禁術と忘却の令嬢、そして始まり
それに民衆は無事だ。殿下は無事だ。
この場に残っているのは、自分だけだ。
――なら。
エリシアは砕けた石畳に手をついて、立ち上がった。
よろめきながら、核へ向かう。
一歩。二歩。三歩。
詠唱を始めようとした、その瞬間。
「エリシア!!」
殿下の声だった。
振り返る。
広場の入り口に、アルベルトが立っていた。
騎士団の誰かに引き止められているのか、腕をつかまれている。
それを振り払って、こちらへ走ってくる。
「下がっていてください!」
「断る」
間を置かずに返ってきた。
「殿下、これは禁術です。近づけば巻き込まれ――」
「分かっている」
走ってくる。
止まらない。
「止まってください!死にますよ!」
「俺も同じ気持ちだ」
距離が詰まる。
エリシアは叫んだ。
「何をしているんですかっ、王太子が死んでどうするんですか、国はどうなる、殿下がいなければ――」
「お前がいなければ、俺には関係ない」
その言葉が。
エリシアの声を、止めた。
アルベルトが、目の前に立った。
金の瞳が、まっすぐに自分を見ている。
婚約破棄の夜のような冷たさはなかった。
怒りでも、義務感でもなかった。
ただ。
恐ろしいほど、真剣だった。
「俺が魔力の媒介になる」
低く、落ち着いた声で言う。
「王族の血は、魔力の触媒になる。俺が補助すれば、お前の術式が安定する。それは分かるか」
「分かりますが、それは」
「一人で背負うな」
静かな声だった。
命令ではなかった。
懇願でもなかった。
ただ、当然のことを言っているような声だった。
「お前が選んだように、俺も選ぶ」
エリシアは唇を動かした。
言葉が、出なかった。
黒い雨が降っている。
核が膨張している。時間がない。
でも。
目の前の人が。
「……信じてくれますか」
自分の声は、かすれていた。
「私の術式を。私の選択を。信じてくれますか」
一瞬。
アルベルトは、迷わなかった。
「最初からだ」
その声に。
何かが、ほどけた。
胸の奥の、固く結んでいた何かが。
「……ならば」
エリシアは前を向いた。
術式を展開する。
核へ向かう光の柱を構築する。
その背に、殿下の手が触れた。
温かい手だった。
その瞬間、魔力の流れが変わった。
不安定だった陣が、安定する。
揺れていた光が、形を得る。
強い。これなら届く。
「ありがとうございます、殿下」
エリシアは静かに、詠唱を始めた。
光が、広場を覆った。
白から金へ。金から白銀へ。
核が抵抗する。
悲鳴のように、黒い渦が震える。
だが。
二人分の魔力を持った術式には、勝てない。
黒い渦が、裂ける。
削れていく。
消えていく。
その瞬間、エリシアの視界が白く染まった。
代償が来る。
ほどけていく感触がある。
前世の記憶が、転生の瞬間が、この10年間が。
そして。
アルベルト殿下の声が。
「エリシア、という名の少女がいて」
思い出す。
「金の髪で、強くて、一人で全部背負おうとする、馬鹿な令嬢で」
記憶の中で、殿下が笑っている。
こんな顔をするのか、と思った。
「俺は、その令嬢が、好きだった」
光が。
世界を、覆った。
静寂。
黒い雨が、止んでいた。
空が、青を取り戻していた。
広場の石畳は砕けたままだ。
でも黒い渦はない。核もない。
黒蝕の痕跡が、ゆっくりと消えていく。
遠くで、騎士団の誰かが叫んでいる。
民衆の声がする。
王都は、救われた。
石畳の上で、エリシアは倒れていた。
体が動かない。
指一本、動かせない。
ただ、天を向いて、青い空を見ていた。
青い。
本当に青い。
美しい。
「……ちゃんと、守れたわ」
かすれた声で、呟く。
「――エリシア!!」
誰かが、叫んだ。
走ってくる音がする。
