10.
怒られてしまった。結構、ひどい感じで。
ムサシが自力でお散歩をしてくれるようになって、外で用も足すようになった。夕方、ごはんの前にたった君家の周りをぐるりとまわるのがいつものコース。もちろん、小はペットボトルで流して、大は包んで持って帰るんだけど。
「あんたね、いつもいつも犬のフン置いていくのは」
ビニール袋にティッシュを重ねていたら、後ろから誰かにそう言われた。あまりに剣呑な口調だったから、驚いてびくりと肩をはねあげながら振り向いた。
年配の女の人。お母さんより年上だと思う。なぜか表情はあんまりないように見えるのに、声だけが大きくて、この上なくとげとげしくて。
「いえ、わたし、今とろうと」
「見なさいよ、この壁、色変わっちゃってるでしょ。ここだけ崩れてるし、あんたんとこの犬のおしっこのせいなんだからね、わかってんの。弁償しなさいよ。名前と住所言いなさいよ、ほら!」
喉が詰まったように声が出ない。女の人はさらに声を張り上げて、わたしを罵る。あとずさりしたら、ムサシが彼女に向かって吠え出した。
「ムサシ!」
慌てて止めさせようとリードを引いたけど、ムサシは吼えるのを止めない。女の人はひるんで一歩下がり、舌打ちをした。すみません、と謝ろうとしたら。
「この犬、次に見たらただじゃおかないからね」
口元を歪め、ムサシを睨みつけ。
「綺麗に片付けておきなさいよ! 警察呼ぶわよ!」
言い捨てるや、女の人は足音荒く家の中に入っていった。わたしは少しの間呆然として、そうだと気づいてのろのろと片づけをはじめる。
「ちょっと」
新たにかけられた声に、おびえすぎてちょっと泣きかけた。
「大丈夫かい? あの人いつもああでね」
大家さんは、わたしを家に招き、お茶を出してくれた。お礼を言って湯飲みを持ったら、伝わるあたたかさが心をほぐしてくれる。……あったかいってすてき。
「そうなんですか」
「怒鳴り声聞こえたから急いで出てきたんだけどね、間に合わなくて悪かったね」
「いえ」
その気持ちに感動してしまう。いかん泣くな泣くな。隣にお座りしているムサシをなでることで、ごまかした。大家さんはムサシも招待してくれました。
「わりと最近引っ越してきた人なんだけどね、最初はそんなことなかったんだけど、そのうち犬の散歩してる子供や、若い女の子にだけああやって怒鳴るようになってね。苦情も多く出てるんだけど、あそこの旦那、いるんだかいないんだか、たまにいても、はあ、はあ、すみませんって繰り返すだけでね。女房のことも町内のことも全部無視してるんだろうね、あれは」
大家さんって、おじいさんと言って差し支えない年齢だと思うんだけど、話もはっきりしてるし動きも機敏。
「ともかく、気にすることないよ。あんたは悪くないんだから。またなんか言われたら、うちの名前出しなさいね。あの人名前とか住所とか聞いてくるから怖がる子もいるんだけどね、出るとこ出れば困るのはあっちだよ。もう警察にも何度も話してるからね」
一瞬口を開いて、出かけた言葉を飲み込む。
「ありがとうございます。本当に助かります」
かわりに、深く頭を下げた。大家さんは笑って、何度もうなずいた。
たった君の家に戻る。たった君は、出勤前に武中君に車の話を聞くのだと言って出かけている。昨日の今日、たった君って決めると早い。せっかちっていえるくらい。夕飯は一緒に食べると言っていたから、そろそろ帰ってくるはずだ。
切り替えたいって思うのに、脱力感がひどくてなにもする気になれない。わたし、人に怒鳴られたことって、多分ほとんどない。
楽しかったムサシとのお散歩が、一気に憂鬱になってしまった。明日からどうしよう。あの家の前は通りたくない、通れない。反対側を回るしかないかな。でもあっち、大通りがあっていやなんだよね。車も人も多いのに歩道が狭いんだ。ムサシと歩くには向いてない。
いっそのこと、自転車にムサシを乗せて河川敷まで行こうか? 片道20分くらいかかるけど、サイクリングロードがあって犬の散歩も多い。ああいうところを利用する人で、犬の散歩を嫌がる人は少ない気がする。だけど往復と散歩で1時間くらいかかるだろうし、そしたらたった君とのごはんがあわただしくなっちゃうかも。わたしも仕事のあとにそれを毎日するのはつらい。
晩御飯の準備をしなきゃって思うのに、こたつにもぐって頭をごん。ホットカーペットはつけっぱなしでいいといわれているから、スイッチの入っていないこたつでもわりとあたたかった。今日はほんとに温めるだけだし。もうちょっとだけ。
誰かに話を聞いて欲しいような、聞いてほしくないような。気持ちがぐるぐるする。色々な言い訳みたいな考えが、ひとりで頭の中で言い合っている。
「吉永?」
「あ」
慌ててからだを起こし、こたつから出る。確かに落ち込んじゃいたかったけど、でもこんなぐったりしたまま迎えたかったでもなかった。
「ごめんごめん、ごはん用意するね」
「どうしたの、眠いの? 体調悪いなら帰れば?」
これはたった君の気遣いです。でも帰ればって言われるとちょっと傷つくよね!
