13.
たった君は意外とよくしゃべる。
いつも通り、持参した夕飯をあっためていると、後ろからぶつぶつ聞こえてくる。
「おまえ、なんでそんなに毛深いの?」
一瞬手がとまる、けどすぐ作業を再開。ちらっと後ろをうかがえば、ムサシと睨み合うたった君。ちなみに表情は特になし。
「鼻の穴が前に開いてて不便じゃないの?」
ああ、確かに……確かに? 何を納得しているのか自分でもわからない、ムサシは犬です。でもそういえば、犬が地面の匂い嗅いでるとこ見て、なんで砂とか埃でくしゃみしないんだろうって思ったことはある。ちなみに犬もくしゃみするってムサシと出会ってから知りました。
「じゃんけんするぞじゃんけん。じゃーんけーん」
一人遊びが加速していく。フセの状態のムサシの前片肢をつかんで、ぶーんぶーんぴたっ。たった君はチョキ。ムサシは……パー?
「あっちむいてー、ホイ」
無理やり勝ち取った勝利で、人差し指でたった君から見て右を指す。ムサシは2呼吸くらい置いて、ものすごく億劫そうに右を見た。あ、できた。ってたった君がぼそっとつぶやいて、テーブルの上に置いてあったおやつをムサシにあげる。芸やしつけって、もっと楽しそうに、犬の気持ちを盛り上げてやるように教わったんだけど。このローテンション飛行、とっくに事故を起こしてると思う。
にやつく顔をそのままに、お膳を運び始める。
「すごいね、ムサシあっちむいてホイ覚えたんだ。かしこい」
「いや、たまたまだと思うけど。繰り返したらもしかして覚えたりしてね」
できあがった夕食をテーブルに並べる。
「でもこいつ、絶対芸とか好きじゃないよなー」
「あはは。そう思う」
そんなお遊戯などやらんわ、みたいな空気。津野さんとこのワフ君とか、津野さんから芸の指示があると目をぴっかぴかに輝かせて、しっぽぶんぶんでやってくれる。ああいう姿を見ると、犬にも性格があるんだなってしみじみ。
「ま、ボケ防止ボケ防止」
「そうだったの? たった君が好きでやってるんだと思ってた」
「それもある」
言いながら、ムサシ用のタオルを敷いてくれる。わたしが最後に持ってきたムサシのごはんをそこに置くと、ムサシはおすわりの姿勢のまま静かに食べ始める。
たった君もコタツについて、いただきます、って言ってからまず麦茶に手をつける。たった君は最近、いただきますって言ってくれるようになって、かなりうれしい。
「たった君、今度お鍋しようよ」
「うち鍋ないよ」
「うちから持ってくるからさ。キムチ鍋好き? 石狩鍋とね、水炊きもやってみたいんだよね」
「いいけど」
「やった。ひとりだと食べられないからさ。あ、武中君も呼んだらどうかな?」
「それはやだ」
返事が早い。
「じゃあえっと、大家さんご夫婦とか」
「本気?」
「ご、ごめん」
「いや別に怒ってないけど。呼ばれたってあっちも困るでしょ」
そうか、そうなのかな。
「じゃあ、扇町さん達とか」
夏に駐車場でムサシを洗ったとき、手伝ってくれたアパートの住人さん。あれから、わたしを見ると声をかけてくれるのだ。お料理が好きらしくて、ちょっとした世間話が結構な井戸端会議になることもある。
たった君のお箸が止まっているのを見て、あせる。
「ごめん、いやだったらいいんだけど」
むぐむぐむぐ。ごくん。たった君は口の中の物を飲み下しても、わたしが謝っても、しばらく無言。
「ううん。呼べるんだったら呼べば」
「え?」
「あっちが乗るなら、俺はいいよ」
「……本当? 気を遣ってない? そんなのたった君じゃないよ!?」
「俺のことどういう風に見てんの? 別に」
お箸を伸ばして、鮭のホイル焼きをほぐす。たった君はお箸の持ち方が変なのに、お魚の食べ方がわたしよりずっと綺麗だ。なんか納得できない。
「なんつーか……もうちょっとこう、仲良くしといたほうがいいのかなと。ムサシのことでこれから迷惑かけるだろうし」
「たった君、かっこいい!」
「すげーばかにしてるよね吉永」
「えええ、してないしてない!」
そのまま、ご飯を食べる速度をもとに戻す。たった君は7割くらいすごい速さで食べるのに、残り3割はゆっくり食べる。前からこうだったかは覚えてない。
わたしが食べ終わるのを、待っててくれてるんだったらちょっとうれしいなあ。
