9.
給料を上げてもらった。バイトの時は無茶な労働時間を強いられることがほとんどだったが、社員になってからは定時にも帰れている。使うほうと使われるほうはこんなにも違うのかと、立田は昔の自分と同じような派遣、バイトの人間達を見て思う。
「たった君って、車好きなの?」
「え?」
吉永は、淹れたばかりのお茶を立田と自分の前に並べるや、寒い寒いとこたつに足を突っ込む。居間はホットカーペットとこたつ、それに灯油ストーブの3段構えであたためているが、ガラス障子で仕切られた台所は吉永曰く極寒の寒さである。
クリスマス仕様で飾られた、車のCMが終わる。
「最近、よく車のCM見てるみたいだから」
「あー、つか、車欲しいとは思う、かな」
立田はCMが好きではないので、CMになると他局に回す。気になる引きがあろうが関係ない。他に面白いものがなければ戻ってくるし、他局に面白そうなのがあれば、それまで見ていた番組のことなど忘れてしまう。夜勤の多い身、よほど見たい番組があれば録画して、CMなんて飛ばし放題である。
「ムサシのため?」
立田は返事をしなかった。車の購入を具体的に考えれば、自分の現在の甲斐性を見せつけられる気がしたからだった。彼は口にしたくないことは口にしない。
多少の貯金はあるが、多少だ。金のかかる趣味はなくても、犬猫に関してはかなり出て行っている。長く懇意にしている獣医は捨て猫や捨て犬の診療を無料で行ってくれるが、就職してからは最低限は支払うことにしている。負担はあまりかけたくない。
「まあ別に、どうしてもいるわけじゃないし」
吉永に言ったのか、自分に言ったのか。聞こえた自分の呟きはなんとも言い訳のようで、立田は少しばかり眉をひそめた。
確かに現状、大家に借りるだけで間に合っている。大家の家には2台の車があり、軽1台たいてい遊んでいるため、あまり借りる時を選ばない。動物絡みでしか車を借りないからか、大家は進んで貸したがった。車、使うかい? 鍵持ってくるけど。ありがたく借りたあとはガソリンを満タンにして返すだけで、駐車場も借りなくていい、維持費もかからないと、立田にとって非常に都合がよかった。
そもそも土地柄に車が必須でなく、都会というほどではないにせよ、近隣であれば電車と徒歩のほうがまず早く着く。
「そっかあ。なんか男の子って、みんな車欲しいものだと思ってたな」
先ほどは無視されたかたちだったが、吉永は気を悪くした風もなく、立田の言葉に笑って返した。立田の位置からでは見づらいが、膝にはムサシが頭と前肢を乗せ、彼女に背中をかいてもらっている。ムサシは遠出の散歩以来、気温が下がるとともに吉永に甘えるようになっていた。
新車は無理だろう。ならば中古だが、立田は車に詳しくない。おしゃれな車も使いやすい車もわからないし、保険うんぬん、走行距離うんぬん、うまい買い物はできないかもしれない。車好きの武中あたりは「なんでそんなん買ったの? たった、おまえほんっとセンスねえよな!」と容赦なく罵るだろう。いや、武中はいい。むかつけば殴ればいい。
吉永が始まった番組を見て、笑い声を上げる。
吉永の家は裕福だ。あえて言うことはないが、一緒に過ごしていて、それはよくわかった。子供の頃からの旅行の思い出の数々や、食事、いつもちがう服。立田は服など意識したことがなかったけれども、買い物の話をしているときに、そんなに服を買うのかと驚いた。母親と仲がよいようで、よく母親に買ってもらうらしい。うちの母親、俺に小遣いよこしたこともねーんだけど。
吉永に、中古の安い車しか買えない自分を見せたくなかったのだ、と気づく。
立田は、こたつのテーブルに頭をぶつけた。
「たった君?」
これから、ムサシを病院に連れて行く機会が増えていくだろう。自転車を飛ばせばすぐだが、近くはない。車で連れて行けるほうがいいに決まっている。それに、大家の厚意も、いつまでも甘えているのは居心地が悪い。人のものは人のものだ。
「車、買うかな」
「え?」
「明日武中にでも聞いてみるわ」
う、うん? 急転した立田の言葉に、吉永はまばたきを繰り返した。