5.
マルちゃんの里親が本決まりした。トライアル期間が無事終わって津野さんは、「子供がいる家だし、多少なにかあっても決まると思ってたけどね」と言いつつもほっとした様子だった。すでにご家族はマルちゃんにめろめろで、お子さんがすっかりお利口になっているんだとか。マルちゃんと遊びたいならお片づけしてから……宿題やってから……、はい、キリッといいお返事。これまでひとりっ子でのんびりしたところがあったのに、活き活きとしているのだそう。どうしてこんなことを知っているのかっていうと、マルちゃんのお母さんがブログを始めたから。タイトルは『マルのおうち』。マルちゃんとご家族の日々のことが書かれている。アルバムに代わって、思い出を残す場所なんだろう。引き取られた際、新しく名前をつけ直すおうちも多いそうだけど(家族の名前を考えるって楽しい作業だよね)、こちらでつけた名前をそのまま使ってくれていることに、津野さんはくすぐったくもうれしそうだった。
たった君とそのブログを見ながら、思いきり甘やかしてもらえるといいね、と言い合った。
こちらにも変化があった。なんとわたくし、ムサシを抱っこできるようになったのです。最初は、抱っこしようと近づくと、ムサシは器用にするりとかわしてしまって(これが上手なんだよね。思いきり逃げるんじゃなくて、体をよじるだけ、前足を抜くだけ……みたいに)、たった君に「構え過ぎてるの、ムサシにバレバレ」とご指導頂いていた。
でもある日、腕におさまってくれたのだ。抱き上げるまではいかなくても、腕の中でムサシを抱きしめることができた。
うれしいんだけど、正直わたしに変化があったとも思えなくて、実は首をひねった。そしたらたった君が「もしかしたらさみしくなったのかもな。マルがいなくなったし」と言った。そうなの? とムサシに聞いてみたけど、目を合わせてはくれなかった。
抱っこしたままブラッシング、耳そうじ、マッサージ(という名のわたしの一方的な癒されスキンシップ)を繰り返していくうち、あ、抱っこできそう、って思って。ムサシ、って声をかけて、抱き上げてみた。
ムサシは体を強張らせてはいたけれど、ちゃんとわたしに体重を預けてくれた。ちょっと感動しすぎて涙が出そうに。くそ! くそ! かわいいムサシ!
これでお散歩行けるよね、鼻息荒くたった君に言ったら、うん、って呆れながらもはにかんでくれた。
***
「お散歩日和ですね!」
「ただの夕方ですけどね」
10月のはじめ、平日。日暮れが早くなって、夜7時はもうすっかり暗い。でも、気温がおだやかでちょうどいいというたった君のお言葉で、いざ! ムサシ初お散歩です!
たった君立会いのもと、まずムサシにハーネスをつける。普通の紐みたいなやつじゃなくて、ベストっぽくなっているもの。取っ手があって、そこを持つとムサシが立つのを助けてあげられる。といってもムサシは多分歩かないし、カートに入っての移動なので、あんまり関係ないかもしれない。
そのベストにリードをつけて、ムサシを抱っこ。玄関から外に出て、犬用カートにムサシをイン。ムサシ、ちょこんとおすわりしてくれた。
「かわいい」
「……ちょっと、デザインが……」
「かわいい……」
「聞いてねえし」
そりゃベビーカーみたいにやたら派手なピンクの模様だけど、カートにおとなしくおさまって前方を見るムサシはこのうえなくかわいい。デジカメで撮りまくるものの、周りの暗さがどうにもうまくない。
「ねえねえたった君、今度天気のいいお昼に行こう?」
「わかったから、もう行こうよ。俺夜勤の時間になっちゃうよ」
「あ、ごめん! じゃあ、出発っ!」
わたしひとりじゃまだこわいってことで、たった君の出勤までの時間を利用している。ごはんを早足で食べなきゃいけないから忙しないんだけど、わたしはようやく、とうとう、ムサシとお散歩できるというのでそんなことは気にならない!