頬に、何かが触れた。
温かい手だった。
「エリシア、エリシア……!」
知っている声だ。
誰の声だろう。
知っているはずなのに。
名前が、出てこない。
「……っ」
恐怖ではなかった。
ただ。
滲んでいく感触があった。
この人の顔を、知っている。
この声を、知っている。
でも。
繋ぐべき記憶が、見つからない。
「起きろ」
震える声。
「ふざけるな。まだ俺は……まだ、許していない」
何を。
何を、許していないのだろう。
「戻ってこい」
沈黙。
「……信じろと言ったのは、お前だろう」
その言葉に。
かすれた息が、出た。
「……信じて」
声が、出た。
「くれましたか」
金の瞳が、見開いた。
「馬鹿者」
震える笑い。
「最初からだと、言っただろう」
エリシアは、目を細めた。
空が、青い。
黒蝕は、もうない。
世界の修正力も、もう自分を排除しようとしていないと分かる。
物語は、終わった。
「……借りは」
かすれた声で、言う。
「返しましたね」
「まだ足りん」
声が、近い。
腕が、包んでくる。
「次は、生きて返せ」
胸の奥で、何かが、ほどけた。
固く結んでいたものが、全部。
悪役令嬢ではない。
英雄でもない。
ただ。
誰かに必要とされた、一人の少女。
エリシアは静かに目を閉じた。
意識が、遠くなる。
温かい。
これが最後でも、いい。
そんなことを、考えた。
意識が戻ってきた。
白い天井だった。
柔らかい場所に、横たわっている。
ここはどこだろう。
知らない部屋だ。
窓から光が差し込んでいる。
カーテンが、風に揺れている。
身体が重い、指先が冷たい。
でも、ちゃんと動く。
ゆっくりと首を動かした。
傍らに、椅子が置かれていた。
そこに、人が座っていた。
銀の髪。金の瞳。整いすぎた顔立ち。
目の下に、青い隈がある。ずっと眠れていなかったのだろう。
その人が、こちらに気がついた。
息を、詰めた。
「……気がついたか」
声が、震えていた。
かすかに。でも、確かに。
エリシアは、その人を見た。
知っている顔だ。
知っているはずの顔だ。
でも。
名前が、出てこない。
「……どなた、ですか」
世界が、止まった気がした。
金の瞳から、色が抜けていく。
指先が、かすかに震える。
「……冗談はよせ」
かすれた声。
エリシアは首を傾げた。
本当に、分からない。
この人を見ていると、胸が苦しい。
胸の奥に、何か熱いものがある。
でも。
名前が、繋がらない。
顔と名前が、繋がらない。
「申し訳ありません。私……」
「そうか」
その人は、目を閉じた。
長い沈黙。
部屋に、風の音だけがした。
やがて、深く息を吐いた。
目を開けた。
金の瞳は、穏やかだった。
痛みを隠した、穏やかさだとエリシアには感じた。
なぜそう感じるのか、分からなかった。
「私はアルベルトだ」
静かに、名乗った。
「この国の皇太子……いや」
一拍。
「今は、ただの男だ」
エリシアは頷いた。
アルベルト。
その名前を、口の中で繰り返した。
初めて聞く名前のはずだった。
なのに。
目から、涙がこぼれた。
「……あ」
自分でも、驚いた。
なぜ泣いているのか、分からない。
「どうして」
拭おうとした。
指先が冷たくて、うまく動かない。
アルベルトが、ゆっくりと手を伸ばした。
エリシアの頬の涙を、指の腹で、丁寧に拭った。
「……どうして、泣いているのだろう」
エリシアは呟いた。
本当に、分からなかった。
アルベルトは何も言わなかった。
ただ静かに、その手のひらをエリシアの頬に当てたまま、目を細めた。
窓の外で、鳥が鳴いた。
空は、青かった。
世界は、静かだった。
そして。
全てを忘れた少女と。
全てを知っている男の。
本当の意味での、出会いが始まった。




