15.
人の出産関係の話題があります。
自分なりに配慮して書いてはいますが、苦手な話題だったり、また過敏な状態である方は閲覧をお避け下さい。
途中から警告を増やして本当にごめんなさい……(土下座
「おはよ」
わたしはおそらく10秒くらいかたまっていたんだけど(会話中じゃかなり長い時間だ)、その間、たった君はじーっと返事を待っていた。
えーと、明けて土曜、午前10時。グリングリン津野さん宅のチャイムを押したら、たった君に出迎えられまして。
「おは」「おはよう、吉永ちゃん! 寒かったでしょー、入って入って」
ようやく出かかった挨拶は、奥から届いた津野さんのはっきりさわやかな挨拶にかぶって消えた。
「お、おはようございまーす……」
まだ少し戸惑ったまま靴を脱いでいると、たった君がぼそっと言う。
「ワフに里親ついたって聞いたから」
「ワフ君に?」
津野さん家の預かり犬、ボールが大好きなパグの子。たった君はさっさと部屋の奥に行ってしまったので、急いで追いかける。
「今日はふたり一緒じゃなかったのねー」
「津野さん俺にメール寄越したの、今朝じゃないすか」
リビングで、津野さんは犬達のブラッシング中だった。たった君もすでに手伝っていたみたいで、フローリングに座るとワフ君にブラシをあて始める。彼は短毛だけど、かなり毛が抜けるからお出かけ前には必ずしているそうだ。
そう、今日は里親会なんだけども(そして夜は鍋パーティ)。
「津野さん、ワフ君に里親って」
「何度も里親の会を手伝ってくれてた人でね、ほら、片瀬さん」
頭にぱっと、きつめのウェーブをひとつにくくっっているお姉さんが思い浮かぶ。
「最近来てなかったんだけど、妊娠したそうなのよー」
「え?」
まばたき。
「妊娠したから、ワフ君を引き取るんですか? 普通、妊娠したから犬は飼えない、とかな気がしたんですけど」
「そうねえ。もともと子供が欲しくて、犬を飼うのを我慢してた人なのね。子供が産まれて、ある程度落ち着いたら飼おう、って。でも、なかなか無事に産まれなくて」
どきりとする。津野さんは手をとめてわたしの様子をうかがうと、微笑んだ。津野さんは日常から少し踏み込んだ話をするとき、いつも間をおいてくれる。
「何度も流産されてるそうよ。今回もどうなるかわからないから、だからワフを引き取りたいって」
「そのときワフ君がいたらなぐさめられるから、ってことですか?」
「そういうことなのかしらねえ」
話しながら手も動かして、たった君と一緒に手際よく預かり犬達の準備をととのえていく。6頭いて、お出かけの気配に興奮しているもんだから大変だ。津野さんが飼っている2頭はお留守番。だいぶ歳をとった彼らは、津野さんと預かり犬達を静かなまなざしで見守っている。
準備のときにわたしに任されるお手伝いは決まっていて、この2頭のそばについて体にさわっていること。犬に慣れて多少手伝えるようになった今でも、津野さんはどうしてもこれをしていてほしいのだと言う。
「でも津野さん、ワフ、もうここ長いじゃないすか」
たった君が口を開いた。津野さんがうなずく。
「そう。2年越えちゃったのよね。正直、そろそろ預かり犬リストから外そうかと思ってたとこで」
津野さんのサイトには、預かり犬リストが載っている。ワフ君達の近況が細かく記録されていて、それを見た里親希望者さん達が里親の会に来る、という流れ。
津野さんは、赤い服とリードをつけられたワフ君をなでた。ワフ君はちぎれんばかりに、とっても短いしっぽを振る。彼はすごく陽気でなつっこくて、人にかまってもらうのが大好きだ。
「でもワフ、私になでられるだけでこんなに喜んじゃうしねえ」
「どういうことですか? なにか悪いんですか」
「8頭のうちの1匹じゃ、やっぱりさみしいんじゃないかと思うのよ。私もひいきしないよう、気をつけちゃってるから」
もちろん大切にかわいがっているつもりなんだけど、と津野さんはつぶやく。
「ワフは、吠える声が原因で飼い主さんがご近所さんともめて、手放されたのね」
「そんな理由で」
たった君の声は淡々としてるけど、怒りも軽蔑も入っている。
