいところもあるし」

 「あ、そっちなの。どうかな、どのみちそんなこと言われたのは初めてだね」

 恵理は分かりやすく照れて、煙草の火を灰皿へ押し潰す。そして髪の毛をクルクルといじり始めた。

 「私は悪魔ちゃんでもなんでも良いけど、怪物くんといえば、あの子かな。快斗ってヤツ。アイツはとんでもない怪物だったよ」

 快斗くんとは、私たちが働く教室の生徒だった。小学校一年生で、教室内ではたいそうな奇天烈な少年として知られている。

 最初に名簿で名前を見たときは、あの「まじっく快斗」と同じ名前だと期待に胸を膨らませたものだが、実物は怪物くんどころか、まさに怪物そのものだった。私が遠目で授業を眺めている限りでも、先生を困らせるようなことを言い、最終的には奇声を発していた。こう言ってしまってはなんだが、正直私の担当ではなくて良かったと、心底ほっとしてしまう。

 「今日も快斗の担当だったんだけどさ、もう酷かったわ。アイツ、何言ってるのかよくわかんないのよ。なのに時々、『本当に小学一年生かよ』って思わせるようなこと言うのよ」

 恵理はそのあと、授業の最初は真面目に算数を解いていたこと、野球の話をしていたら急に機嫌を損ね、奇声を発するようになったこと、少しそれを注意すると余計に激昂して帰ってしまったことを話していた。だから今日は特にお疲れなのである。なるほど。

 恵理の話し方から話を聴いている分だと、快斗くんは、もはや人間とは呼べなかった。


 「でもアイツ、頭は本当にいいのよねえ」

 しばらく他の話題へ脱線していた飲みの席ではあったが、恵理は気掛かりなのか、また怪物くんの話に戻ってきていた。

 「このままじゃ勿体ない逸材だと思ってしまうのは、悪いことなのかねえ」

 恵理は、もう何杯飲んだか分からないグラスの淵で弧を描いている。何かをクルクルさせるのが癖なのだろう。

 「別に生徒に期待することは、悪いことではないんじゃないの」

 私は恵理を宥めるように言う。

 「そうじゃないの。そうじゃないのよ。生徒に期待しちゃうことが酷だと思うのよね。私だってそんなに勉強ができるわけじゃないし、あの頃は勉強が一番大事だったなんて言えない。もっと大事なことがあったんじゃないかって思うの」

 恵理がこのアルバイトに向いているかどうかは分からない。それでも時給の良さを推しているわりには、真摯に取り組んでいることがよくわかった。

 「ねえ浩美、ピグマリオン効果って知ってる?」

 難しそうな言葉、でもどこかで聴いたことがあるような言葉だった。

 「ごめん、わからない」

 「教師の期待によって学習者の成績が向上すること、みたいな言葉らしい」

 「なんとなく聴いたことがあるような、ないような」

 「でも私ね、この言葉、詳しく知らないけどちょっと嫌いなんだ」

 「え、どうして?」

 「確かに、生徒に期待をかければかけるほど、成績っていうのは上がりやすくなっていくんだと思う。でもね、過剰な期待を強いられている子が、気持ち東京には多い気がするの。お受験なんて私の周りには無かったから、なんで小さな子どもが週末に外で遊びもせずに勉強してるんだろうって」

 私たちが働くあの教室は個別指導塾で、進学塾という意味合いよりは、学習習慣の確立を目指す塾という色の方が濃かった。それでも、今のうちから勉強を生活サイクルに叩き込んでおかなければならないと、門を叩かされる小学生低学年の子もいないわけではない。

 「快斗もなあ。今から目指せば名門の私立を狙えるって、あそこにぶち込まれたクチでさあ。見てられないっていうか。そもそもなんで、そんな上を目指してるような子がうちに来てるのよって感じだけど」

 「でも、子どもに期待をするって言うのは、大事なことだと思うけどなあ」

 言っていて自分でよくわからなくなりそうな話題であった(酔っているせいもあった)が、やはり期待をすることは大事ではなかろうか。

 「それはそうだけどさ。何て言えば良いのかねえ。すみません、おかわりください!」


 結局その日の恵理はたいそう酔っぱらい、恵理を家まで運ぶ残業を抱えることとなった。でも私は、今日の恵理を見ていると、それが嫌だという気持ちにはならなかった。


 教室長から私に、快斗くんの担当の話が回ってきたのはその翌週のことである。これまで恵理を含めた、半年以上の講師歴がある人たちでローテーションを組んでいた。しかし私が慣れてきたのを機に、担当へ就いてみてはとのことだ。

