一つの見解
学院の二年目も、冬になった。
窓の外に、白いものが舞い始めていた。
雪だ。
初雪を見るたびに、前世のことを少し思い出す。
アパートの窓から、同じような雪を見ていた記憶。
あの時は一人だった。
今も一人で窓の外を見ているが。
廊下には、ゼファーがいる。
隣の部屋には、クレアがいる。
少し離れた場所には、マリアがいる。
同じ「一人」でも、全然違う。
「エリシアさん」
扉をノックする音がして、マリアの声がした。
「どうぞ」
「クロード先生から、今日話したいことがあると伝言がありました」
心臓が、少し跳ねた。
「分かった。ありがとう」
研究室の扉を叩いた。
「どうぞ」
入ると、クロード教授は窓際に立っていた。
いつもの猫背ではなく、少し背筋が伸びていた。
珍しい。
「座りなさい」
私は椅子に座った。
教授は振り向かないまま、外を見ていた。
「今日、話します。代償の詳細を」
静かな声だった。
「……はい」
「長い話になります。聞く準備はできていますか」
「できています」
教授が振り向いた。
眼鏡の奥の目が、いつもより真剣だった。
「この話を聞いた後、あなたの気持ちが変わるかもしれない。それでも聞きますか」
「変わりません」
「断言できますか」
「できます」
少し間があった。
教授が椅子に座った。
「……始めます」
「禁術の代償について、通説では『最も大切なものを失う』とされています」
「はい。書物でそう読みました」
「それは、半分正しくて、半分間違っている」
教授が机の上に、資料を広げた。
「俺の六年間の研究で辿り着いた結論は、こうです」
「術式が選ぶのは、使用者が失っても前に進めるものだ」
聞いたことがある言葉だった。
「最も大切なものを失えば、人は壊れます。術式は人を壊さない。使用者が生きていけるように、ギリギリの部分を選ぶ」
「……ギリギリの部分、」
「ええ、あなたにとって、失っても前に進める、でも失えば深く傷つくもの。そこを、術式は選びます」
静かな研究室に、言葉が落ちた。
私は少し間を置いた。
「つまり、失うものは私の中で最も大切なものとは限らない。でも、ひどく大切なものを失う」
「そうです」
「どちらが辛いか、分からないですね」
教授が少し目を細めた。
「……よく言えますね、それを」
「事実だから」
「普通は取り乱します」
「今は取り乱しません、今は聞かせてください」
教授は少し間を置いてから、続けた。
「もう一つ、重要なことがあります」
「なんですか」
「代償は、一つとは限らない」
今度は、心臓が強く跳ねた。
「……一つとは限らない?」
「黒蝕の規模によります。今の観測値の拡大ペースだと、術式が必要とするエネルギーは、通常より大きい」
「それは、代償が大きくなるということですか」
「そうです。最悪の場合、複数の核が削られる可能性があります」
複数。
前世の記憶と、今世の知識と、誰かへの感情。
その中の、一つではなく、複数。
「……具体的には、何と何ですか」
「それは分かりません。術式が決めます。ただ」
教授が、机の資料を一枚取り上げた。
「マリア・ルーチェの浄化と合わせれば、代償を軽減できる可能性があると、二人で研究していましたね」
「はい」
「その研究は、続けてください」
「続けています」
「今の計算では、聖女の浄化と禁術を組み合わせることで、代償を一つに抑えられる可能性があります」
一つ。
複数から、一つ。
「……どのくらいの確率ですか」
「五割を少し超えるくらい」
五割。
半分。
「残り半分は、複数になる」
「はい」
少し間があった。
「……それでも、やります」
静かに言った。
教授は黙っていた。
「もう一つ、聞かせてください」
「なんですか」
「失った記憶や感情は、戻りますか」
教授が少し眉を動かした。
「何年かで……稀に、戻ることがあります。ほとんどの場合は戻らない」
「稀に戻る条件は」
「失ったものと同じくらい強い感情が、新たに生まれた時。同じ体験を繰り返した時」
少し考えた。
「つまり、失っても完全に消えるわけではない。きっかけがあれば、戻る可能性がある」
「可能性です。保証はない」
「それで十分です」
教授が、少し困ったような顔をした。
「……どうして、そんなに穏やかでいられるのですか」
「穏やかではありません」
正直に言った。
「ただ、今は聞くことに集中しているだけです……その後のことは、一人になってから」
少し間があった。
教授がため息をついた。
「最後に一つだけ言います」
「はい」
「俺は、あなたに生きてほしいと思っています」
意外な言葉だった。