「軽い問題だとは思わないわよ。うちだってご近所と散々もめてきてるしね。飼い主は年配の奥さんだったんだけど、旦那さんは非協力的、ご近所と戦うのに疲れちゃったみたいで」
津野さんはすでにワフ君をなでるのをやめ、他の子達を同じようになでている。
「でも、ごめんねって涙を流すならワフと家族でいる努力を続けて欲しかったし、年齢のせいにするなら飼わないで欲しかった」
わたしを見ると、眉をひそめて、に、と笑う。相手を非難する顔だ。
「生後二カ月でペットショップから買ったのよ。やむをえない事情で引き取ったわけじゃなくて、自分のタイミングで、自分の状況がわかるときに飼い始めた。不慮の事故や病気にあって、健康を損ねたわけでもない。犬が吠えるのは当たり前だし、旦那さんはもともと犬嫌い。全部予想ができたことよ」
一周回って、またワフ君をなでる。もう一度なでてほしくて、こらえきれない様子で順番を待っていた彼は、また夢中でその手を受けとめる。
「あの人ね、ワフは血統書があったんですけど、私はそういうのはどうかと思うから発行はやめたんです、ってどこか得意げに何度も言ってた。結局、身勝手で無責任な人だった。わかりやすいモンスターもいやだけど、普通の顔をかぶった小さなモンスターはほんと性質が悪いし、後味悪いわ」
みんな事情があってここにいる。サイトに事情を公開されていない子も多くて、ワフ君の話は今日初めて聞いた。飼い主の女性が、自分の手放した事情を公開しないでほしいと言ってきたかららしい。
「それでも、ここに持ち込んでくれただけ本当によかったと思ってるけどね」
津野さんは、預かった子全員を里子に出すわけじゃない。今の会話には出てないけど、虐待されていて、それに気づいた津野さん達が騒ぎに騒いで引き取った子がいて(これって今の日本だとすごいことだとたった君が言ってた)、その子はそのまま津野さんの家の子になった。傷ついた彼の世話が難しいこと、彼の所有権を第三者に委ねるのがはばかられたこと、そしてもう一生傷つけたくないという津野さんの思いからだとサイトに書いてあった。
わたしから見える津野さんは普通の女の人で、会っていてもそういう話は積極的に出さないけど、時々抱えている思いがわかる。わたしが今背をなでているように頼まれた片方が、その子だ。最初はさわらせてくれなかったんだと聞いた。
「ワフ、どうするんすか」
たった君の問いかけには多分、ワフ君を里子に出さないで欲しい、って思いがこもっていると思う。
「私だけで決めることじゃないからね。今日、片瀬さん来るから、話を聞いて、ふたりの様子を見るわ」
***
里親の会は、あるNPOが借りているビル(3階建てからビルって言うんだって初めて知った)の会議室を借りて開かれる。基本的にすごく小規模で、参加する犬はたいてい津野さん達の子達だけ。
里親候補の人が来るときって実は少なくて、近所のご年配の方や、活動に興味のある母子連れなんかが津野さん宅の犬達と遊ぶだけってときが多い。津野さんは、預かり犬達にお出かけや、知らない人間といることに慣れさせたいから、十分大切なことなんだと言う。
借りている時間は11時から13時の2時間。わたし達は少し早く来て、会議室から椅子と机を運び出し、床に津野さん持ち出しの滑らない組み立てカーペットを敷き、ネットで参加連絡をくれた人達を待つ。常連さんが数名いて、その人たちは来ないときだけ連絡してくるみたいだった。
「おはようございます!」
「おはようございます、片瀬さん」
明るい笑顔の片瀬さん、前髪を全部後ろになでつけておでこ全開。きびきびとした動きに、冬だっていうのにしっかりとした日焼け、行動的な人なんだってすぐわかる。
「今日は人が多いですねえ」
「山本さんのところと合同なんですよ。うちも若い子がふたり手伝いに来てくれましたし。楽しんでいって下さいね」
「はい! あの津野さん、ワフのことなんですけど」
「ああ、はい。そうですね、すぐお話したほうがいいですか? 少し落ち着いてからでも」
「できれば、すぐお願いします。すみません私、せっかちで」
津野さんは多分、ワフ君と片瀬さんが一緒にいる姿を見てから話をしたかったんだと思うんだけど、片瀬さんは少し興奮しているようだった。緊張もあるのかな。
