ゼファーが護衛でいるわけ
魔法学院の実験棟は、校舎の一番奥にある。
高い天井。
石造りの厚い壁。
魔法陣が床に刻まれた、広い実験室。
上級生の魔法実験が、そこで毎週行われている。
私には直接関係のない場所だった。
その日の午後まで。
廊下を歩いていた。
授業が終わり、図書室へ向かう途中だった。
クレアとマリアと三人で、授業の内容を話しながら歩いていた。
その時。
実験棟の方から、音がした。
低い振動音。 それから、甲高い叫び声。
廊下の空気が、一瞬変わった。
魔力の乱れを、皮膚で感じた。
「……これは」
言いかけた瞬間。
実験棟の扉が、勢いよく開いた。
中から、何かが飛び出してきた。
黒い靄のようなもの。
形が定まらない。
でも、明確な意志を持って動いている。
魔力暴走した実験体だ。
小型だが、密度が高い。
直接触れれば、魔力汚染を受ける。
「下がって」
クレアとマリアに言った。
掌に浄化の光を集める。
だが実験体は、私の方向に来なかった。
クレアの方へ、向かった。
「クレア!」
声が出た。
次の瞬間。
ゼファーが動いた。
いつも通り、誰より速く。
クレアとゼファーの間に入って、実験体を腕で受けた。
‥違う、受けたのではない。
腕で、実験体を掴んだ。
素手でそのまま、床に押し付けた。
「浄化を」
低い声が言った。
私はすでに走っていた。
光を、ゼファーが押さえた実験体に向けて放つ。
白い光が黒い靄を包む、数秒の拮抗。
それから、靄が霧散した。
廊下が、静かになった。
クレアが震えていた。
マリアが支えた。
「大丈夫ですか」
「は、はい……びっくりして」
「怪我は?」
「ないです」
私はゼファーの方を向いた。
彼は立ち上がって、腕を確認していた。
右腕の袖が、少し焦げていた。
皮膚が、赤くなっている。
「ゼファー」
「問題ない」
「問題あるわよ」
私は近づいた。
「腕を見せて」
「大したことはない」
「見せてと言っています」
少し間があった。
ゼファーが腕を差し出した。
赤くなっている。
水ぶくれが一か所ある。軽い火傷程度、でも。
「浄化で少し和らげられる。動かないで」
小さく光を集めて、患部に当てる。
赤みが、少し落ち着いた。
「……ありがとう」
ゼファーが短く言った。
「礼はいい」
言いかけて、止めた。
違う今日は、言いたいことが別にある。
クレアとマリアを先に帰した。
大丈夫だと確認してから、二人を見送った。
廊下に、ゼファーと二人が残った。
「ゼファー」
「なんだ」
「少し聞いていいですか」
「どうぞ」
少し間があった。
「なぜ、あなたはいつもそうするの」
ゼファーが少し間を置いた。
「いつも、とは」
「遠足でリュカを助けた時。今日、クレアを庇った時。自分が傷つくかもしれなくても、迷わずに動く」
「護衛の仕事だから」
「リュカは護衛対象ではなかったでしょう」
「……そうだが」
「クレアも、護衛対象は私だけのはず」
ゼファーは少し黙った。
私は続けた。
「あなたは、護衛対象以外の人間のことも、同じように体が動くのね」
「……癖かもしれない」
「癖」
「誰かが危険な場所へ向かっているのを見ると、止めずにいられない」
少し間があった。
「それは、護衛の訓練で染み込んだものですか」
「訓練だけではないかもしれない」
「どういう意味」
ゼファーが、珍しく少し考える顔をした。
「……昔、間に合わなかったことがある」
声が、少し変わった。
私は黙って聞いた。
「弟が、川に落ちた。俺がもう少し早く動いていれば、間に合った。でも間に合わなかった」
「弟さんは」
「助かった。別の人間が助けてくれた」
少し間があった。
「それから、俺は訓練を始めた。もう間に合わなかったとは言いたくないから」
静かな廊下に、声が落ちた。
私は少し、胸が痛んだ。
「……それが、騎士になった理由ですか」
「一つの理由だ」
「もう一つは」
「あなたの護衛を志願した時に言った。適任だと思ったから」
「それだけ?」
「……今は、もう一つ増えた」
私は少し首を傾けた。
「なんですか」
「傍にいたいと思う人間の傍にいられる仕事だから」
廊下が、静かだった。
風が、窓の隙間から入ってくる。
私は少し間を置いた。
「傍にいたい人間、というのは」
「護衛対象を含む、複数の人間だ」
答えになっているような、いないような。