 その日の帰り間際に突然の話だったので、面を食らってしまった私は、とりあえず断らなくてはならないということだけを決めた。

 「大変申し訳ありませんが、私になんて勤まりませんよ」

 先週恵理からあんな話を聞かされたばかりで、さすがに快く引き受ける気にはなれなかったのが大きい。

 「大丈夫ですよ。浩美先生もようやく緊張がほぐれてきたばかりですから、このあたりでもう少し、新しく担当する子の授業を増やしてみるのもいい経験になりますよ」

 「ですから、私にそんな力は」

 仏のような顔を崩さず、教室長はそのまま続ける。

 「快斗くんが嫌いですか」

 「いえ、そうじゃないんです! だけど、快斗くんは人一倍繊細な子だと聴いていましたから、講師歴の浅い私が担当して、もし気に障るようなことをしてしまったらと思うと」

 「気に障ってもいいんですよ」

 「え」

 「ですから、気に障っていいんです」

 教室から続々と生徒が帰っていき、授業計画を見直していたり、振替の電話をかけている講師の若干名が残るだけになっていた。

 「本当は塾経営として、こういうことを言うのはよろしくないんですけどね。でも、浩美先生。たまに気に障ってしまうくらいのコミュニケーションも出来ないで、どうやって生徒の心を開くんですか。少々図々しいくらいの方が丁度いいんですよ。それでもし、快斗くんが『もうこんな先生嫌だ、辞める』と言ったら、そこからは私の仕事です。保護者と連携して、辞めることを止めさせればいいだけですから」

 他の講師の目を気にしてか、教室長は限りなく穏やかな声で話してくれている。内容も声も、まさにこの人は仏だ。

 「でもそれでは、美貴先生にご迷惑をお掛けしてしまうことに」

 「いいんですよ」

 「ですが」

 「やって、いただけますか」

 「は、はい」


 こうして私は、なし崩しに担当を引き受けることとなった。しかし、後悔はそれほど待たないうちにやってきてしまったのである。


 そのまた翌週、私と快斗くんによる最初の授業が始まろうとしていた。

 快斗くんがこの教室で受けていた科目は、算数の個別指導のみであった。そのため私も必然的に、快斗くんの算数の担当講師ということになる。

 算数に苦手意識があるという訳ではなかったが、授業準備には嫌が応にも力が入った。

 しかし当の本人は、なかなか待っても現れる気配がない。教室のルールでは15分待っても来ないようであれば、電話をかけることになっている。

 12分が経過した。この3ヶ月間で、10分待っても来ない生徒は15分待っても来ない、という法則を見つけた私は、ここらで電話をしてしまおうという結論に至った。

 席を立ち、正面玄関を入ってすぐのカウンターまで向かう。そこに置いてある子機に手を伸ばし、番号を打ち始めたそのときであった。


 バーン!


 ものすごい音を立てて扉を開け、この上なく笑顔で息を切らしている少年が玄関の前に立っていた。

 「おっと。大人ニンゲン」

 まるで意味が分からなかったが、とりあえずそのままにしておくことにした。

 「扉ものすごい音がしたよ。壊れちゃうからゆっくり閉めないとダメだよ」

 私がそう宥めるのを遮り、聴いていないのか教室の奥へ駆け足で走っていく。

 ちょっと待ちなさい。快斗くん、土足のままじゃないか。

 「大人ニンゲン」

 「おお、快斗くん。相変わらず元気だねえ」

 まず最初に快斗くんが向かったのは教室長のところだった。

 さすがに教室長というだけあって、彼とまともに会話を成立させることが出来る唯一の存在だ。会話も弾み、小躍りしながら快斗くんは何かを話している。この間も快斗くんは、土足のまま教室で躍動していた。

 仕方がなく私も、会話を傍で聴いていることにした。

 「今日、桑田が先発なんだよ」

 「桑田? プロ野球選手の人かな」

 「他に誰がいるの。やっぱり美貴は馬鹿だね。馬鹿だからこの塾も潰れちゃうね」

 あの仏の教室長に向かって何てこと言うんだ、この糞ガキは。

 「さあさあ、快斗くん。授業の時間だから、お席まで行きましょうか。ちゃんと靴を脱いでから行くんだよ。浩美先生」

 教室長がさりげなく私に、快斗くんを誘導させようとするところは流石だなあと感心する。しかし、今は自分のことを考えなきゃ。コイツからは既に、うっすらと怪物のオーラが滲み出ている。