からから、カートを押す。ムサシの様子をうかがうと、しきりに鼻をぴすぴす。
「外の匂い、久しぶりだもんな」
「ムサシ、気持ちいい?」
ムサシは一瞬だけこっちを見て、また視線を戻す。ひたすら前方、進行方向を見つめる。
「やっぱ、歩かないな」
「え?」
わたしの隣を歩くたった君がつぶやく。少し、気落ちしたように。
「日課だったらしいし、散歩大好きな犬だと思うからさ。なんだかんだ言って実際外に連れ出したら、自分で歩きたがるかなって思ってたんだけど」
でもムサシは、カートから出ようとする気配もない。
「足もまだ元気だと思ってたんだけど……これはやっぱ、歩くのつらいのかな。気落ちして、一気に老け込んじまってたかな」
わたしは動物の老化ってわからない。ムサシ、わたしには全然おじいちゃんに見えないんだけどな。今にも、勢いよく走りだしそうなのに。
「……でも、ちょっとは喜んでないかな? そうでもないかな?」
「わかんないけど、家から一切出ないよりゃ絶対いいよ。吉永、よくがんばりました」
足を止めてたった君を凝視。
「どうしたの?」
「褒められると思ってなかった」
たった君は心外だ、って表情だけで言って、わたしからムサシのカートのハンドルをとった。場所を替えて、今度はたった君がカートを押す。
「今度、ムサシがいつも行ってたっていう公園まで行ってみるかあ」
「いつ?」
「いつって……土日とか?」
「じゃあ明々後日にしよう? 土曜はグリングリン行くから」
「……うん、いいけど」
あれ、強引でしたでしょうか。でも楽しみです。
「お昼だよね、日中だよね! お弁当とかどうでしょうね?」
「弁当ぉ?」
「おむすび、たまご焼き、ウィンナー、ポテトサラダ、あったかいコーヒーもいるかな?」
「……まあ、いいけど」
「ムサシ、喜ぶかなあ!」
「吉永が一番楽しそう」
「楽しいよ!」
楽しみだよ! スキップしたいほどだよ!
「あ」
たった君が、なにかを思い出す声。
「だめだ、俺日曜家にいないと」
「予定あった?」
「あー、いいか、夜にしてもらうか」
ひとりで解決したようだ。でも、強引かもと自覚があるのでうしろめたくもあったり。
「無理、しなくていいよ? 先方に都合合わせさせるのも悪いよね」
そちらが先に約束をしていたんだし。
「志水さんが、卸値でペット用品大量に買ったらしくて、譲ってくれるっていうんだ。だから日曜、大家さんに車借りて行ってくる」
「志水さん?」
知らない名前。たった君はえーと、と言う。
「吉永、前会ったことあるよ。洗濯物干し忘れたとき」
「あ」
あの若い女の人?
「あー、そっか」
そう、わたしはあのとき、30分後くらいにたった君の家に戻った。メールで「洗濯物洗ったまま干し忘れた(泣)」と送って。情けないことに言い訳じゃなくて事実で、前夜から放って置かれ臭い始めた洗濯物を取り出し、洗濯機自体の匂いも気になっちゃったのでそのまま槽洗浄をしてから家を出た。数時間かかるから、帰ってもまだ終わっていなかった。これがご近所迷惑ってやつだと気づいたのは0時も過ぎた頃でした。
「きれいなひとだったよね。なんか、グリングリンもそうだけどさ、動物好きって美人が多いのかな?」
「なんだその死ぬほど根拠のなさそうな傾向。志水さんは、俺があの人の犬見つけたんだよ」
「犬?」
「プードルなんだけど、逃げ出して迷子になってて。俺そのときグリングリンから犬預かってて散歩してて、それが同じプードルだったからか、ついてきたんだ」
たった君が、あのおしりふりふりな感じのプードルをお散歩。なんかちょっと噴き出しそうになった。
「プードルでプードルが釣れたんだ」
「そ。首輪とかなんもつけてなかったんだけど、今日本で住宅街うろつく野犬なんかいないじゃん。犬が一匹で歩いてたらまず捨てられたか逃げ出したかだよね。だからつかまえて、とりあえず警察届けたんだけど。面倒だったな」
「警察、大変だった?」
「うん。あのね、俺最初交番行ったんだけど、そこの警官が全然わかってなくて」
「なにを?」
「法律? 俺、飼い主見つかるまで俺のとこで保護したいって言ったんだけど、警察で一度預かるから、ともかく書類書いての一点張りで。あとで連絡するからって。しょうがねーから、その時は預けて一度帰ったのね。保健所に送る前には絶対に連絡しろっつって」
たった君、憮然としている。
「でも翌日連絡なくてさー、イライラしながら待ってたの。今、警察は犬猫の一時保護しないじゃん。飼い主が誰かわかるもんがないと、ほぼ処分一直線なのね。連絡早くきてくんないと困る」
「あれ? 二週間とか預かってくれるんじゃなかったっけ?」
「それがなくなったの。地域によるけど、早い床だと3日公示して、保健所送って、保健所でまた2日公示して、実質5日で処分なのかな」
5日?