でも、ゼファーにしては長い答えだった。
「……ゼファー」
「なんだ」
「今日、ありがとう」
「礼はいいと言った」
「私が言いたいから言う」
少し間があった。
「クレアが傷ついていたら、私は後悔していた」
「クレアだけではなく、あなたも危なかった」
「私は自分で浄化できる。でもクレアは」
「だから動いた」
それだけだった。
シンプルな答えだった。
だから動いた。
それが、この人の全部なのかもしれない。
「ゼファー、一つ頼んでいいですか」
「なんだ」
「自分が傷つくことを、もう少し惜しんでください」
ゼファーが少し目を細めた。
「惜しむ、とは」
「あなたが傷つくと、私が困る」
「なぜ」
「護衛がいなくなると困るから、ではなくて」
少し間があった。
「友人が傷つくと、困るから」
ゼファーは少し黙った。
長い沈黙だった。
「……友人」
「そう呼んでいいでしょう。前に『友達にしてあげようか』と言ったら『考えておく』と言っていた」
「考えた」
「結論は」
「……友人で、いい」
初めて、自分から言った。
私は少し笑った。
「ならば友人として言う。自分を大事にしてください」
「……善処する」
「善処ではなく、してください」
「……分かった」
珍しく、押し切られた。
ゼファーが少し困った顔をした。
初めて見る顔だった。
帰り道。
いつも通り、ゼファーが三歩後ろを歩いていた。
でも今日は、少し距離が近い気がした。
気のせいかもしれない。
「ゼファー」
「なんだ」
「弟さんは、今どうしているの」
「故郷にいる。元気だと思う」
「思う、というのは」
「手紙が来ない」
「手紙を書かないから?」
「書かない」
「なぜ」
少し間があった。
「……書き方が分からない」
意外な答えだった。
「手紙の書き方が分からないの」
「文章を書くのが、苦手だ」
「剣は得意なのに」
「……剣と文章は、違う」
それはそうだ。
でも少し、おかしかった。
「今度、手紙を書く時は言いなさい。添削します」
「……いい」
「良くない。弟さんに手紙を書きなさい」
「なぜ令嬢にそこまで言われなければならないのか」
「友人だから」
少し間があった。
「……考えておく」
「また考えておく。今度はそれで押し切れないわよ」
「……分かった」
ゼファーが、かすかにため息をついた。
でも嫌がっている感じではなかった。
私は少し笑った。
夕方の光が、長い影を作っている。
空が、少し赤い。
今日は色々あった日だった。
でも最後にこうして歩いていると。
悪くない一日だったと思えた。
(ゼファー視点)
今夜、初めて弟に手紙を書いた。
短い手紙だった。
「元気か。俺は元気だ。ヴァレンシュタイン領から王都へ。今は学院の護衛についている。変わったことがあったら書く。」
それだけだった。
令嬢には「添削します」と言われていた。
見せるかどうかは、まだ決めていない。
でも書けた。
それだけで、少し、何かが変わった気がした。
弟が川に落ちた日から、ずっと抱えていた何かが少し、軽くなった気がした。
窓の外を見た星が出ている。
弟も同じ星を見ているだろうか。
次は、もう少し長い手紙を書こうと思った。
翌日。
ゼファーが無言で手紙を差し出してきた。
「……添削、お願いしてもいいか」
私は少し驚いた。
受け取って、読んだ。
短い、とても短いでも。
一文一文に気持ちを感じた。
「直すところはないわ」
「そうか」
「強いて言えば、もう少し書いてもいい」
「何を」
「最近、面白かったこととか」
「面白かったこと」
「あなたの日常を、弟さんは知りたいと思う」
ゼファーが少し考えた。
「……リュカが崖から落ちかけた話は」
「それは驚かせすぎかもしれない」
「では何を」
「令嬢が夜中に地下に降りる護衛をしている、くらいなら」
ゼファーが少し間を置いた。
「……それを書いたら、心配されないか」
「されるかもしれない。でも、あなたの話を知れて嬉しいと思う」
また少し間があった。
「……分かった。書いてみる」
手紙を受け取って、立ち去ろうとした。
少し足が止まった。
「令嬢」
「なに」
「……ありがとう」
また短い礼だった。
でも、今日は少し違う。
「どういたしまして」
私は笑った。
ゼファーは頷いて、歩いていった。
三歩後ろに、戻っていった。
いつも通りの距離。
でも。
昨日より、少し違う距離のような気がした。