 「桑田はね、緩球が凄いんだよ」

 結局、快斗くんは席に着いた後も教室長と会話をし続ける状態が続いた。30分くらいだろうか。遅刻した15分と合わせたら、もう半分の時間しか残されていなかった。これでどうやって授業をやればいいと言うのだろう。

 教室長がまたあとでね、と快斗くんに手を振ってからようやく授業が始まった。

 「ええっと、今日から私が快斗くんの算数の担当講師になりました。よろしくね、快斗くん」

 快斗くんは急につまらなさげになり、だんまりを決め込もうとする。

 「今日の算数はここだね。面積の計算をやります。学校ではまだやってない分野だから、ちょっと大変だと思うけど頑張ろう」

 「快斗くんは算数、好きかな? 計算で間違えちゃったらすっごく悔しいよね。先生も小学生のときはよく間違えて、悔しかったなあ。だから、よく見直しをするんだよ」

 「よし、じゃあ大問の1からやってみましょうか」

 私の会話には完全に無反応だったが、それだけ言うと快斗くんは問題を解き始めてくれた。

 スラスラ解けている。小学一年生にしてはなかなかに凄かった。見たところミスも全くない。

 快斗くんは解き終えると、何も言わず解いたノートを3センチくらい私の方へ動かした。どうやら答え合わせをしろという合図らしい。


 (うん。やっぱりノーミスだ)


 それにしても凄いな。これなら、その辺の小学校三年生や四年生とも互角に渡り合えるくらいだ。恵理が惜しんでいた理由はこれなのだろう。

 「すごいよ、全問正解だね。頭がいいんだね、快斗くんは」

 なんだ。しっかり勉強出来るじゃないかこの子。これなら他のこと何も変わらないし、当面は大丈夫そうだ。

 「じゃあこの問題もやってみようか」

 「お、すごいじゃん。ここも得意みたいだね」

 「じゃあ体積計算もやってみようか。ここはね、これまでと基本は変わらないから……」

 解かせては解説、解かせては解説を繰り返して、その日の授業は終わった。その間、快斗くんが口を開くことは最後までなかったが、授業中は静かにするということをちゃんと理解しているのだろう。快斗くんが怪物とばかり思っていた私の気持ちは、取り越し苦労もいいところだった。

 チャイムが鳴って報告書を受け取ると、快斗くんはまた教室長の方へ駆けて行った。


 「あの子、いい子じゃん」

 居酒屋に行った帰り道の電車で、私は一部始終を恵理に報告した。

 「勉強も静かにやれてるし、なによりあの頭の良さ! 凄いね。あの子となら上手くやっていけそうな気がする。カルテにも書いてあったけど、中学年までの学習範囲を網羅するのも時間の問題かしら」

 私は嬉しくて、少々食い気味に恵理に話していた。

 今日の恵理はこないだのような苦労がなかったようで、酔っぱらいと化していない。

 恵理は私の方に顔を向けず、携帯の画面に話しかけるように応対する。

 「馬鹿ねえ。浩美なんにも分かってないわ。本番はこれからよ、これから。様子見だったんじゃないの。獲物を見定めてるのよ。仕留めるときは一気に、緩急をつけてね」

 「桑田……」

 「え、誰? サザン?」


 怪物は桑田だったのか。私はもっと松坂みたいに、150キロ超えのストレートをバンバン投げてくるような子を想像していた。

 だけど、決してそこまでの子じゃないじゃないか。

 他の子のときの授業の方が、色んなハプニングや困りごとを抱えていたりもする。それを考えたら拍子抜けしてしまうじゃないか。

 もちろん何事もなく、淡々と学習を進めていくというのは、一番望ましいことではあるのだが。


 それから1ヶ月間、私と快斗くんは順調に授業をこなしていった。相変わらず快斗くんは時間通りには来ないし、まともに話してくれなかった。でも回を追うごとに、5分だか10分だか前には来てくれることがあったり、「おん」とか「ああ」とか、イエスかノーかよく分からないような返事をしてくれるまでにはなっていた。

