4.
わたしは、ムサシの話を誰にもしていない。彼のことを話すと、たった君の話にふれなければいけなくなりそうだし、うまく省いて話せる自信がないからだ。合鍵をもらっている関係を、彼氏だ彼女だって話抜きに理解してもらえる気がしない。
でも、話したいんだけどなあっ……! 会社で、いつもの会議室、仕事の手を休めて携帯の待ち受けを見つめていると。
「なに見てるの?」
「ひゃっ」
後ろから声をかけられて、携帯を落としそうになる。あわててつかみなおして振り向くと、石塚さんだった。ちょっと口元が引きつっている。
「え……今のまさかグロ画像?」
「ち、ちがいますよ、なんてこと言うんですか!」
「だってなんか黒くて不気味な生き物が」
「うちのムサシです!」
ムキになって、携帯の画面を石塚さんに押しつける。直視しても、やっぱりまだ怪訝な顔。
「シャンプーしたとこなんです、濡れたら細くなってギョロ目で気持ち悪くてかわいかったから撮っただけで! ほんとはこんなにかわいいんですから!」
ブラッシングを終えたムサシの画像を呼び出して、改めて突きつける。
「へー、犬って洗うとこんなになるんだ」
「そ……」
ぴたと止まる。そうなんですよ、わたしも初めて見たんです。言いたかったけど、これおかしいよね。寝たきりの犬を世話してる、って言ってあるのに。嘘をつくのも事実を言うのも面倒で、とりあえず笑う。
「そういや、この洗ってるとこ、外? 風呂場で洗うんじゃないんだ」
「細い毛が抜けるから、お風呂場じゃだめだってことになって。リードつけたままアパートの駐車場を借りたんです」
「へえ、なんかいいね。天気もよくて、なんとも夏休みって感じ」
「そうなんです。大家さんや住人さんも手伝ってくださって」
さすがペット可のアパートだけあって、みんな動物好きだった。大家さんは大きなタライと水道とホースを貸してくれたし、住人さんは、部屋で待たせていたマルがあんまり鳴くからって、ムサシを洗っている間連れて来てそばで面倒を見てくれた。マルはすっかりムサシに夢中で、ムサシが見えないとまったく落ち着かない。
涼しい日を少しずつはさみながら、ゆっくり終わっていく夏の日曜日。
「とても楽しかったです」
見せはしなかったけど、ムサシを洗うたった君、こっちを見てピースをしてくれる大家さん、マルを見ていてくれたアパート住人の扇町さんの写真もある。
「吉永さん」
思わずうっとりしていて、石塚さんの声で我に帰る。いかんいかん。
「吉永さんのね、お疲れ会やろうって永田さん達と言ってて。まだ半月あるけど、吉永さん都合つけるの大変だろうから、早めに聞いておこうと思って」
「ええ? そんな」
たった一ヶ月いるだけのわたしに?
「だって吉永さんって、別にこれで終わりってわけじゃないでしょ。大沼店が休むときはまた来るでしょ?」
そうか、それはそうだ。実のところ、あの店がいつたたまれるかだって怪しい。その場合わたしは本社に回してもらえるんだろうか。それともそのまま……ひええ。
「社の仲間なんだから、これからもよろしくって意味も込めてさ。どうかな?」
どうかなってなんだ、そうかわたしの都合か。
「……みなさんに都合を合わせさせるのは申し訳ないです」
これで引き下がってくれないだろうか、淡く期待したけど。
「だから、吉永さんが都合のいい時を聞きにきたんです」
押されてる、って思ったけど、石塚さんはやさしく微笑んだ。
「でも、無理させちゃうようならあきらめます。家族の世話で大変なとこ、職場の人間関係でまでごたごたさせちゃうのはこちらも不本意です」
「すみません! そんなつもりじゃ」
「余計なお世話ならいいんだけど、もし気晴らしになるならどうかなあ。多分楽しいと思うんだ。社の飲みじゃないから上の人間は来ない、つーか俺の仲間と永田さん達だしね。だから経費も落ちませんけど」
そっか。本当に、仲間に誘ってくれてるんだ。面倒に思ったことを急に申し訳なくなる。ムサシのことを家族って呼んでくれた事もうれしかった。
「ありがとうございます。その、帰って相談してからお返事していいですか?」
「うん、もちろん。なんなら、吉永さんが本社勤務終わったあとだっていいしね。俺達いつだって飲む機会探してるから、遠慮なく言って」
飲兵衛ですか? 思わず笑うと、石塚さんは満足そうにうなずいて部屋を出て行った。
「行けばいいじゃん」
たった君は、それはもうけろりと言った。何を悩んでいるのかわからない、とすら見える。
「吉永、飲み会嫌いなの?」
「そんなことないよ。でもムサシ達と一緒にいれないから」
「一緒にいれないって、一日のことでしょうが。それに吉永、どうせ夜の何時間かしかいないのに」
「そうだけど」
たった君もいない、わたしもいない、ムサシとマルちゃんだけでこの家に置いておくことがとてもとてもいやなのだ。そりゃもちろん、わたしが帰ってから、朝たった君が帰ってくるまでの時間はお留守番なんだけど。
「たった君は飲み会とか行ってるの?」
「そりゃ行くよ」
「そうなんだ。……ちょっと意外」
てっきり、そういうの行かない人かと思ってた。
