黒蝕の足音
朝の領地は、静かだ。
王都の朝とは違う静けさ。
あちらは「喧騒が始まる前の静けさ」だが、こちらは「生き物たちが息をしている静けさ」だ。
森から鳥の声がする。
湖が朝風に揺れる音がする。遠くで牛が鳴く声がする。
エリシアは厩舎の前に立ち、愛馬の鼻筋を撫でた。
鹿毛の牝馬。名前はルーナ。
王都の屋敷から連れてきた、数少ない「自分のもの」の一つだ。ルーナはエリシアの手のひらに顔を押しつけ、大きな目で見上げてくる。
「今日も行くわよ」
低く告げると、ルーナが鼻を鳴らした。
領地に戻ってから、五日が経っていた。
その五日間で、
エリシアは領地全体の魔力の流れをほぼ把握した。
元々、ヴァレンシュタイン家には古い資料が多い。
代々の当主が記録してきた魔力観測の記録が書庫に眠っており、それらを読み込めば現在の異常がどの程度かを測れた。
結論は、単純だった。
‥悪化している。
ゆっくりと、しかし確実に。
まるで水に垂らした墨のように、黒蝕の影響が領地全体に滲み始めている。
三日前に禁書庫の術式に触れてから、エリシアにはそれが見えるようになった。
空気の歪み。魔力の濁り。
本来は清澄であるべき流れが、所々で乱れている。
その乱れが最も強い場所へ、毎日足を運んでいる。
様子を確認するために。
そして――いざという時のために、浄化の練習も兼ねて。
「お嬢様」
家令のホルストが、小走りで近づいてくる。
八十近い老人のくせに、なぜかいつも早足だ。
息を切らしながら、申し訳なさそうな顔をしている。
「南の湖畔の村から使いが参りました」
「魔獣ですか」
「は、はい……お嬢様がすぐお分かりになるとは思っておりましたが」
「昨日から南側の魔力が乱れていたもの。行きます」
ルーナに鞍を置きながら、エリシアは頭の中で状況を整理した。
南の湖畔村は、領地の中でも最も古い集落の一つだ。農業と漁業で生計を立てている小さな村で、住民は百人ほど。
魔力の流れが乱れやすい湖の近くにあるため、元々は定期的に王家の騎士団が巡回していたはずだが、今の自分の立場でそれを要請するわけにはいかない。
自分で行く、それしかない。
「お嬢様、護衛をお連れください。せめてわたくしが」
「ホルストは屋敷にいて。何かあった時に対応できる人間が必要だから」
「しかし」
「大丈夫です」
振り返って、微笑む。
老人の目が、泣きそうになる。
エリシアはそれ以上何も言わずに、ルーナに飛び乗った。
村に着いたのは、出発から一時間ほど。
石造りの家が十数軒、湖畔に寄り添うように並んでいる小さな集落。
村の入り口に差し掛かった瞬間、空気が変わった。
‥重い。
魔力が濁っている。
鼻の奥が微かにひりつく。これは昨日観測した乱れより、ずっと強い。
一晩でこれほど悪化したのか。
村人たちが家の陰に隠れながら、こちらを見ていた。子どもたちが、大人の服の裾を握りしめている。
「エリシア様……!」
村長らしき壮年の男が、震える声で駆け寄ってくる。顔が青い。
「湖の方に、おかしな獣が。朝から三頭ほどが村の周辺をうろついていて、近づくものを見境なく――先ほど、若い衆が一人、腕に怪我を」
「怪我人は今どこに」
「家の中に。命に別状は……ただ、傷口が黒く」
黒く。
エリシアは馬から飛び降りた。
「怪我人の傷は後で診ます。まず魔獣を」
「し、しかしお嬢様お一人では」
「一人で十分です」
断言して、湖の方向へ走る。
背後で村長が何か言っているが、聞こえないふりをした。
湖畔は、美しかった。
朝の光が水面に反射して、きらきらと輝いている。葦が風に揺れ、遠くで水鳥が鳴く。
その美しい景色の中に、それはいた。
鹿だった。
いや、鹿だったものだ。
三頭。本来の大きさの倍以上に膨れ上がり、皮膚の下で黒い血管が透けて見えている。