 翌月、そろそろ快斗くんにも慣れてきたし、荒ぶりそうな予見もなかったので、雑談を織り交ぜてみることにした。


 「桑田のどういうところが好きなの?」

 この子に振るのに丁度いい話はこれしかなかった。

 「ああ、まあ普通に」

 この時分の子どもにこんな返事をされてしまうとは、なかなかに屈辱である。

 「やっぱりカーブがすごいのかな。先生よく分からないけど、なんかこう、ぐぬうって曲がるらしいね」

 「おん」

 やっぱり、話題が悪かったのだろうか。そもそも私は桑田のことはサザンの方が詳しい。自分で出しておいて、助け舟を求めたいような気分だった。

 ただ、やはり快斗くんの頭の中では、野球の話題が相当数を占めているらしい。

 「カーブは、投げ方がすごいの」

 快斗くんがしゃべった。遂にしゃべったのだ。その瞬間の喜びからくる、私の顔のほころび具合といったら、さぞかし気持ち悪かっただろうと思う。

 「投げ方? でもいつもみんな上から投げてるよね」

 私がそういうと快斗くんはこちらをキッと睨んだ。これが私と快斗くんの目が初めて合った瞬間となる。

 「カーブは普通手首を捻るの。でも桑田のカーブは捻らずに投げるの。だから負担もかからないし、怪我もしにくい」

 そんなことも知らないのか、とでも言いたげな素振りだ。しかし生憎、普通の女子大生はおろか、小学校一年生の男子だってそんなことは知らないと思う。

 でもこれで、長く貫いてきた快斗くんの沈黙は打ち破られた。私は食い気味に快斗くんとの会話に打ち込む。

 「快斗くんは本当に野球が好きなんだね。もしかして野球部に入っているのかな」

 嫌々ながらに快斗くんは答えてくれる。

 「うちの小学校、部活動ない」

 「そっかあ、なら少年野球チームとか」

 「入ってない」

 「快斗くんは頭がいいから、監督さんとか向いてそうだよね」

 快斗くんの椅子の向きも、自然にこちら側に向いていた。これはいいぞ。

 しかし快斗くんの膨れっ面は相変わらずである。 

 「野球の監督は、良い選手が歳をとったあとにやるものなの。だから頭がいい人が野球をやるなら、キャッチャーとかなの」

 「じゃあ、快斗くん、キャッチャーをやるのに向いてるんだね。ボールを捕るのカッコいいから、先生応援するよ」

 「先生って、ガンコモノだね」

 不意をつかれて私は驚いた。私は、頑固なのだろうか。

 「先生、頑固ってあんまり言われたことないから意外だなあ」

 こないだの小悪魔と同じようなことなのだろうか。私の潜在オーラが、頑固さを滲ませているという疑いがある。

 そのときだった。


 「ガンコモノ! ガンコモノ!」


 急に快斗くんは連呼し、そのまま暴れはじめた。暴れるといっても、こちらを指を指して私に上手く聞き取れないような絶叫で何かを主張しているだけであったが、このままではとにかくまずい。

 「お、落ち着きなよ」

 「大人ニンゲンが……! ガンコモノは……!」

 依然として怒鳴り続ける。

 結局、私が少し言うくらいでは聴く気配もなく、このままでは他の生徒の迷惑になると判断したのか、5分程して教室長が駆けつけた。

 「どうしたのかな、快斗くん」

 教室長が来ると快斗くんは少しだけ勢いが弱まり、椅子に座り直した。

 「もうやだ、体調崩した。今日は帰る」

 「体調が悪いのかな」

 「なんか、喉が痛い」

 「それは声の出し過ぎだよ。あんなに力一杯大きな声を出したから、喉が疲れちゃったんだね。でも勉強は大きな声出さなくても出来るから、もしかしたらもうちょっと頑張れるかもしれないよ」

 快斗くんは俯いたままであったが、それを否定しているような感じでもなかった。

 「もうちょっと、頑張ってみようか」

 「お、おん」

 教室長のおかげで、なんとか授業を再開することが出来たが、さすがにもうこれ以上の雑談が出来るわけもなく、先月同様の会話がない授業に戻ってしまった。

 なんでこうなってしまったんだろう。私にはそれが分からなかった。

 私は頑固のようだから、頑固な人間から何か悪いことをされた思い出でもあるのだろうか。もしくは、なにか理由が他に。


 授業が終わったあと、教室長に呼び出された。こないだはあんなことを言っていたけど、やっぱりこれは怒られるんだろうと思っていた。

 「あれでいいんですよ」

 怒られなかった。

 「私はとにかくぶつかってみてくださいと言いました。それで生徒の機嫌を損ねてしまったのならそれでいい、と。だからアレで良かったんです」

 「でも、それでも、快斗くんと上手くやれなかったのは私の責任に変わりありません。美貴先生にもご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」