「じゃあ、ワフを呼びましょうか」
広い会議室で、移動してきたばかりの犬達は興奮して、においをかいだり、駆け回ったりしている。
ワフ君は、たった君とボールで遊んでいた。
「俺も同席していいすか」
たった君はまだボールから離れたくないワフ君を片手に抱えてやってきた(じたばたする手足がかわいい)。もともと愛想のないたった君だけど、なんとなくいつも以上に威圧的なのは、彼が片瀬さんをあんまりよく思っていないんだと思う。わたしは片瀬さんに悪い印象はないんだけど。
たった君の申し出に、一番戸惑ったのは津野さんだったようだ。片瀬さんは、快くうなずいた。
「ええ、どうぞ」
「あの、わたしも」
あわてて手を挙げた、なんとも微妙な間のわたしにも、片瀬さんは笑ってうなずいてくれた。
犬達は山本さん達にお願いして、わたし達は続きの別室に移った。扉を閉めれば個室になるので、里親候補さんと話すときや、犬達に関する相談を受けるときに使われる。
ワフ君はたった君が椅子に座ったまま、器用に遊んであげている。
「子供産むのって大変じゃないんですか」
誰より先にたった君が口を開いた。ワフ君を見たまま、ぶっきらぼうに。津野さんは多分けっこうはらはらしていると思う。もちろんわたしは相当はらはらしている。
「そうね。一度産んだときは、まあ死産だったけど、体力が落ちて本当に大変だった。疲れているのとはまたちがうんだってよくわかったわ。そのときは精神ボロボロで気づいてなくて、あとから大変だったって思ったんだけどね」
「またそうなるかもしれないんでしょ。そんなときにワフ引き取るんですか」
たった君はひるまない。こういう話ってかなり引いちゃうというか、気を遣ったり遠慮したりしちゃうものだと思うんだけど、たった君の口調は変わらなかった。いいのか悪いのかわからないけど、ただ片瀬さんの表情は最初よりおだやかな気がして、不思議だった。
「よくばったほうが、うまくいくような気がしたのね」
たった君が眉をひそめる。
「私、ワフのこと気に入っててね。元気で明るくて、人や犬と遊んでるとき本当に楽しそうでしょう。ここで会うたび、この子と一緒に暮らせたらなあって思ってた。でもやっぱり普通に考えたら子供のことが落ち着いてからにすべきでしょ。妊娠したら無理も無茶もしないで、大事に大事にしてたのね。できることは全部やってきたつもり。でも、だめでね」
時々聞こえてくる話を聞いた限りでは、お母さんの行動より、体質とかそういう要素がずっと大きいんじゃないかって印象がある。おばあちゃんは昔、子供を産めないお母さんの友達のことを、かわいそうに、かわいそうにって泣いていた。わたしはそのとき、なんとなく反感を持ってしまった。だって、子供を産めないからかわいそう、なんて、子供を産めないと価値がないみたいだと思って。
でも、子供が欲しいって願いの前に、それは間違いなく悲しい事実で。
「今もこわいのよ。いろんなパターン経験しちゃってね。普通にしてても、安静にしてても、きたもんだから。私は健康なのにね。ジムのインストラクターやってるのよ。でまあ、追い詰められちゃって」
「それでワフに頼るんすか」
「立田君」
「いいですよ、津野さん。私、はっきりしてるほうが好きですから。そうよ。ワフといたら、私、元気になるの。だって犬が好きなんだもの」
なんでだろう。自分でよくわからなかったんだけど、わたしは片瀬さんのこの言葉に胸が突かれた気がした。犬が好き。
片瀬さんが、おなかに手を添えた。すっきりと筋肉のついたスタイルで、彼女のおなかはまだ全然ぺったんこだった。
「ワフと旦那とこの子と、元気に暮らしたいわ。もしかしたらこの子は先にいっちゃうかもしれないけど、でも今はここにいてくれるから、楽しい気持ちを見せてあげたいというかね。いつも妊娠中は泣いてたから」
たった君の顔を見たかったけど、見れない。
「でも、俺妊娠なんて全然わかんないけど、普通の状態じゃないんでしょ。生活に犬増やすの、楽しくても負担はある。気持ちだけでカバーできるんすか。手に余ることしてなんかあったとき、本当にワフのせいにしませんか。あと吉永泣くな」
