16.
風は冬の冷たさでも、午後の日差しだけはきらきらと明るくて、あたたかそうだ。たった君とふたり、駅に向かって歩く。たった君はときどき、目的地に関係なく突然横断歩道を渡るんだけど、多分ひなたの多い道が好きなんだと思う。
今日は始まるのが早いし、会のあとだからお散歩のお手伝いもないので、早めに帰ることになった。たった君がいなくて、安口さんがいれば、だらだらおしゃべりして長居してただろうな。
今すごく、ムサシに会いたい。
「ムサシ、お留守番?」
「うん」
沈黙。心臓がばくばく言っている。
「……鍋パーティまでまだ早いけど、ムサシに会いに行ってもいい?」
「別にいいけど」
……やっぱりたった君はいつも通りのようだ。
「トライアルうまく行ったら、もう来週からワフいないんだな」
当たり前の事実に、いまさらはっとしてしまった。
「……いいこと、なんだよね」
「ちがうの? じゃなんで里親募集してるの」
「わ、わかってるよ。ただワフ君と津野さん、もう2年も一緒にいたから。たった君だって反対してたじゃない」
「だって元飼い主のとこで3年、津野さんとこで2年で、また次のとこなんてたらい回しじゃん。それにわざわざ妊娠なんて大変なときに犬飼おうとか、なめてるなって思ったし。まあ、家族の手伝いがあるっていうから」
なんだかまたぎょっとさせられる。
「たった君ひょっとして、家族の手伝いがあるからいいって言ったの?」
「うん。なんで?」
「だって、片瀬さんあんな一生懸命で」
「一生懸命だからって腕が一本増えるわけじゃないよ」
「そういう言い方よくない……」
「本人が一番わかってたじゃん。だから家族に頼んだんだろ」
言葉に詰まる。なるほどって思ったから、少しくやしい。
「やっぱり預かるって、ちょっと切ない」
「期間長くなるとなー。津野さんもさすがにさびしそうだったな」
「たった君、わかってたの!?」
「なんで驚くの」
いや、津野さんの様子なんて全然気にしてないかと思ってました。
てくてく、お日様のあたる道を歩く。たった君はまた、青になった横断歩道を渡って向かい側を目指す。
「なんかわたし、気づいたら、すごく気持ち変わってた」
「なんの?」
「前はね、預かることならできるけど、自分が飼うのってぴんと来なかったの。でも今は、もう預かれないかもしれない。すぐに情が移っちゃう気がする」
多分、動物に対する気持ちの距離が縮んだ。前はもっと苦手意識があった。さわれるようになって、さわることを許してくれる子ができて、特別な情を持てるようになったんじゃないだろうか。
「吉永、ほんっと情にもろいもんな」
若干引っかかりながら、でもその通りだ。この活動に参加してるのだって、意志を持って参加っていうよりは、感情に押し流されてここまできちゃいましたって感じだし。
「里親面接って、あんななんだね。わたし、今日初めて見た」
「さあ。いろいろ違うんじゃないの。津野さんはかなり相手先の事情聞くし、身分証明もさせるけど、そこまでやらないで引き渡すとこもあるだろ」
「そうなの?」
「個人のやりとりだから、こうしなきゃいけないって決まりはないよ。津野さん、昔、だまされたことあってさ」
「だまされた?」
「虐待目的のやつに、猫やっちまったの」
寒気がした。心臓がぎゅって締めつけられる。
「まじめで気が弱そうな、礼儀正しいやつで、話はすぐまとまったんだと。で、あとからそいつの情報が回って来たんだ。保健所とかボランティアとかから猫もらいまくってるやつがいるってね。特徴がそっくりで、津野さんそれ聞いてあわててそいつ探そうとしたけど、教えられた連絡先とか全部うそだった。見つけらんなかった」
たった君はポケットに手を突っ込んだまま、寒そうに肩をすくめてジャケットの襟に口元を隠す。マフラーとか手袋とかすればいいのにって前に言ったんだけど、きらいらしい。わたしはどっちもしている。やさしい黄色のマフラーと、おそろいの手袋。氷の結晶の模様が編んである。