「あの、でも、たった君が預かるって言ったんでしょ? どうして渡してくれないの?」
「うん。普通、拾得者が保護を申し出れば渡してくれるはずなんだけど。なんか、俺がそのまま育てたら窃盗罪だとか言い出してさー。確かに警察に届けずに勝手に飼っちゃうと、法律ではそうなるっぽいんだけど、だからそのために警察に届けに来てんだろうがってもうめまいがした」
えーと? たとえばムサシが迷子になって、誰か保護してくれた人がそのまま黙って飼っちゃったら、それは窃盗だ……ってことでいいのかな? その犬が誰の犬かなんてことは、傍目、第三者からは普通わからないせいなのかな。実際わからなくなったら、なつきかたとかで判別できるのかなあ、なんだか、お湯屋で働く女の子の映画を思い出した。あなたの犬はこの中のどれですか。
「こっちから問い合わせたんだけど、『まだ飼い主らしい問い合わせはありません』『飼い主らしい届け出はありません』で」
たった君が、頭をががっとかく。
「で、いきなり、今日保健所に連れてくとか言うから」
「えっ?」
「まだ1日しか経ってないじゃねーかって言ったら、間違いだった。もう1匹犬が届けられてたのね。シーズー。もう聞いちゃったから、そいつも引き取りますっつったんだけど」
うん、たった君である。
「なんか渡せないとか言い出して。拾得者の意志を聞いていないから、とか。そのシーズー届けた人間のことね。じゃあ連絡とって確かめてくれっつってんのに、ともかく反応が渋くて。そこでキレて電話切った」
「切っちゃったの!?」
「直接警察署行った。犬飼ってる警官いませんか! って怒鳴った」
「えっ」
驚いてたら、スーパーから出てきたお母さんと子供にぶつかりかけた。ごめんなさいと謝って道を譲る。遅い時間だし、働いているのかな。お母さんはめいっぱい荷物を持っていた。
「……怒鳴ったの。怒られなかった?」
「あとから怒られたけどね。でも大家さんもついてきてくれたし、それで犬飼ってる警察官が出てきて、話やっと聞いてくれて、そのシーズーと俺が保護したプードル預かった。正直、大家さんの立場が効いた感じだったなー。アパート経営してるから、身元はっきりしてるって意味でさ」
今思うと、俺やっぱり、怪しまれてたのかなーってたった君がぼやく。
「たった君、そんな怪しくなんてない……と思う、よ?」
冷たい目で見られた。そうですね、わたしはっきりたった君のことこわいって言いました。
「保健所には連絡したっていうから、あとは遺失物扱いで、情報出して飼い主に見つけられるようにしてくれって頼んで、帰った」
「じゃあ、それで志水さんの犬だってわかったのね?」
「まーだー」
公園にさしかかる。あれ、まだあるの?
「シーズーは飼い主すぐ見つかったの。プードルが志水さんの犬だったんだけどね、そっちは結局、俺3ヶ月預かったんだったかなー」
「そんなに? どうして、……すぐに捜さなかったの?」
「志水さんは捜してたよ。でも、ここでまた警察が大活躍」
け、警察って本当にその、あんまり仕事してくれないの? 悪い噂やニュースはいっぱい聞くけど。
「トイプードルって登録してたの。志水さんのとこのは、スタンダードなのに。だから志水さん、何回も問い合わせして自分の犬の情報聞いてたのに、トイならうちの子じゃない、ってスルーしてたらしい」
笑えない話、とでもたった君が鼻で笑った。
「ご、ごめん、わたしもわからないんだけど……」
「トイはチワワみたいにちっちゃいの。スタンダードはその5倍くらいある、立派な中型犬。志水さん、保健所にも連絡してたんだけど、犬の情報送ったの警察だったから、保健所にもトイプードルって入ってて。俺も気づかなかったんだよね、預かってる間何度も問い合わせてたんだけど、プードルって言ってたからさ」
ゆっくりと歩くたった君の視線が落ちる。
「なんつーか……別に、あの人達って犬猫のプロじゃないんだよなあ。保健所もさ、チップついてなかったか問い合わせたんだけど、読み取る機械がないって言われて意味ねーの。まあ今回は、チップはなかったんだけどね」
お役所仕事、って言葉が頭に浮かんだんだけど。
「プロとか……たった君みたいに、1匹の犬や猫に必死になる人が、保健所で勤めるのってつらいよね」
たった君がわたしを見た。