 確かに、何が原因だったかはわからない。それでも、私に何かしら問題があったということだけは疑いない。

 「浩美先生、私は先生に言っていなかったことがあります」

 いついかなるときでも笑顔であり続けた、教室長の顔が曇る。

 教室長は深呼吸を一度して、もう一度息を吸ったそのときに、ゆっくりと口を開いた。

 「あの子は病気で、生まれたときから身体が他の子よりも少し弱いんです」

 教室にはまだ講師が何人か残っている。このことはみんな知っているんだろうか。

 「知りませんよ。他の講師も」

 驚くと同時に、私は頭に血がカッと昇っていくのを感じていた。

 「何で教えてくれなかったんですか。分かっていたら、私は……」

 「私は、快斗くんに内緒だと言われました。男が病気に負けるなんてカッコ悪いから、だそうです」

 私の話を遮るように、教室長は畳み掛ける。

 私は言い返そうとしたが、力が抜けていくのを感じた。

 教室長には有無を言わせないオーラがあった。

 私はこのオーラを知っている。小悪魔でも頑固者でも策士でもない、それは実家の母親のオーラだった。

 快斗くんは野球の話をする。でも野球の話をすれば、どこをどうしたって野球の話しで返される。「そうなんだ。そんなに好きなら、快斗くんも野球やってるの?」と。

 「今まで快斗くんには長い間担当をつけませんでした。でも私は浩美先生、あなたを担当にしました。それはもちろん、あなたになら出来ると思ったからです」

 今回のことは口外しないように、そう言われると教室長の話しはそこで終わった。


 私は教室の螺旋階段を降りた。降りると、目の前にはいつもの車道が広がる。込み合っている時間帯ではなかったので、車の騒音もほどほどに、暗い印象を受けた。私はくるりと180度向き直ると、螺旋階段の裏側のところで立ち尽くし、何が正しいのかを考えてみた。

 しかし螺旋階段の裏なんかで考えていても、浮かぶものも浮かばない。蛍光灯の光が行き届かない薄暗い場所では、考えも暗くなってしまうのだろうか。

 「お疲れ」

 そんな薄暗い私のところまで降りてきたのは、恵理だった。


 「ねえ、だから言ったでしょ」

 恵理は悲壮感を滲ませながら、肩肘を机についた。

 「私のときと全く同じじゃないの。でも一ヶ月、何事もなく授業をやっただけで、浩美は偉いんじゃないかな。私なんか代行の初日で怒らせちゃったんだから。でも所詮はバイトだし、深く考え込まない方がいいのよ」

 私からすれば快斗くんに怒鳴られたというショックの方よりも、教室長との話の方で頭がいっぱいだったのが正直なところだ。

 しかし、教室長のことよりも今は快斗くんだ。快斗くんが楽しく塾に通ってさえいれば、それでいいのだ。


 「ガンコモノ、ガンコモノってね」

 私は珍しくビールを選んだ。ゴクゴクと喉を鳴らせてみると気分がいい。でも、やっばり苦い。

 「ああ、なんか叫んでたわね。私の授業のときは『サクシ! サクシ!』だったわ。策士って言われるほど、策を講じるような力ないんだけどなあ」

 恵理は焼き鳥の串を外しながら答える

 「頑固者よりはいいよ。策士ってちょっと頭が良い感じするもん。羨ましいなあ、私にも頭の良い感じ欲しい」

 「はいこれ、浩美の分」

 「あ、ありがとう」

 小皿をこちらへ寄越す恵理の顔は赤くなっている。もう酔っぱらったのだろうか。

 どうやらこの分だと、間違っても「コアクマ! コアクマ!」とは追加で呼ばれなかったらしい。時には褒め言葉じみている使い方だってあるから、そんな呼び方はさすがに子どももしないか。