「研究者として?」
「研究者として、ではなく」
教授が眼鏡を押し上げた。
「一人の人間として、です。あなたは、失った後も生きていく。それを覚えておいてください」
「……先生」
「なんですか」
「ありがとうございます。先生が慎重でいてくれたことも、時間をかけてくれたことも、全部」
教授は少し、目を逸らした。
「……感謝されるほどのことはしていません」
「していると、私は思っています」
また少し間があった。
「研究者として言えば、失った後のあなたの状態を観察したいとも思っています」
「先生らしい言い方ですね」
「それが本音でもあります」
「分かっています」
私は立ち上がった。
礼をした。
深く。
「‥‥」
教授は少し、口の端を動かした。
笑ったのかもしれない。
確認できなかった。
「気をつけて帰りなさい。雪が積もっている」
「はい」
扉を開けた。
廊下に出た。
廊下は静かだった。
ゼファーが、少し離れた場所に立っていた。
「終わりました」
「顔色が悪い」
「そうかもしれない」
「何があった?」
「……少し、大事な話を聞いた」
ゼファーは私を見た。
「今夜は早く休め」
「そうします」
馬車に乗った。
ゼファーと二人で、雪の中を走った。
ゼファーは何も聞かなかった。
私も何も言わなかった。
でも。
それが今夜は、ちょうどよかった。
寮の部屋に戻った。
扉を閉めた。
窓の外では雪が降り続いている。
ベッドに座った。
何を待っていたのか、自分でも分からない。
覚悟が整うのを、待っていたのかもしれない。
整ったかどうかも、分からない。
でも。
気づいたら、泣いていた。
声は出さなかった。
ただ、涙が伝った。
前世の記憶と、今世の知識と、殿下への感情と。
そのどれか、あるいはどれもが。
消えるかもしれない。
それが。
怖かった。
覚悟している、と言った。
今も、やめるつもりはない。
でも怖い。
今夜も、怖くていい。
泣いていい。
一人の夜だから。
そしてしばらく泣いた。
目を拭って、窓の外を見た。
雪が積もっている白い世界。
きれいだ、と思った。
怖くても、きれいだと思える。
それが今夜の、私の答えだ。
「……殿下」
声に出した。
届かない距離で。
「あなたへの気持ちを失っても、あなたが生きている世界があれば、私は前に進める」
自分に言い聞かせた言葉を、もう一度確認する。
「でも」
続けた。
「失う前までは、全力で好きでいます」
そう言ったから。
今夜も、全力で好きでいる。
泣きながら、好きでいる。
それが、今の私のできることだ。
翌朝。
目が少し腫れていた。
侍女もいないし、クレアも今日は来ない。
冷たい水で顔を洗った。
鏡を見た。
昨夜泣いた跡が、少し残っている。
でも、目の奥は静かだった。
着替えて、扉を開けた。
廊下にはいつも通りゼファーがいた。
「おはようございます」
「ああ」
ゼファーが少し私を見た。
何かを言いかけた気がした。
でも言わなかった。
代わりに、一歩引いて、三歩後ろについてきた。
いつも通りの距離。
でも。
今朝は、少し心強かった。
授業の前に、マリアに会った。
少し廊下の端で話した。
「聞きました」
「教授から?」
「はい。詳細を話してくれた、と」
私は頷いた。
「……研究を続けます」
マリアが真っ直ぐ言った。
少し間があった。
「マリア」
「はい」
「一緒に研究を続けてくれることが、本当に心強い」
「私の方こそ、エリシアさんがいるから、私も諦めないでいられます」
二人で少し黙った。
廊下を、他の生徒たちが歩いていく。
普通の朝だ。
授業があって、昼食があって、放課後があって。
普通の一日が続く。
その普通の一日を、私は大切にしようと思った。
失う前に、全力で生きる。
それが今の、私の答えだ。
(クロードside)
エリシアが帰った後、研究室に一人で残った。
窓の外で、雪が降り続けている。
今日の話を、彼女はどこまで受け止めたのか。
今夜、一人で泣いているだろうと思う。
泣いていい。
泣いた後に、また立ち上がる人だと知っているから。
六年間、禁術の研究をしてきた。
代償の詳細を、これだけ詳しく伝えたのは初めてだ。
研究者として、知識を渡すことが正しかったかどうか、まだ分からない。
でも。
知らないままやることの方が、ずっと危険だった。
彼女は、知った上で選ぶ人間だ。
それだけは、最初から確信していた。
「……生きていろよ」
独り言が、静かな研究室に落ちた。
聞こえる相手はいない。
でも言わずにいられなかった。
失った後も、生きていろ。
それが俺の、今夜の願いだ。