***
大家さんご夫婦にその話をしたら、期待した通り大喜びで乗ってくれた。大家さんは鍋が大好きらしいんだけど、ふたりともあまり食べない方で、鍋の中身が年々寂しくなっていくにつれてあまりやらなくなったのだという。湯豆腐は今もしょっちゅうやるらしい。という雑談。
奥さんは、夕食考えなくていいし、若い男の子とお鍋なんて若返るわね! ってはしゃいで下さった(わたしはカウントされてないですよね、ちょっとさみしいです!)。たーっぷり材料持って行くからねって言われて、どんなものを持ってきてくれるのか聞いたら、当日のお楽しみよって言われて、キムチ鍋の予定が終了しました。でも楽しそうだからいっか。ダシは昆布を用意しておけば大丈夫かなあ?
で、それよりも人数が少ない方が問題かもって思って(奥さんが時々してくれるおすそわけの量を考えると『たーっぷり』がこわい)、扇町さん達にも声をかけた。今週末の土曜夜、いかがですかって。そしたら、行く行くーのふたつ返事。同居されている親戚の方はお仕事が終わってから来てくれるらしい。食べられないものを聞いたら、「カレー鍋じゃなきゃなんでもいいよ。うちの母親なんでもカレー味にしたからさー」って言われて笑ってしまった。そういうの考えると、うちのお母さんは生真面目だったのかも。カレーの具で、変わったのって出たことない。お味噌汁の具も、おじゃが、ワカメ、お豆腐、油揚げ、大根、新聞のランキング上位のしかなくて、下位の変り種を見て家族で驚いた。
三連休はじめの金曜の夜、家から鍋を持ってきた。お鍋他食器はリュックに、具材は自転車に乗せて、ついでに連休初日セールで安くなってたペットシーツ(トイレのやつ)も積んで、えっちらおっちらたった君家を目指す。たった君はフットサルで、今の時間はもう出ているはずだ。
大人6人なわけだけど、食器足りるかなあ。たった君の家には、たった君が使う最低限の調理器具と食器しかない。フライパンも中くらいのがひとつ、お鍋も手鍋がひとつ。お鍋用のお椀だけじゃだめだよね? 割り箸も多めに用意したほうがいいだろうし、普通のお皿もある程度あったほうがいい気がする。大家さんの奥さん、具材以外にもなにかお料理持ってきてくれるっぽいこと言ってたし。足りなくて、お借りすることになるのもなんか申し訳ない。そのほうが絶対早いんだけど。
それに、もしかしたら人が増えるかもしれないし。フットサルのあと、たった君がお友達と約束することって結構ある。武中君もフットサルに参加しだしたらしいし、もしかしたら押しかけてくるかもしれない。彼はこういうの好きそうだし、たくさん食べるだろう。そうだ、お酒。お酒絶対足りない。やっぱり、明日もう一度買い出しに行こう。
あとテーブル、これはうちから持ってくるわけにも行かないから、大家さんにひとつお借りする約束をした。大家さんは「うちでやったら?」と言って下さったけど、そこはさすがに甘えられない。招く側が一番大変に決まってるんだから、ってお母さんはいつも愚痴ってた。
「ムサシ、ただいまー!」
津野さん達に聞かれたらまた思いきりつっこまれそうだけど、聞かれなければいいんです。だってムサシにはそう言いたい。ムサシは今は、わたしが行くと喜んでくれる。わかりにくいその表情を、わたしは理解することができる。
でも、いつもは面倒そうにこっちまで迎えに来てくれるのに(彼はなにをしても面倒そうなので、そこからさらに踏み込んで表情を理解しなければならない)、姿を見せない。といっても、一続きで奥まで見えるから、彼の姿はすぐに見えた。壁に向かっておすわりをし、咳をしながら体をふるわせていた。
「ムサシ? また咳?」
体の血が冷たくなっていくような気がした。
わたしはさっき、買い物に行く前、たった君の家に一度寄った。必要なものを確認するためだ。その時、ムサシが咳をしだした。
これまでもムセるだけなら何度もあったけど、なかなか止まらなくて、空気の抜けるような、手応えのない咳を何度も繰り返した。
それでもなんとか止まって、安心したみたいにフセをしておだやかに呼吸をしはじめたから、わたしも安心して買い物に出たのだ。
時計を見る。買い物に出ていたのは1時間半くらい。
わたしが出たあと、また、ずっと咳をしてたの?