 でも快斗くんは「コアクマ!」ではなくて、「サクシ!」を選んだ。ということは、恵理からは小悪魔よりも、策士のオーラが滲み出ているということかもしれない。

 「恵理のときはどんな感じだったの」

 しかし今はオーラなんて何でもいい。私は何故、快斗くんの機嫌を損ねてしまったのか、それだけが知りたかった。

 「こないだも話したじゃんか。なんか野球の話してたら、急に」

 「それって野球のどんな話?」

 「どんなって、そんなたいした話じゃなかったと思うけど」

 「桑田の話とか」

 恵理は困惑したようで、取りかけの焼き鳥の串をそのままほおばる。

 「だから桑田って誰なのよ。普通に、野球ってホームラン打ってる人とか三振させてる人ってカッコいいよね、みたいなこと言ってただけ」

 「そっか。桑田の話だったら原因が見つけられるかもって思ったんだけど」

 恵理は、食べ終わった串を竹筒の中へ入れた。

 「浩美、やけに野球に食いつくわね。詳しそうだし」

 「え、そうかな。今日知らなさすぎって快斗くんに馬鹿呼ばわりされたばかりだよ」

 「普通の女子大生は、野球のことなんて少しも知らないから。知っていても、あの選手カッコいい! しか言わないわよ」

 恵理は呆れ顔だが、それはどうなのだろう。

 「昔ソフトボールでもやってたとかなら分かるけどさ」

 「そういうわけではないよ。でも母親がヤクルトファンで、その影響かな。別に自分が野球をやってたってことではない」

 「ヤクルトってこれまた意外だね。私は全然わかんないわあ」


 私が中学校に入ったあと、ヤクルトはリーグ優勝を果たした。とにかく私は女で、野球なんてやったことがないまま育ったから、若松監督がどれぐらい凄いかなんて分からなかった。でも古田が駄目押しのセンター前タイムリーを打ったときは、家族揃って見ていた。母親はテレビの前で大はしゃぎをしたし、最後の谷繁のショートゴロから高津のガッツポーズに至っては、もうなにがなんだかわからないくらい歓喜していた。

 私は母親に、なんでそんなに喜んでいるのかを聴いてみたことがある。

 「何でって、そりゃあ贔屓のチームが優勝すりゃ嬉しいがあ」

 でも母親は、それまでヤクルトのヤの字も家の中で口に発したことはなかった。

 「これまで数年間は負け続けてきたでね。負けとるときや、不安なときこそ何も言わん方がええのよ。大事なところ、譲れんときだけはスパッとね。だから優勝もここぞと喜ぶ」

 肝心なところだけはしっかりと。「母親はこういう人なんだ」と、母親の性分を初めて知ったのはこのときである。

 「若松監督も何も言わんで、譲れんとこだけビシっという人だったもんで、なんかカッコいいわ」

 私は単純で、その日からヤクルトはすごいんだという固定観念に支配された。

 見たい番組が休止するのが嫌で、あんまり良いイメージのなかった野球中継も、なんとなく観るようになっていた。父親からは、「なんで野球中継なんか観とんの」と感心されたこともあったが、私もなんでだろうと思いながら結局観たものだ。

 次第に優勝したあの日、なけなしのお小遣いを使って、田舎から電車を乗り継ぎ、現地へ向かえば良かったとさえ考えるようになっていた。これは今となっては母親と私の総意である。結局あれから、ただの一度も横浜スタジアムには訪れた試しがないのだが。


 「なんか、濃そうなお母さんね」

 恵理はくすりと笑う。

 私は経緯を恵理にざっくりと話した。

 「意外と普通だよ。たまに変なこというけど」

 「じゃあ浩美はお母さん似なのかもしれないわね」

 ニシシ、と小皿の焼き鳥を摘む。

 「ええ、そうかなあ」

 「そうよ。だって浩美も時々、突拍子もないこと言うでしょ。すいません、私も生お願いします!」

 その後、それならば恵理の方は親と似ているのかという検証をしたりして、塾の話からは遠ざかっていった。

 私はすっかり肩の力が抜けていた。

 まさかあれほどまでに沸き上がってきていた怒りや葛藤が、母親の話などで収まるとは思ってもみなかった。

 でも教室長と母親、私なんかより二人の方が絶対に似ている。きっと教室長も、あの螺旋階段を一度降りてしまったら、母親のような性格をしているに違いない。

 帰りの電車を降りて、改札を出たところで恵理と別れた。

 「今日は色々あったなあ」

 子どもに怒鳴られ、大人に黙らされ、友達に話を聞いてもらった。

 私は久しぶりに、母親に電話してみようと思った。家への到着を待たず、帰路の途中で電話をかけてみる。

 「もしもし、お母さん? 久しぶり。私だけど……」


 その翌週、私は快斗くんとの授業に臨んでいた。

 私は快斗くんにどう接するべきか悩んだ。悩んで、結論を出した。

 母親は「口で生きていきなさい」と言った。教室長は快斗くんの身体が弱いということを黙っていた。今でも私は、それに少しも納得出来ない。私は口ベタだし、快斗くんの身体が弱いということは講師のみんなが知っておくべきだ。

