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婚約破棄された悪役令嬢エリシアは、国を救った代償に貴方を忘れました。  作者: テラトンパンチ
プロローグ

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代償、命が削れる音


「いい度胸ね」


 エリシアは血の滲む腕を一瞥してから、前を向いた。

「私は、10年間準備してきたのよ」

 今度は違うやり方で。

 通常の浄化術式ではなく。

 禁書庫で覚えた、ヴァレンシュタイン家本来の浄化術式の一節。

 禁術の断片、最終的な禁術を使う上での「一節だけ」の試用。

 これは禁術ではない。

 だが禁術の入口だ。

 リスクを承知の上で、解放する。

 両手を正面に向ける。


 深く、息を吸う。

 胸の中心から、意識を伸ばす。

 そして光が、変わった。

 白から、金へ。

 温かい光ではなく、焼けるような光。

 その瞬間エリシアは初めて聞いた。

 胸の奥で、何かが燃える音を。

 焦げる音を、削れる音を。

―――

 痛み、とは違う。

 「熱い」とも違う。

 強いて言うなら――消えていく感触。

 砂が少しずつ指の間からこぼれ落ちるような。

 ろうそくが根元から静かに溶けていくような。

 これが「命が削れる」ということか、とエリシアは思った。

 思考は、妙に冷静だった。

 恐怖より先に、理解が来た。


 ああ。これがその感覚か。

 この感覚が、禁術を完全に使えばもっと大きくなる。

 もっと速く。もっと深く。

 それで黒蝕を止めるのか。

 なるほど、そうか。

―――

 金の光が魔獣を包んだ。

 今度は弾かれなかった。


 世界の修正力の残滓が、悲鳴のように歪む。

 だが光には勝てない。

 黒い靄が焼き払われ、魔獣の体から黒が消えていく。

 しばらくして、三頭目も、静かに普通の鹿の姿に戻った。

 混乱したように湖面を見つめ、やがて森へ駆けていく。

 エリシアは掌を下ろした。


 足元が、ふらついた。

 草の上に、片膝をつく。

 視界が揺れる。指先の冷たさが、肘まで上がってきている。

「大丈夫」

 自分に言い聞かせる。

「大丈夫よ。これくらい」

 これくらい、だ。

 禁術の断片一節で、この程度。

 全部を使えば、どうなる。

 ……考えない。考えてどうする。


 それでも国を救えるなら、それでいい。

 ゆっくりと立ち上がる。

 湖面を見る。

 波が、穏やかになっている。

 黒い靄はない。空気が少し、軽くなった気がした。

 その時。

 「エリシア様――!!」


 村の方向から、子どもの声がした。

 振り返ると、五歳か六歳くらいの女の子が、村長に手を引かれながら走ってくる。

 途中で振り払って、一人で駆けてきた。


 茶色い髪。土のついた頬。大きな目が、エリシアをまっすぐに見ている。

「エリシア様がやっつけてくれた!ラナ見てた!すごかった!」

 息を切らしながら、飛びついてくる。


 エリシアは思わず、その小さな体を受け止めた。

 怪我した腕に体重がかかって、鋭い痛みが走る。

 だが。

 笑っていた。

「ラナ、エリシア様が傷ついてる!」

 抱きついたまま、女の子――ラナが声を上げる。

「腕から血が出てる!痛い?」

「大丈夫よ。少しだけ」

「少しじゃない!いっぱい出てる!」

 そう言って、ラナはエリシアの怪我した腕に自分のハンカチを押し当てた。

 小さくて汚れた、でもしっかり縫われたハンカチ。

 エリシアは目を細めた。


「……ありがとう」

「エリシア様がありがとうって言うのはおかしいの!ラナたちを助けてくれたのに!」

 ラナは怒ったような顔で言う。

 それから、おずおずと上を向いた。

「ラナ、エリシア様は帰っちゃうんでしょ……?また黒いやつが来たら、どうすればいいの?」