角が通常の四本ではなく、七本、八本と歪に増殖している。眼球が黒く染まり、焦点が合っていない。
低く、唸っている。
あれは、もう普通の動物ではない。
黒蝕の魔力に侵された魔獣。
体内で魔力が暴走し、生物本来の姿を歪めている。
苦しいはずだ。暴れているのは、その苦しさから逃れようとしているからだ。
「……可哀想に」
エリシアは小さく呟いた。
悪者ではない。巻き込まれた命だ。
だから、ちゃんと救う。
浄化して、元の姿に戻す。殺すのではなく。
一頭が、こちらに気づいた。
黒い眼球がエリシアに向く。低い唸り声が大きくなる。地面を掻く蹄が、土を抉る。
突進してきた。
エリシアは動じなかった。
右手を掲げ、意識を集中する。
浄化の光――禁術ではない。
日常的な浄化術式。しかし最大出力で。
掌に白い光が集まる。温かい。眩しい。
魔獣が跳躍した。
その瞬間に合わせて、光を解き放った。
白い光が魔獣の全身を包む。
「ギャアアアッ」
悲鳴のような声。
魔獣が身をよじり、暴れる。黒い靄が、体表から煙のように立ち上る。
エリシアは光の出力を維持した。
腕が痛い。頭の奥に、鈍い頭痛が走る。魔力消耗だ。これくらいは想定内。
やがて。
光が弾けた。
黒い靄が散る。
魔獣が、地面に崩れ落ちた。
しばらく動かない。
そして、ゆっくりと。
体が縮んでいく。余分な角が溶けていく。
皮膚の下の黒い血管が消えていく。眼球の黒が薄れ、本来の琥珀色が戻ってくる。
普通の鹿だった。
混乱したように周囲を見回し、やがて森の方向へ走り去る。
エリシアは息を吐いた。
残り、二頭。
二頭目は、一頭目より大きかった。
浄化に要した時間も長く、エリシアは浄化が終わった瞬間に膝をついた。
頭痛が増している。指先が、少し冷たい。
立ち上がる、問題ない。まだ動ける。
三頭目は、湖の縁にいた。
水の中に半身を浸し、黒い靄を周囲に撒き散らしながら低く唸っている。
近づくと、空気が一段と重くなる。
目の前の湖面が、触れた黒い靄で瞬時に変色する。
これが一番大きい。一番深く侵されている。
エリシアは立ち止まり、対象を観察した。
浄化術式の光をどの方向から当てれば最も効率がいいか。どの程度の出力が必要か。自分の残魔力で賄えるか。
問題ない、と判断した。
掌を掲げる。
白い光が集まる。
その瞬間。
三頭目の魔獣が、こちらを向いた。
黒い眼球が、まっすぐにエリシアを捉える。
他の個体と違う。
焦点が、合っている。
知性がある。
侵されながらも、何か意志のようなものを持っている。
違和感が走った瞬間に、魔獣が動いた。
跳躍ではなく、突進。地面を低く這うような姿勢で、猛スピードで距離を詰めてくる。
エリシアは光を放った。
ぶつかった。
衝撃が、身体を打つ。白い光と黒い靄がぶつかり合い、爆発のような衝撃波が広がる。地面が揺れる。湖面に波が立つ。
だが。
光が、弾かれた。
「……っ」
初めての経験だった。
浄化術式が、弾かれた。
魔獣が止まらない。
残りの距離を一気に詰めてくる。
エリシアは横に飛んだ。転がる。
泥が外套を汚す。
立ち上がろうとした瞬間に、角が横を掠め、外套の端が裂ける。
鋭い痛み。腕だ。深くはない。だが確かに切れた。
血の匂い。
魔獣の動きが、一瞬止まった。
こちらの血に、反応した。
そして。
黒い眼球の奥に、何かが宿った。
意志ではない。
命令だ。
排除対象、と言っている目だ。
「……世界の修正力?」
エリシアは立ち上がりながら、低く呟いた。
黒蝕は単なる魔力暴走ではない。
物語の歪みが生み出した残滓だ。
そしてその残滓の中に、シナリオから逸脱した存在を「排除」しようとする意志が混じっている。
自分は、逸脱者だ。
転生者であり、悪役令嬢でありながら禁書庫に触れ、命を救おうとしている。
世界はそれを、許さない。




