白く弾けた、記憶という名の爆弾
ここからが本編となります。
話は私が転生した10年前に戻る。
‥痛い。
それが最初に思ったことだった。
頭の後ろが、じんじんする。
石造りの床は、思ったより硬かった。
まあそうだ。石なのだから。
「エリシア様……!」
侍女の声が遠い。
誰かが名を呼んでいる。
けれど体が動かない。
ただ、天井を見ていた。
豪奢なシャンデリア。
見たことのある光景。
いや。違う。
「見たことのある」では足りない。
もっと、根底から。
ここは知っている。
ここは、私が生まれた場所だ。
エリシア・フォン・ヴァレンシュタイン。
公爵家の一人娘。
今年で十歳。
それは知っている。
だが同時に。
別の記憶が、流れ込んでくる。
洪水のように。
静止画のように。
騒々しく、静かに。
狭いアパートの一室。
コンビニのビニール袋。
深夜の残業。
スマートフォンの画面に映る乙女ゲームのタイトル。
『聖女と七つの誓約』。
「え」
思わず声が出た。
体を起こそうとして、眩暈がする。
侍女がすぐに支えてくれる。
その手の温かさだけが、現実のものとして感じられた。
「お怪我は……!エリシア様、お顔の色が」
「大丈夫よ」
大丈夫ではない。
ぜんぜん大丈夫ではない。
だが口が動いた。
反射的に、令嬢として答えてしまう。
それが、この体の癖なのだろう。
侍女の手を借りて立ち上がる。
足が震えている。
階段から落ちたせいだけではない。
私は今。
この世界の真実を、知ってしまった。
部屋に戻り、侍女たちを下がらせた。
一人になって、ベッドに腰掛けて。
深呼吸を、三回した。
前世の記憶は、じわじわと輪郭を取り戻しつつある。
完璧ではない。でも、大事なことは覚えている。
この世界は、乙女ゲームだ。
攻略対象は五人。
主人公は平民出身の聖女候補。
そして悪役令嬢は。
「私」
声に出すと、少しだけ、笑えた。
まあそうだ。
公爵令嬢で、皇太子の婚約者。
嫌がらせの常習犯。
最後は断罪されて、国外追放か処刑。
それがシナリオ上の私の役割だ。
鏡を見る。
金の髪。翡翠の瞳。
まだ幼い顔立ちだが、整っている。
ああ、確かにこれは。
悪役令嬢の顔だ。
笑えるような笑えないような気持ちで、鏡に背を向ける。
問題は、そこではない。
シナリオを思い出す中で、一つのことが気になった。
ゲームの世界観設定。
攻略本のスタッフインタビューで、開発者の一人が語っていた、裏設定。
プレイヤーには関係ない、物語の後日談。
「黒蝕」。
魔力汚染の災害。
ヒロインがどのルートを選んでも、エンディングから数年後。
国は静かに滅ぶ。
誰も救えないまま。
当時プレイしていた私は、それをただの「切ない設定」として受け取っていた。
でも今は‥。
今は違う。
ここは本物の世界で。
黒蝕は本物の災害で。
その中で死んでいくのは、本物の人間で。
窓の外を見る。領地の森。青い空。
まだ何も起きていない。
だが、いつか必ず。
あの空が黒くなる日が来る。
夜、眠れなかった。
当然だと思う。
頭の中で、記憶が整理されていく。
前世の自分が知っていたこと。
今世のエリシアが持っている知識と感覚。
二つが、ゆっくりと混ざっていく。
怖いかと聞かれれば。
「……怖い、か」
ぽつりと呟く。
天蓋付きのベッドの中で、膝を抱える。
公爵令嬢らしくない格好だが、誰も見ていない。
怖い。
消えるかもしれない未来は怖い。
でも。
もっと怖いのは。
何も知らないまま、目の前で世界が終わることだ。
私は知ってしまった。
知っている以上、見なかったふりはできない。
そういう性格だと、前世でも言われていた。
「お前は損なやつだ」と、友人に笑われた。
友人。
その顔が思い出せない。
もう随分昔のことだから。
でも、声だけは覚えている。
笑っていた。
「……うん。損なやつだよ」
一人で笑う。
誰も見ていない部屋の中で。
十歳の少女が、静かに覚悟を決めていた。
翌朝。
「エリシア様、昨夜はよくお休みになれましたか?」
「ええ、ぐっすりと」
嘘だ。
でも侍女は安心したように微笑む。
朝食を済ませ、自室で一人になると、私は頭の中で整理を始めた。
まず、確認すべきこと。
一つ目。黒蝕の発生時期。
シナリオ上では、ヒロインのエンディングから三年後。
つまり、今から約十年後が目安になる。
二つ目。対抗手段。
攻略本には「ヴァレンシュタイン家の禁術で大規模浄化が可能」という記述があった。
ただしそれは、命を代償にする術式だという。
三つ目。問題点。
皇太子妃になれば、行動が制限される。
禁書庫への接触も、王家の監視下では難しい。
つまり。
「婚約破棄されるのは、むしろ好都合」
誰かに聞こえたら卒倒しそうな発言だが、本当のことだ。
追放された身の方が、自由に動ける。
ただ一つ問題があるとすれば。
アルベルト・フォン・ラングラーフ。
皇太子殿下。
ゲームの攻略対象の中でも、最も攻略難易度が高いルート。
冷静で、聡明で、滅多に感情を見せない。
そして。
先月、公式の場で初めて顔を合わせた時。
彼は私を、じっと見た。
ほんの数秒。
でも、その視線は、まるで値踏みするようで。
それでいて、どこか違う色があって。
「……考えるな」
頭を振る。
アルベルト殿下は、攻略対象だ。
そして私は、その邪魔をしない。
役割をわきまえている。
ただし。
ゲームのシナリオ通りに動いてやる義理もない。
私は悪役令嬢だが。
同時に、前世の記憶を持つ人間でもある。
だから選ぶ。
嫌がらせはしない。
断罪も、できれば穏やかに受け入れる。
そしてその後、この世界を守る。
それが私の、この転生の意味だ。
窓の外、秋の空は高い。
まだ黒くない。まだ、普通の空だ。
私は深く息を吸う。
今日から始めよう。
禁書庫の場所は知っている。
ヴァレンシュタイン家の地下に眠る、血脈にしか開けない扉。
まず、あそこを調べなければ。
立ち上がる。背筋を伸ばす。
鏡の中の少女は、整った顔立ちで、少しだけ目が据わっている。
これが悪役令嬢の顔なら。
「悪くない」
呟いて、部屋を出た。
その夜。
遠く王都では。
皇太子アルベルトが、執務室の窓から空を見上げていた。
先月の公式の場で、婚約者と顔を合わせた。
あの娘の目が、頭から離れない。
令嬢らしく笑っていた。
行儀よく礼をしていた。
完璧だった。
だが。
「あの目は、十歳の目ではない」
側近もいない部屋で、一人ごちる。
何十年も生きてきたような。
重たいものを、全部知っているような。
そんな目。
俺は十三歳だ。
まだ皇太子という立場に慣れていない。
なのに彼女は、すでに何かを知っているように見えた。
「……ただの気のせいか」
窓を閉める。
婚約者のことなど、今は考えるべきではない。
だが。
翡翠の瞳が、なぜかまだ、視界の端に残っていた。