「ううん、えっとさ、ちょっと凹んでたというか」
いかにも落ち込んでますー、って感じの自分がちょっと恥ずかしい。こんな風にへらへら笑うのもなんですが。
話すのは少し、気が引けないこともなかった。同情してくれ、慰めてくれ、っていかにもな感じで、話しづらいとも思った。でも聞いて欲しい。
「凹む?」
「ムサシの散歩してたら、ご近所さんに怒られちゃって。すぐ大家さんが気を遣ってくれたんだけどね。まあえっと、びっくりしたというか」
たった君の表情がさっと翳る。
「あのババア」
たった君、口が悪い!
「言っときゃよかった、最近おとなしいから忘れてた。吉永、気にすんなよ。あいつ頭おかしいんだ。言ってること変だったろ?」
「あ……わかんないけど、わたしのこといつもフンを忘れてく常習犯だと思ったみたいで」
「吉永、片付けなかったの?」
「違うよ、もうビニール出して片付けはじめてたよ」
わたしはしゃがんでもいた。あの状況でそれがわからないっていうのも、ちょっと変だ。
「だろ。頭おかしいんだ、あいつ。犬の散歩してる小学生に怒鳴り散らしてさ、びびった犬が逃げちまって、なんとかつかまえたけど、走り回るうちに車に突っ込んだっておかしくなかったんだ」
思い出した怒りはずいぶん強いようで、たった君の決してよろしくない目つきがさらにこわいことになっている。
「吉永、大丈夫だった? ムサシは?」
「うん、びっくりしただけ、それに大家さんも出てきてくれたから」
「ああ」
ふっと、気配がやわらぐ。たった君て、大家さんのこと信頼してるんだってよくわかる。
「そか」
視線をムサシに向ける。わたしの近くで寝そべっていたムサシはたった君を一瞥、多分彼なりのご挨拶をして、また組んだ前肢にあごを乗せた。
「ムサシのほうが落ち着いてそうだな」
……言われてみればそうで、わたしはちょっとへの字口。ムサシを守る立場にいるくせに、これじゃだめだろう。そうだ。びっくりしただけじゃない、こわくて、だって。
「たった君、」
たった君の腕をつかむ。
「あのね、あの人、ムサシのこと見て、『この犬、次に見たらただじゃおかないからね』って言って」
からだから力が逃げるのに、たった君の腕にすがる指だけは、強くこわばっている。
「まさか本気じゃないよね? ああいうの、ケンカとかの売り言葉ってやつなのかな。でもどうしよう、本気だったら」
言霊って、本気で信じた。テレビでよく知ったようなありがちな言葉だったはずなのに、あの人の悪意が乗った今、口にするのもこわかった。大家さんにも本当は言いたかった、こんなこと言われたんですって訴えたかったのに、言えなかった。
酷い目に遭った人や、怖い目に遭った人が口をつぐんでしまう気持ちが、今はじめてわかった。恐ろしいことは、言葉にすることも恐ろしい。
たった君が呆れた声で言う。
「ばかか。そんなことさせるわけねえだろ」
あんなババァ返り討ちだっつの。……口が悪い。涙がこぼれる。
「泣くなって! だから、どうせ本気のわけねえし、あのババァが犬の見分けついてるわけねえし。吉永のことだってわかってねえよ。それにムサシが1匹のときって夜中だけだろ、吉永はちゃんと鍵かけて帰ってんだし」
うなずく。鼻をすすって、目をこする。たった君がまったくおびえてないことに励まされる。
「びびりすぎ。大丈夫だから」
でも、晴れない。
コースを変えることに決めた。わたしはもう、住宅街で散歩はさせないと思う。たった君は気にしすぎだっていうし、それもわかる。
だけど、もういやだった。罵られるのも責め立てられることもいやだけど、あの人はその悪意をムサシにも向けた。わたしの大好きなムサシに、二度とそんなものを向けさせたくない。
わたしがあの人と話すことはもうないと思う。自分の家に帰るとき、たまたますれちがったことがあったけど、ムサシを連れていないわたしのことなんてまったくわかっていないみたいだった。あの人は犬に反応している。
振り向いて駆け寄って、訴えたい衝動に駆られた。できなかったけど。
いやなことをしてごめんなさい。たとえ持って帰ろうが、家の前でされてうれしいことじゃなかったですよね。ごめんなさい。でも、犬が悪いんじゃないんです。
犬が悪いんじゃないんです。どうか、悪意を彼らに向けないで下さい。