「もう活動辞めようって思ったらしいけど、結局目の前で保健所送りになる犬猫ほっとけなくて、辞めらんなかったんだ。今は念入りに身分調べるし、まったく面識のないひとり暮らしには渡さないよ。それでどれだけ防げるかはわからないけど」
事実もつらいけど、津野さんを思うともっとつらかった。
「あいつら、タダだから来るんだよ。どうせ保健所で殺されるんだから、どう扱ったっていいだろうとかな。いいわけねえだろ。殺してやりてえ」
真顔で淡々と話すたった君は、限りなく本気だ。以前、武中君と歩いているとき、猫に暴行を加えている高校生達を見つけたたった君は、自転車でそのふたりを追いかけて、3回ずつ轢いたらしい。
最寄りの派出所に突き出した結果、暴行中の証拠写真と高校生達本人の自白証言で、反省ありということで厳重注意で終わった。ちなみにその証拠写真って、たった君がふたりを轢いたあと、武中君がそのふたりを脅して無理やり撮ったもの(暴行は事実でも、証拠は捏造……)。写真に使われた猫も別。傷つけられた子はたった君がすぐに病院に連れて行ったから、武中君がアパートの猫に協力を要請し、いろいろ細工して撮ったらしい。怪我に見せんの得意だぜ、とか自慢していたけど、武中君は不思議な特技をいっぱい持っている。
高校生達からしてみると、いじめた猫がチンピラの飼い猫だったと知って(たった君達も知らない野良猫だったけど、その場の流れでそういうことにした。野良より自分の飼い猫にしたほうが訴えやすいからだそうだ)、すっかりちぢみあがったって感じなんだと思う。その猫は回復して、安口さんのお友達に引き取られて平穏に暮らしている。
そしてたった君と武中君は、高校生達に、次にやってるところを見つけたら、周囲に写真つきで噂をまきちらして社会的に抹殺してやると脅して、今でもときどき会いに行っている。親も無事で済むと思うなよ、とか、それってもう脅迫罪なんじゃないかと思いつつ、でもたしなめる気にはなれない。
願わくは、彼らのそういう衝動が時期的なもので、おとなになるにつれて収まってくれますように。
わたしとたった君の家の最寄駅に着いたとき、わたしの携帯が鳴った。店長からで、店の鍵を失くしてしまったから、至急わたしが預かっている鍵を持ってきて欲しいということだった。土日は店がお休みだけど、店長は仕事があるのかたまに出入りしている。
たった君に、多分30分後くらいに家に行くと伝えて、駅で別れて店に向かった。
***
「ごめんねえー、吉永ちゃん」
「いえ、ちょうど外にいましたし」
店は、駅から伸びる商店街にある。わたしとたった君の家からは反対の降り口で、学校はあるけど栄えてないほう、と説明されることが多い。
「他になにかやることありますか?」
「ううん、もういいの。店に携帯かたっぽ忘れちゃってね。仕事用だから月曜でいいのに、旦那にメール見てないのかって怒られちゃってねー。休みに仕事すんなってのよ、日本人ってやーね」
店長は気づいたように道路に向かって手を振った。白い車が近づいてくる。
「吉永さん、お久しぶりです」
「石塚さん」
運転席からおりてきたのは、本社勤務のときによくしてくれた石塚さんだった。
「知り合い? 石塚君、顔通り手が早いのねえ」
「勘弁してくださいよ。僕は心に英国紳士を住まわせる男ですよ」
店長はけらけら笑い、わたしも一緒に笑う。
「すみません、吉永さん。こっちの仕事押しちゃって、今あわててやってるんです。副社長にもご判断仰がないとならなくなって、ご迷惑おかけしてます」
「いえ、おつかれさまです」
そうだよねえ、わたしはきっちりかっきりお休みをもらっているけど、土日に休んでられない……なんて世の中にはいっぱいあるよね。
店長は後部座席に乗り込むと、わたしに手招きをした。
「吉永ちゃんも乗ってちょうだい。家まで送るわ」
家は近くだし遠慮しようかとも思ったんだけど、お礼を言って車に乗り込んだ。気のいい人達だから、受けたほうが喜んでくれるだろう。
「そこで停めてもらえますか」
たった君ちに近いところで車を降りる。石塚さんもわざわざ降りて挨拶してくれた。
車を見送ると、道路の向かい側でたった君がムサシとこっちを見ていた。
「たった君。ムサシ!」