すみません。
「ごめんね、重いわよねえ!」
首を振って涙を引っ込めるため全力を使う。どうやったらいいのかよくわからないけどとりあえず全力。なんでみんなしっかり顔を上げていられるんだろう。
「旦那と、親に頼んだの。この妊娠で最後にするから、ワフのことも赤ん坊のことも、思いっきり甘えさせてくれって頭下げてやった。母は1年仕事の休みをとって、こっちに来てくれてるの」
下げてやった、って変じゃないですか。でも、大事な人に頭下げて頼まれたら、わたしけっこうどんなことでもがんばっちゃうかもしれない。おとなになってから、頭の値段は高くなったと思う。
「だめでも、大丈夫でも、私にはワフがいるわ。病院から帰ったらワフが待っててくれる」
浅く息を吐く。片瀬さんは、必死のまなざしを向けた。
「家族で大切にします。だからお願いします、ワフを私に迎えさせて下さい」
津野さんは、やわらかくうなずく。
「ご事情、よくわかりました。あとはお譲りする方向で、お話を進めましょう」
片瀬さんは、不安げにたった君を見る。
「いいわね、立田君?」
「津野さんの犬ですし」
「これだけ言っといてそれはないでしょう。片瀬さん大丈夫ですよ、私の犬だろうが、この子は納得しないと絶対文句言い続けますから。本当に、デリケートなお話をさせてしまってすみません」
「いえ、聞くほうも大変ですよね、ごめんなさいね」
わたしのことですよね! ようやく鼻水だけになってきました。
「それに、聞いてもらいたかったんですよ。間違っているなら間違っていると言ってほしくて」
「こういう決断に、合ってるとか間違ってるとかはありませんよ。ちなみに私の基準は、応援したくなるかどうか、です」
津野さんはにこりと笑う。
「それじゃ、これからのことやお宅の状況を、もう少し詳しく教えて下さい。片瀬さんは犬を飼っていた経験がおありですし、だいたいのところは大丈夫だと思いますが、ワフを預けたい状況なんかも出てくると思うので、そういうときの対応とかね、相談していきましょう」
***
「決まっちゃいましたね、ワフ君……」
帰りの津野さんの車の中で、わたしはなんとなくぼーっとしていた。犬達は後ろのケージの中で、遊び疲れたのかみんなおとなしくしている。
「そうねえ」
ワフ君はまだ今日は津野さんの家に帰る。来週、片瀬さんが旦那さんとふたりで迎えに来るけど、まずはトライアルからだ。
「ワフはあんま合ってないと思う」
「え?」
たった君がぼそっという。ふたりそろって後部座席なのは、助手席が今日はいない安口さんの指定席だからだ。
「運動量必要なやつだよ。十分遊んでもらわないとストレスためる。片瀬さんはうまく遊んでやれるかもしれないけど、それって子供が手離れてからだろ。その頃にはもう立派な老犬だし、それにこいつ、ほんとは我慢してるだけで、根は甘ったれでわがままだと思う。今は多頭飼いだから」
「そんな」
一気に気持ちが落ちる。
「ま、良縁でよかった」
「えっ!?」
大きな声になってしまった。たった君が怪訝な顔を向ける。ひどい。
「なに」
「いやだって今、合ってないって」
「それはそうだろ。でも、常識ある人にあんだけ望まれてんだから良縁だよ」
なんだかすぐにわからないんですが!
「吉永ちゃん、立田君はいつもこうなのよ。注文はうるさいけど、妥協点はわりと普通なの」
「てか、相性悪い家族なんていくらだっているし。旦那がうまくワフにハマって、遊んでやってくれりゃいいんだけど」
「旦那さんもスポーツ関係で、アクティブな人だそうよ。ワフの運動能力みたら絶対見直すわ」
津野さんは、バックミラーでわたしと目線を合わせる。
「大丈夫。このうえない良縁よ。誰かに望まれない限り、この子達は生きていけないんだから」
津野さんの家の前に着き、ガレージ前に車をつける。下りて、犬達を出すお手伝いをする。
津野さんがワフ君を出した。胸に抱いて、津野さんはワフ君のビー玉みたいに真っ黒な目と見つめ合う。
「ワフ。新しい家族、できるわね」
「またか吉永」
「ちょっとちょっと、吉永ちゃん」
しょうがないじゃないですか!
津野さんの笑顔はいつも通りでも、やっぱりまなざしは切なそうだった。