立ち上がって、ムサシファイルを出す。たった君は、ムサシに関するメモは全部ここに入れている。そこに動物病院の診察券も入っていた。ここが多分、たった君が昔からお世話になっているところだ。場所を確認すると、少し遠い。
外は寒い。この間うちに来たばかりのお父さんの車を持ってきて、ムサシを乗せた。
***
「特に悪いところは見当たらないかなあ」
先生がムサシから手を離して、診察台の上のムサシがわたしのそばに身を寄せたとき、わたしはやっと呼吸が出来た気がした。
ムサシは車に乗せる頃には、もう咳がおさまっていた。でも心配だったからそのまま予定通り、先生に診てもらったんだけども。
「咳をね。聞けなかったから、今度止まらなかったらすぐ連れて来てみて。心臓かもしれないし」
「心臓……」
「史彦君と、年が明けたらいくつか大きめの検査しようって話してたんだけど、早めてもいいかもしれないね。今日のこと、相談してみて下さい」
「はい」
先生は、いくつかのアドバイスをくれて、念のためと咳止めを処方してくれた。
お会計を済ませてお礼を言い、ムサシを抱っこしようとする。
「史彦君の彼女さん?」
そう言われるのはもう慣れていたから、特に驚かずに振り向く。ここに来たときにムサシの診察券を出したから話はすぐに進んだけど、先生はまだ、わたしがムサシとたった君とどんな関係なのかって知らない。
「彼女ではないです。ムサシのことが好きなので、一緒に世話をさせてもらっていて」
「ああ、そうか、それでか。なるほど」
なにがなるほどなのか、ずいぶんと納得した様子の先生を見る。なんか思ったよりだいぶ若くて、かっこいい人だった。今気づいた。
「君のほうが死んじゃいそうな顔してるから。彼氏の犬なのにずいぶん熱心だなって」
その言い方には少しかちんとくる。
「もしそうだとしても、大切に思ったって変じゃないと思います」
返す言葉が少し尖ってしまって、後悔する。でも今、あんまり余裕がなくて、だから早く帰ろうと動作を急ぐ。
「まあ、落ち着いて」
……も、もっと怒らせたいの? 怒るよりちょっとおどろいて、まだ絡んでくる(すみません)先生を振り向く。
「ね。少し、落ち着きなさい。そんな暗い顔の君を、ムサシ君と車に乗らせるのも心配だから」
どきりとした。熱くなっていた部分にぬるめの水をかけられたみたいに、ゆっくり少しずつ、いつものわたしっぽいわたしが戻ってくる。でも、戻りきりはしない。
「すみません。その、ちょっと、……心配で」
泣きそうになる。さっきから、ムサシと別れることを何度も何度も想像している。今日は大丈夫だった。でも、いつか必ず、来る。終わりが始まった気がした。
「失礼なことを言って悪かったね。飼い主じゃないはずなのに、君は飼い主みたいにムサシ君を見ているから、少し不思議でね」
毎日ムサシといることを説明する。わたしはたった君も好きだけど、ムサシが好きだ。
「まあ、死ぬからね。死ぬよ、動物はね」
うんうん。先生がうなずく。……そうですけど。
「穏やかに逝ける子もいるけどね、やっぱり苦しんでね、死んでいく子も多いよ。見てるほうもつらい。犬より先に飼い主さんが参っちゃうことも、あるね」
苦しんで、死んでいく。おばあちゃんが亡くなる間際、わたしはほとんど会いに行かなかった。両親が見せたがらなかったし、わたしも内心、ほっとしていた。