たった君が、少し居心地悪そうにみじろぎをする。そして、改まった声でわたしを呼んだ。
「吉永。俺がこれまで動物飼ってなかったのは、独り暮らしだからだよ。仕事でもそれ以外でも必ず家を空けるから、ずっと一緒にはいてやれない。動物になにかあっても、仕事は休まないって決めてる」
マルちゃんが、たった君の膝をちょいちょいする。たった君、無視する。
「ムサシを引き取ったのは、引き取り手がつかないよりはマシか、って思ったから。家庭犬としては寂しい思いさせるだろうし、いよいよケアが必要になってきても、俺は仕事のない時間しかやってやれない。俺はいい飼い主ではないんだ」
マルちゃんが、まだちょいちょいを続ける。
「そんなこと」
「なくないです。ペット飼うって贅沢な趣味だよ。あんま面倒な話はしたくないけど、動物を好きだっていうのなら、幸せな動物にしか癒されちゃいけないと思う。そうじゃなきゃ、動物を飼うっていう、たぶんすごく傲慢な行為を、俺は許せない。だから俺は」
かまって欲しいマルちゃんが、たった君の前でおなかを見せて、前肢を動かす。たった君はマルちゃんを抱き上げて、膝に乗せた。たった君の手にじゃれかかる。
「……あー、ムサシも、もっと余裕のある家族に引き取られたほうが幸せだったと思ってる」
「……あの、たった君」
なんて言っていいかわからなくて、でも聞きたいことはひとつ浮かんでいる。たった君が目だけでこっちを見る。
「動物になにかあっても、絶対、仕事休まない?」
たった君が目をそらした。
「たった君」
返事がない。
「たった君」
「……という、つもり」
「だよね」
ほう。ゆるんだ息を吐く。
「そうだよねーそんなのたった君じゃないと思った!」
「おまえなあ! ……よっぽどじゃなきゃ休まないって、でもどうしても具合悪くて、誰にも預けられない時とかはさあ……」
ぶつぶつ。
「えへへ」
「えへへじゃねーよ、人が真面目に話してんのに!」
マル、てめーもだ、と言ってマルちゃんのおなかをぐりぐりぐり。マルちゃん、おなかを見せているくせに臨戦態勢でモンスター(たった君の手)に必死でしがみつき、甘噛みをする。
「ともかく、吉永!」
「はいっ!」
茶化す気なんてまったくないよ。むしろ、たった君の言葉がわたしにとって大きくて、ちゃんと考えるのに時間が欲しくて。
「そりゃ好きにしろって言ったけど、ムサシはおまえが飼ってるわけじゃないんだから、混同するな。仕事はちゃんとしろ。会社の人も大事にしろ。そして金を稼げ」
「あ、はい」
最後の必要? 津野さんとたった君ってもしかして似てるんですか。
「じゃあえっと……行ってくる。でも、やっぱりあんまり影響のない時に行きたいよ。たった君、今週フットサル行くよね?」
「うん、多分あるよ」
「じゃあ金曜の夜以外にしてもらう。土日いる?」
「今のとこ予定ない」
となると、やっぱり平日の夜だよね。土日にわざわざ出てこさせるのも悪いし。それに、土日は出来るだけ、グリングリンやたった君の家にいたい。
ムサシが珍しくこっちを見ていたので、たった君がよくやるみたいに耳をかいてやってから、ごはんの準備を始めた。
***
安口さんに怒鳴られた。
「もう結婚すればいいだろうが!」
「えっ!?」
「私もそう思ったわーさすがに思ったわー」
津野さんが頭を振る。
「えっと、ムサシとマルちゃんですか」
たたかれた。
「つまらんボケはいらん。あんたと立田君に決まってるでしょうが」
「や、安口さんこわいです」
「いやー今のが本気なら、私は吉永ちゃんのほうがこわいわー」
津野さんが助けてくれません。
「たった君が出かける土曜日は、散歩の手伝いに来れないってそんなにおかしいですか……」
「もういい、そらっとぼけていればいい」
「安口さあん」
「いいよ安口さん、もう吉永ちゃんはカマトトではなく本物なんだよ、そういう結論なんだよ。それより、マルの里親でよさそうな人がいてね」
「え、もうですか」
津野さんがノートパソコンをいじり、わたしに画面を向けてくれる。
「マルは条件いいしね。犬飼ったことないらしいんだけど、お子さんのいる家庭。明日会って、よかったら来週の里親の会でマルに会わせたいんだけど、いいかな」
「はい、来週の土曜日に連れて来たらいいですか? あと里親の会もお手伝いします」
「お願いします。ありがとうね、ほんと助かった」
「いえ、わたしじゃなくてたった君ですから」
わたしは何の責任も負っていない。
預かり犬のワフ君が、津野さんの腕を頭でのけながら、膝に乗ろうと試みる。昨日のたった君とマルを思い出す。
「邪魔、ワフ」
「かわいいですね」
「おう、かわいいぞう。でもねーやっぱりおまえ達はなかなかモテないねー」
パグのワフ君の顔を、津野さんがひっぱる。ワフ君のしっぽの振りっぷりがすごい。今5歳って言ったかなあ。
「やっぱり、仔犬とは違うんですね」
「全然違うね。あたしさ、雑種不可、生後何ヶ月以内でとかって言われると、処女厨か! って思っちゃって」
「安口さん、おくち閉じようねー」
しょじょちゅう? ってなんだろ?