 とにかく、快斗くんは身体が弱いということは、紛れもない事実である。だから野球が出来ない。でも、野球が好きで好きで仕方がないのだ。だったら、それを打開する策を講じることが私の、先生としての義務だと思う。

 「快斗くん。先生はね、頑固者なんだよ」

 体積の問題を解かせていた快斗くんに向かって、唐突に声をかけてみる。

 「頑固者だから、先生がこうした方がいいと思ったことは言っちゃうの」

 相変わらず目線はテキストに向かったままだが、快斗くんは黙って私の話を聴いているらしかった。

 「私は快斗くんが監督に向いていると思う。快斗くんは頭が良いし、伝えたいことははっきりと伝えられる子だよ。だから私は、監督に向いていると思ったの。でも今の快斗くんは正直じゃない。このままじゃ監督にもなれなくなっちゃうんじゃないかって不安なの」

 どうやら快斗くんは今回は暴れず、黙って聴いてくれているようだ。

 それならば、私が伝えなければならないのはきっと、これなんだと思う。


 「高田監督は、ずっと黙ってる。でも、言いたいこと、言わなきゃいけないところだけは絶対に言う。それが良い監督、口が上手い人なんだよ」


 快斗くんは意味が分からないといった顔をしていたが、私はそのまま続ける。

 「身体が弱いから、野球が出来ない。野球が出来ないから、野球が上手くならない。でも野球が上手くならないから、監督が出来ないってわけじゃないと思うの」

 これまでの快斗くんなら、ここで怒っていたに違いない。それでも、私は怒られても構わなかった。これが私の率直な意見だったのだ。

 今までの私なら、口からこぼれ落ちた自分の意見を、ないがしろにして話を進めていたかもしれない。でも、それももう終わりだ。

 私は若松監督にならなくてはならない。未だに若松監督が何者で、どこが凄いのかを私は知らない。ただ若松監督が、「肝心なところだけはしっかりと」している人なのであれば、私は快斗くんのそれになる必要があった。

 名門私立に受からせてあげること、病気のこと。快斗くんにも色々なことがあるかもしれないが、快斗くんはいつだって、野球のことを最優先に話す。それなら私は、快斗くんの肝心なところだけは守ってあげなきゃいけないのだ。

 これは返事すらもらえず、いつものようにだんまりが続いても仕方のないことだと、諦めかけていた。しかし、快斗くんが重い口を開いたのは、そのあとすぐのことだった。


 「おん。サッカーの監督は、選手経験がなくてもプロの監督になっているのが、いるんだってさ」

 快斗くんの顔が少しだけ笑っている光景が目に入ったとき、私は少しだけ涙ぐんだ。


 その日、私は恵理と居酒屋へ向かった。

 「ふうん。それは良かったわね」

 私は今日の快斗くんとのやり取りを恵理に話した。

 「まあようやく怪物を飼いならしたってことで、良かったじゃん。小学校一年生にそんな話をする浩美も浩美だと思うけど。普通さあ、将来の夢を限定させることなんて言わないでしょ。ほっといても勝手に成長するんだから。ほら、東京の魔力ってヤツ。私も今日はとんでもない子を担当してさあ。悪いヤツじゃないんだけどね」

