序章
-もう苦しまなくてもいいよ、私が君を守ってあげるから
感情なく降り続く雨が徐々に体温を奪っていく暗い夜のイギリスの路地裏で、しゃがんで泣いていた僕を優しく抱き寄せてくれた少女がいた。失った体温を呼び戻すような少女の温もりは閉ざしかけた心の窓を開けて、新しい風を送りこんだ。
レンガ造りの建物の隙間から覗くやはりレンガの道では腕を絡めて通りすぎる男女や、和気藹々と自慢話をする子どもが親と手を繋いで胸を張っている。しかし、この、誰にも気付かれることない時間の流れが遅いこの場所ではまだ、秒針は動いていない。
秒針が重そうに動くとき、僕は口を開いた。
-どうして君は僕のことを触れるの?
僕は何もかもがすり抜けて行ってしまう「体質」だ。しかし、しっかりと触れる時もある。それは僕が触ったとき。相手が触ってきたら全てすり抜けてしまう。
抱きしめられている。僕は少女に触れていない。僕がこの「体質」に気がついて以来、初めての経験だ。そして、それは単純な疑問だけでなく、喜びと好奇心を孕んだ突然の質問だった。
-君が望めば触ってもらえる、今君は誰かの体温を感じたいって無意識のうちに強く望んでいるんだよ。「誰か」をすり抜けても「地面」はすり抜けないよね?
少女の言葉は難しかった。五歳の頃から友だちから気味悪がられ、先生や親にまで化け物と露骨に嫌われた。そこでコミュニケーションがストップしていたからかもしれない。
少女はゆっくりと僕から身体を離した。
-さぁ、逃げよう?苦しくないところまで。私が連れて行くよ。私は っていうんだ、君の名前は?
-僕の名前……わからない
-じゃあ、ジャックだね。名前のわからない男の人は昔からジャック。君が本当の名前を思い出して私を忘れる強さを持てるまではジャックだよ
めちゃくちゃだと思った。目の前に屈託のない笑顔と天使の手がのびる。
僕は差し出された手を握り返す。細くてぶつけたらすぐに折れてしまいそうな、貧弱な手だった。しかし、それはとても温かかった。
二人で一緒に立ち上がった。雨で濡れた髪が額に張り付いて鬱陶しい。
-寒いね
-僕は の手があったかいから大丈夫
-屋根のあるところで休憩しようか
僕たちは屋根を探した。現実の残酷な目から守る屋根。無情な雨から守る屋根を。
冷たい雨を走った。そうして辿り着いたのは大きな石橋の下だった。そこには古くて汚れていて、薄っぺらな毛布が落ちていた。
-ここなら、雨もあたらないね
そう言って はケホケホと咳をした。
-ジャック、私ねとっても貧乏なおうちに産まれたの。私がいるとご飯とかが足りなくなっちゃうんだって
-だから、こんな時間に一人でいるの?
-そう。私もお父さんとお母さんに捨てられちゃった
産まれながら惨苦を背負っているのは僕だけじゃなかった。僕と同じ苦しみや孤独を感じている人がいた。こう、感じてはいけないとは分かっている。でも、少しだけ安心した。いや、今まで感じたことのないほど激しいのに優しい安心だった。
そのせいか、眠くなってきたな。濡れていないアスファルトに腰を下ろしてゆっくりとまぶたを閉じる。
毛布を肩まで持ち上げる。
-私も毛布、入っていい?
-うん。もちろん
再び目を閉じる。僕は睡魔に抗うことなく眠りに落ちた。とても心地の良い寝つきだった。
-もう苦しまなくてもいいよ、私が君を守ってあげるから
隣で聞こえる寝息を聞きながら私は悟った。あぁもう私死ぬんだ。血のついた手のひらを眺める。
結核か……。とうとう私、恵まれなかったな……。
私の生きた証が欲しい。私が死んだら消えてしまうけれどそれまででもいい。
そろそろ、私も寝ようかな。
-もう苦しまなくてもいいよ