「仔犬や仔猫のかわいさって尋常じゃないから、仕方ないさあ。一番かわいい時期から育てたいって気持ちはわかるもの」
「性格がわかってて、体格、体調も安定してる子のほうが飼いやすいじゃない。雑種なら純血にありがちな遺伝病の心配も減るし」
「そらよっぽど慣れた方のご意見だわー」
「たった君が」
わたしが口をはさむと思っていなかったのか、ふたりがぴたっと口をつぐんでこちらを見る。
「あ、すみません……たった君が、動物を飼いたいって、一種の独占欲だって」
ふむ、と津野さんが頬杖をつく。
「そうね、同意するかな。ワガママな恋心、みたいな」
「立田君のはともかく、そりゃまたずいぶんロマンチックに言ったもんね」
「バカにしたな?」
「ロマンで命を扱われてもね」
辛辣な安口さんの口調に冷や冷やしながら、でも津野さんは慣れているのか動じてもいない。
「だって仕事じゃないもの。義務感や使命感で飼われても、それはなにか違う気がしない? 動物愛護を謳うなら、そもそもペットなんて発想からしておかしいし、もっと言っちゃえば人間絶滅すんのが一番でしょお」
色々後始末してからねー、とけらけら笑う。
「でもね、自分に合った、大好きになれる子を選ぶべきよ。新しい家族を選ぶのに条件があるのは当たり前だわ。まさしく結婚と同じじゃない」
親と子は選べないけどね……と言う津野さんに、安口さんは肩をすくめただけで、それ以上言い返す気はないようだった。
「吉永ちゃんは、大丈夫?」
「えっ?」
「マルと別れることになっちゃうけど、大丈夫かなって」
「まだトライアルはあるけどね」
トライアルは、実際に一緒に暮らしてみて、相性を確かめる、というもの。もちろん里親さんの飼育能力の確認もある。
大丈夫? 自分に改めて聞いてみる。
「さみしいです。でも、最初からわかっていたことだし、繰り返しますけど、わたしじゃなくてたった君が預かってたんですから」
「だから、そこよ!」
びしっ、と指を指された。えっ。
「だめ、渡したくないあたしマルと一緒にいたい! 立田君と結婚してマルを引き取ります! ってならないのかと」
「か、考えてもいませんでした」
「吉永ー!」
「ぎゃー!」
安口さんにガクガク肩をゆすられる。
「そんな、だったら部屋を借りて自分で責任を持つべきじゃないですか……、それにわたし、ひとりで犬を飼うとかできません」
「妙なところで分別を見せるなあこの子は……」
「うん、あたしもひとりじゃ犬を飼えないってあたりは完全に同意した。意外とご両親の教育の賜物なんだろうか」
「安口さん、失礼です口閉じろー」
解放され、息をととのえる。安口さんが日に日に乱暴になっていく気がするよう。
「吉永ちゃんは独占欲が強くないのかもね。多分、その競争と関係ない感じがかわいいんだわ」
津野さんがぽんぽんと肩をたたいてくれたけど、慰められたのか片付けられたのかわからなくて、まあ結局笑うしかなかった。
たった君が部屋の前で見知らぬ女の人と楽しそうに話している。……うお?
「もう、マルちゃんかわいいなあ。さらっちゃうぞー」
胸にマルちゃんを抱いて、すっかり目尻を落として。若くてかわいい女の人。そこで、突っ立っているわたしに気づいたようで。
「あ、ひょっとしてボランティアの方ですか?」
ボランティアの? そういえば、津野さん家の帰り道でペットシーツ2パックとペットフード2袋を買って抱えているのを思い出した。たった君がドアから顔を出す。
「吉永?」
「あ、うん」
あれ、これ中に入るのまずいの? 微妙? 女の人に帰る気配がない。
「おつかれさまですー」
労われてしまって、見守られている。これは荷物を置くのを待ってるんだろうか。どーするどーする、と悩んだわりには、荷物を置いてそれじゃあとぺこぺこ頭を下げながら、その場を離れてしまった。そそくさ。
ちがう! ちがうんだ、あれはたった君の彼女とかじゃないだろうし、気を回す必要はなかったんだろうってわかっている、問題はそこじゃない!
たった君の部屋に入り浸る自分が、後ろめたいんだ。男女の友達にしては行き過ぎているって自覚がある。そのくらいのことはさすがにわかる。
あ、でもたった君の彼女候補、という可能性はあるのか。
……どうしよ?