「色んな正解があるからね。そういうのとどういう風に付き合っていくのかは、自分で見つけていくしかないと僕は思うんで。つまり今君の悲しくてつらい気持ちを慰めることはさっぱりできないし、する気もないんだけど」
「……さすが、たった君の獣医さんだなって思ってます」
「え、そう? 史彦君のほうが変だと思うけどな……」
わかった、この先生、かっこいいけど話し方がかっこよくないんだ。ぼそぼそして、そしてなんとなく嫌味っぽい。落ち着いてきたのか、女子眼が復活してきた。まあともかく、と先生が咳払い。
「君がどんなに悲しんでも、ムサシ君はいつか死ぬ。必ず死ぬんです。でもそんなことはわかってる。赤ん坊は生まれた時から死ぬことが決まってる」
わたしができるだけ避けていた言葉を、繰り返しすぎだ。
「だからこれは、提案です。車はね、落ち着いて運転しなさい。君があわててもあわてなくても、ムサシ君の体調は変わらない。落ち着いて車を運転できないなら、タクシーになさい。金がないなら史彦君から巻き上げなさい。代わりにこっちは少し勉強するから」
「そ、それくらいのお金はあります……」
「そう、それは結構。あとね、できるかぎりいつも通りに接してあげなさい。ムサシ君にも、史彦君にもね。犬はね、こっちの気分見てます。一緒にいてうれしいんだよって気持ちを、伝えてあげてください」
先生が、ムサシの背をなでようと手を伸ばした。でもムサシは、小さく小さく、うなってしまった。
「すみません!」
「君が元気ないから、守ろうとしてるね。ただ単に僕がいつもお尻に体温計つっこむから怒ってるのかもしれないけど」
とうとう笑わされてしまう。
「心配なときは夜中でもいいから、電話してください。できるだけ楽しくね、暮らせるよう、僕も手伝いますから」
まばたきでごまかしながら、頭を下げた。
***
「吉永」
電話で事情は話してあったけど、戻ったらたった君はさすがに心配そうな顔で迎えてくれた。
「ごめんね、勝手に連れてっちゃって。でも先生、特に異常は見当たらないから、とりあえず部屋の温度と湿度を十分にしてあげてくださいって」
「うん、わかった。先生にはまた電話するよ。でも吉永、あわてすぎ。自転車も鍋もネギも全部出しっぱなしなんだもん、大家さん驚いてたぞ」
「あ、ごめん!」
「置き場悪くてトイレットペーパー濡れてたし」
「えええ」
「まあ被害は2つで済んだけど。あれうちの? 吉永ん家の?」
「あ、半分こしようかと思って」
たった君はうなずいて、わたしからムサシを受け取る。
「車、置いてくるね」
たった君が時計を見る。
「また戻ってくるの? もう結構遅いけど」
「うん。まだ持ってきたい荷物もあるし。あ、でも用事あったら明日にするよ」
たった君が首を振ったので、持ってくるつもりだったラインナップを思い起こす。でもそのまえに、たった君を呼び止めた。
「あのね、たった君」
「ん?」
「わたし、ちょっと悩んでて」
「なに? ムサシのこと? 別にあとで聞くけど」
「うん、あとでちゃんと話す。ただ先にこれだけ言っておきたくて」
玄関先、寒さに息を凍らせながら(一応ムサシは部屋に入れてある)、たった君が首をひねる。
「わたし、たった君と結婚できないかなあって」
たった君の顔が凍る。まあえと、そうだよね。