 子どもらしい、真っ直ぐな問いだった。


 エリシアは膝をついた。ラナと、目線を合わせる。

「来ないわ」

「でも」

「私が止めるから。黒いやつが来ないように、ちゃんとする」

「……約束?」

 エリシアは少し、間を置いた。

 約束。


 なんという重い言葉だ。

 もし自分が忘れたら。

 もし自分が消えたら。

 この子は、約束を待ち続ける。

 それでも。

 この目を見て、嘘をつけるほど、私は器用ではない。

「約束」


 ラナが、ぱっと顔を輝かせた。

 その笑顔に、胸の奥が熱くなる。

 こんな顔のために、戦うのだ。

 こんな笑顔を守るために、命を削るのだ。

 それは理屈ではなかった。

 計算でもなかった。

 ただ、そう思った。



 屋敷に戻ったのは、昼過ぎだった。

 腕の傷はラナのハンカチで止血し、村の薬師に縫ってもらった。三針。大したことはない。


 問題は、指先の冷たさがまだ取れていないことだ。

 禁術の断片一節の使用で、この程度の消耗が残る。

 本番は、比べものにならない。

 自室に戻り、エリシアは椅子に腰を下ろした。

 窓から、湖が見える。


 水面に、西日が映っている。

 赤い光が、波に揺れて溶けていく。

 美しい。

 本当に美しい。

 この景色を、見続けられるだろうか。

 禁術を使った後、記憶を失った後。

 エリシアという人間は、この景色の何を感じるだろう。

 同じように、綺麗だと思うだろうか。

 同じように、胸が少し痛くなるだろうか。

 ……分からない。


「ねえ」

 窓に向かって、呟く。

 誰もいない。答えない。

「忘れても、私は私でいられるかな」

 術式の意志は言った。

 記憶が失われても、人格は消えない、と。

 本質は残る、と。


 でも。

 記憶のない自分は、本当に自分なのか。

 10年間の思い出がない自分は。

 あの夜会の夜を知らない自分は。

 扉を閉める直前に聞いたかもしれない、あの声を知らない自分は。

「……エリシア」

 思い出す。

 聞こえた気がした声。

 ただの幻聴かもしれない。


 でも。

 あれが幻聴でないなら。

 あの人は、追放した相手の名を呼んだ。

 それが何を意味するのか、考えるのが怖くて、ずっと蓋をしていた。

 エリシアは目を閉じた。

「……好きでしたよ、殿下」

 声に出したのは、初めてだった。


 10年間、一度も言わなかった言葉。

 言えるわけがなかった。悪役令嬢が、皇太子に恋をするなんて。

「ゲームの中の攻略対象に恋をするなんて、馬鹿みたいでしょう」

 自分で笑う。

「でも。本物だったと思う」

 胸が、じわりと痛む。

 これも、やがて消える感情だ。


 禁術を使えば。

 この痛みも、この温かさも、全部なくなる。

 それでいい。

 そう決めた。

 分かっている。

「……ありがとう」

 窓の外の空に向かって、低く告げた。

 遠い王都の方向。


「好きになれた思い出は、私の宝物だった。たとえ忘れても、私の一部だったことは変わらないから」

 西日が、沈んでいく。

 赤い空が、少しずつ紫に変わる。

 その端の方。

 東の空に、ほんの微かな黒い濁りが見えた。


 昨日より、少し大きい。

 エリシアはそれを見て、静かに立ち上がった。

 椅子を引く。机に向かう。

 羽ペンを取り、紙を広げる。

 発動の条件と時期を計算しなければならない。


 黒蝕の進行速度と、自分の現在の魔力。

 術式に必要な最低限の条件。使用可能なタイミングの窓。

 感傷は終わり。

 今は計算だ。

 ペンが、紙を走る。

 窓の外で、夜が始まる。


 その夜の向こうで、命の砂時計は、静かに続きを刻んでいた。

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