道路を渡って駆け寄る。ムサシのもさもさの毛を、首から背中にかけてがしがしってなでると、ムサシもなんとなくうれしそうにわたしの手をなめてくれる。
「車で来ると思わなかった」
「会社の人が送ってくれたの。これから会社に戻るんだって」
「ふーん」
「お散歩だよね? もう終わり?」
「今でてきたとこ。あったかいうちに歩かせようと思って、じゃあついでに吉永のこと駅に迎えにいこうかと」
「そうだったの? ありがとう、なんかごめんね」
「別に。行き違いにならなくてよかった」
たった君はわたしにリードを渡すと、またポケットに両手を突っ込んだ。ムサシは調子とご機嫌のいいときは、カートに乗らないで自分で歩く。けっこう元気だ。
ちらちらっとたった君を見る。
「なに?」
「妬いてくれたりしてないかなーって」
「後ろにおばさんもいたじゃん」
「うん、あの人が店長。ずっとお世話になってるの」
思い出して、夜のためにお酒を買いたいと伝えると、たった君はコースに加えてくれた。また三人でゆっくり歩く。
「妬いてないけど、してもいいよ」
「うん?」
「結婚」
びっくりした。たった君を見ると、とてもいつもの顔。
「ほんと? 大丈夫? ちゃんと考えた?」
「俺の台詞だよ!」
「わたしはちゃんと考えてるよ! 家は2階に引っ越して、でもしばらくは今の部屋も借りておいたほうがいいだろうなあとか。大家さんに聞いたから、家賃はなんとかなると思うの。敷金も分割でいいって、安くしてくれると言ってた。食費と光熱費もふたりのほうがずっと安く済ませられるし」
「節約ばっかじゃん」
「他のことも考えてるよ! うちの親は頭かたいから、感じ悪いかもしれないけど、そしたらごめんね。正直、動物愛護にはあんまり理解ないと思うから、いざとなったらしばらく絶縁でもしかたないと思ってる。たった君はわたしを親御さんに会わせるの、いやだよね? でも、お知らせだけはしてね?」
「……考えてはおくけど」
指を折り折り、考えていたことを思い出す。
「結婚式は興味ないから、たった君がよければやらなくていいよ。ムサシはお式に出られないし。会社の方にちゃんとお知らせしてね。わたしも知らせないとなあ。店長は式挙げろって怒りそう。結婚式大好きだから」
きっと、とんでもないドレスを着てくるんじゃないだろうか。思わず想像して笑ってしまう。
「あと、」
「わかった。あとはあとで聞くから」
「まだいっぱいあるよ?」
「だから吉永は、突然一気に持ってきすぎなんだよ。すぐ決められないし、覚えらんないよ」
考えてるかって聞くから言ったのに。でもたった君はそういえば、すごくマイペースなんだった。人に言われて考えるんじゃなくて、自分の気が向いたときが考えるとき、みたいな。そう思うと、これで意外とわたしに合わせようとしてくれているのかもしれない。
「ごめんね、たった君。すごくせかしちゃったね、わたし」
たった君を見上げると、気づいたたった君と目があった。顔がしまりなくへらっと笑う。
「うれしいな」
ちょちょっとスキップして、少しだけ前にでる。気づいたムサシが合わせて、ついてきてくれる。ムサシを見ると、ムサシもわたしの目を見た。散歩のとき、飼い主を常に意識させなきゃいけないっていうけど、わたし達の場合はお散歩慣れしているムサシがわたしを気遣ってくれている気がする。
たった君が空いているわたしの手をつかんだ。歩調を戻して隣に並ぶと、そのまま自分のポケットに一緒に入れる。たった君はポケットの中でわたしの手袋を脱がせて、手をつないだ。爪が手を少し引っかいて、どきどきした。
「たった君のポケット、大きいね」
「小さいポケットとか意味ないと思う」
「たった君、たった君」
「なに」
「今度また、ムサシとお迎えに来て欲しいな」
「天気が良ければね」
「うん」
「あと俺が怒ったの、確かに突然だからだけど、でも吉永が思ってるのとは絶対ちがうと思う」
「え、そうなの? なんで?」
あせって聞いても、たった君はそのうち気が向いたら言う、と言うばかりで。
でも、酒屋さんでお酒を買ったあとも、また手をつないで帰った。