「わたし、かわいそうだからいやだもの。獣医さんに憧れたけど、動物実験や解剖するのがいやだって思ってあっさりやめちゃった。保健所なんてもっと無理よ」
うしろめたさが、ある。保健所の人達が心を痛めずに処分してるか、なんてことはわからない。でも、養いきれない、野にも放せない動物があふれるなら、そうするしかないんだろう。野生ではない生き物を生み出し続ける行為の結果。
「吉永は、いつもヤなこというな」
「ごめ」
思わず反射で謝ったんだけど、たった君は怒った顔じゃなくて、やさしく笑っていた。
「思うよ。犬猫なんて、死んでもいいんだ。この社会はそう言ってる。犬猫に必死になってるとさ、たまに、なんで人間に必死にならないんだって言われる。あんま言い返せないんだよね。やること変えるつもりはないんだけど」
そうだね。おんなじこと、考えた。たった君のTシャツを握った。
「吉永だって、法改正のこと知らなかったよな。それが普通なんだ。日本は、犬猫にそこまで関心がないんだよ。幼い、って気がする」
耳が痛い。わたしのことだ。
たった君は、落ちていた視線をくっと上げて、また前を見る。
「ネットの普及で、変わっていくといいんだけどな。志水さんの犬がわかったの、ツイッターとブログのおかげなんだよ」
「本当? でもたった君、ツイッターわからないって」
「俺じゃない。俺はチラシ貼ったり、保健所や警察に電話してたくらい。津野さんだよ」
「あ、そっか!」
「志水さんの知り合いが、ツイッターで津野さんのブログ知って、志水さんに紹介したんだって。それでめでたくね」
結果はわかっていたのに、なぜかすごくほっとしてしまった。ああでも、どちらの子もたった君にすぐに保護されたんだったら、怖い目にも痛い目にもきっと遭わなかった。そのことに安心する。
「志水さん、超怒ってた。情報間違いなんて笑い話にもならないって。でも、ほんとぞっとした」
たった君の家の前の、私道に入る。ここからさらに入り込めば、アパートのドアが並んでいる。
「預かり飼育をしない、拾得者がいらないと言えば3日で保健所やセンターに送って、拾得者が預かりを申し出て遺失物扱いにしたら、半年じゃなく3ヶ月で捜索を終了。超楽になってんだろうなあ」
里親探しをするようなところもあるけれど、ほとんどは一般のボランティアが引き出されなければ、処分なのだと、たった君は小さな声で話す。
「安口さんは志水さんにも怒ってたけどね。行政があてにならないのは態度でわかるんだから、しつこく食い下がって、疑いまくるべきだったのにって。プードルがいるっていうんだからトイだろうが見に行けばよかったんだって。実際それが今の飼い主側の正解なんだろうけど」
たった君は、そこで黙った。少しのあいだ、そのまま歩く。たった君が振り向いて、Tシャツをつかんでいたわたしの手を見たので、反射的に離した。
家に着く。わたしはムサシのリードをおさえながら抱っこ。たった君が開けてくれたドアを抜けて、ムサシご帰宅。ベストとリードを外してやると、ムサシはゆっくり歩いてトイレに行って、用を足した。たった君がカートをたたんで玄関に立てかける。
「まあ、それで志水さん、俺にすごく感謝して。なにかにつけて、よくしてくれんの。今回みたいにペット用品安く譲ってくれたり、お中元とかお歳暮でハム送ってくれたり」
ハム。たった君、ちゃんと料理して食べてるのかな。それともやっぱり、そのままかじるのかな。
「そっかあ。ちょっと気になってたんだ、わたし入り浸っちゃってるから、もしかしてあのとき鉢合わせちゃって、悪かったかなーとか」
「なにが?」
あー、とかうー、とか言ってしまう。
「いい感じとかだったらとか、なんか、邪魔しちゃったかなとか」
ぐにゅぐにゅしたわたしの言い回し(にもなってないけど)の意味を、たった君はしばらく考えてから思い至ったようで。
「愛護がらみで会ったの相手に、いちいちそんなこと考えないよ」
大変淡々と、言われてしまいました。
*わたしが調べたことを、小説用に組み立てています。疑問点がありましたら、感想欄ではなく、拍手からお寄せ下さるようお願い申し上げまする。
関連のことを9月21日活動報告にて記事にしておりますので、そちらもご一読頂ければありがたいです。
私見。警察に限りませんが、親身になってくれる方に担当して頂けるかどうかっていうのがかなり……すごく……重要な気がしていたり……(´;ω;`)でへへ