 恵理は尻窄みにそう言った。今日は特にお疲れの様子で、手元にはビールがある。

 「快斗くんは怪物なんかじゃないよ」

 私は意を決した。

 「ほうほう。やっぱり怪物を飼いならした先生は言うことが違うねえ」

 私を茶化しながらビールを豪快に飲んでいる。恵理はすっかり打ち上げムードの気分らしかった。

 「そうじゃなくて。意外と普通の子だったよ。ただ、人より思ったことばっかり言っちゃうところがあって、でも肝心なことだけは言えなくて。そんな子」

 それだけ私が伝えると、恵理は何かを考え込み始めた。

 気分を害してしまったのだろうかと心配になったりもしたが、恵理が振った話は意外なものだった。

 「浩美、このあいだのピグマリオン効果の話って覚えてる?」

 「覚えてる。期待をされた人は伸びる、みたいな意味だったよね」

 「そう。でね、私あれから調べたんだ。昔、ピグマリオン王が女性の彫刻に恋しちゃってさ。好き過ぎて、神様が彫刻を本物の女性にしちゃうって神話からきてるみたいだよ」

 好きで好きで、好き過ぎて神様が叶えてくれた想い。それなら好きじゃないときは、叶えてくれないってことなんだろうか。

 「好きじゃない生徒がいるとしたら、その子はやっぱり報われない顛末なのかもしれないわねえ」

 恵理は一杯目のビールを空けてから、注文する気配がなく、煙草をふかし続けている。

 「だったら、なんで『期待をする』なんだろう。好意があることと、期待をすることが同じってことなのかな」

 「まあ、好きの反対は無関心って言うぐらいだから。好きなら期待をするし、嫌いなら期待をしない。じゃなかったら、みんなそれぞれ本当に、平等に接することも可能ってことになっちゃうしさ」

 こういうときの恵理はシビアで、どうしようもないことをどうしようもないと言える子だ。

 でも私はやっぱり意固地で、どうしようもないことをどうしようもないと言いたくない。

 「嫌いな子に期待をかけることって、出来ないんだろうか」

 恵理はいつの間にか真剣な表情になって、こちらを見つめている。恵理は、私の目をしっかりと見て話す。私もそれに応対した。

 「別に期待をするってことは、良い方向じゃなくてもいいのかもしれないね」

 「え、悪い方向に期待をするってこと?」

 恵理はあっけに取られて、私を見つめていた目が泳ぐ。

 「私が思うに、『この子、こういうことしそうで嫌だなあ』ってところから始めてもいいんじゃないかなってさ」

 恵理はまた、しばらく考えている様子だったが、煙草の火を点け直して私の方を見る。

 「それ、悪影響なんじゃないのじゃないの。障らぬ神に祟りなしっていうか、お互いがネガティブになりそう」

 恵理は苦笑いで目を細めた。

 「いやいや、考えてみてよ。普通の人は、嫌いな人のことはどうでもいい、興味がないのが基本でしょ。でも『また何かやらかすんじゃないか』って、何かを危惧することぐらいは出来る。そこまでいけたら好意は持てなくても、興味だけは持てる気がするんだよ。確かに自分自身は辛いし、ストレスにもなるかもしれないけど、そこは先生の気合いの見せどころってことで」

 恵理はますます苦笑いが大げさになり、ビールを注文し始める。

 「浩美がそう思うんだったら、やってごらんなさい」

 ケタケタ笑いながら、新しい煙草を点け始める。

 「え、なかなかのナイスアイディアだと思ったんだけどなあ」

 私は半ば心外である。自信あったのに。

 「やっぱり、浩美は頑固者ねえ。私は好きよ? 頑固者って」

 「ちょっと、からかわないでくれるかな」

 私も何だか面白くなってきていた。

 「これからも頑張ってくださいよ、ピグマリオン先生」

 「え、なにそれ」

 「適当に付けてみちゃった。なかなかのネーミングセンスじゃないの。ダメかな」

 私は大げさに呆れ顔で返してやったあと、恵理に笑顔を向けた。

 真剣な話だったはずなのに、気付けばお互いにふざけ合っている。

 このままいけば、今晩の恵理は盛大に酔っぱらって、私が家まで運ぶハメになるだろう。

 今はそれが、私の一番自信のある意見だった。

 

これは私が初めて書いた短編小説です。

ちなみに私はヤクルトファンではありません。だので、どこかしらで浅さが出てしまっているのかも。でもでも、古田は好きですよ!そもそも何でヤクルトを出そうと思ったのでしょうか。それは薮の中でござーい。

とにもかくにも、ご指導、ご鞭撻の程よろしくお願い致します。


今後は少しずつ、連載小説を書いていこうと思っていたりして。出来れば今度はメタ要素なんかも入れて、ライトノベルっぽく書ければなあ、と。ラノベなんて一冊読めば形になる、そんなことを言う人もいますが、とっても難しく苦戦しております。やっぱり、小説ってムツカシイ!

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