追放された悪役令嬢
王都を出る馬車の中で、エリシアはずっと窓の外を見ていた。
石畳の道が、砂利道に変わる。
砂利道が、森の中の獣道に変わる。馬車が揺れるたびに、シートに縫い付けられた刺繍の金糸が鈍く光る。
出発前に侍女たちが荷造りをしてくれた旅行鞄には、最低限の衣類と薬草と、小さな護身用の短剣が入っている。
宝石は持ってこなかった。
ドレスも、一着だけ。
悪役令嬢には、ちょうどいい身軽さだと思った。
王都の城壁が遠ざかる。
尖塔が、木々の隙間から見え隠れする。
(あの城の中に、殿下がいる。)
――やめろ。
エリシアは目を閉じた。
考えるな。感傷は後だ。
今は役目に集中しろ。
そう言い聞かせても、昨夜の光景が瞼の裏に浮かぶ。
シャンデリアの光、静まり返った夜会場。
そして彼の金の瞳。
最後に見た顔が、どうしても消えない。
冷たい皇太子の顔ではなかった。
整いすぎた表情の奥に、一瞬だけ滲んだ何か。
それが何なのか、言葉にできなかった。
「……関係ない」
小さく呟いて、エリシアは目を開いた。
窓の外。森が深くなっていく。
王都から遠ざかるにつれて、空気が変わる。
魔力の流れが澄んでいく。
この国の自然は美しい。
守る価値がある。
それだけで、十分だ。
ヴァレンシュタイン家の領地に到着したのは、馬車で三日かかった後のことだった。
小高い丘の上に建つ古い屋敷。
白い外壁は年月に苔むして、蔦が窓枠を這い上がっている。
広大な湖が屋敷の裏手に広がり、森がそれを取り囲んでいた。王都の華やかさとは無縁の、静かな場所。
だが、エリシアはこの屋敷が嫌いではなかった。
むしろ幼い頃から、この場所だけが好きだった。
誰も期待しない。
誰も採点しない。
ヴァレンシュタイン公爵令嬢である前に、ただ「エリシア」でいられる場所。
「お嬢様、お戻りをお待ちしておりました」
出迎えた家令のホルスト老人は、目に涙を溜めていた。長い白いひげが風に揺れる。
追放の知らせはすでに届いていたのだろう。
深く皺の刻まれた顔が、申し訳なさそうに歪んでいた。
「ホルスト、泣かないで。私は元気です」
エリシアは微笑んで、老人の節くれだった手を両手で包んだ。
「それに――ここに戻ってきたかったのは、本当のことなのよ」
嘘ではなかった。
王都の夜会より、この屋敷の夕暮れの方が、ずっと呼吸が楽だった。
その夜。
エリシアは一人で屋敷の奥へ向かった。
燭台を手に、長い廊下を歩く。
奥の奥。書架が立ち並ぶ資料室の、さらに奥。
床の一部が、他と微妙に色が違う石畳。
幼い頃に偶然見つけた場所だった。
(正確には、転生前の記憶から見つけ出した場所だけど)
石畳の継ぎ目に指を入れ、引き上げる。
下に向かって続く、古い石段。
湿った空気が上がってくる。
黴と土と、それから、何か別のもの。
魔力と血の臭いがする。、
燭台を掲げ、降りていく。
十段。二十段。三十段。
段を下るたびに、温度が下がる。
壁に滲む水気が、炎の光を反射してぼんやりと輝く。
そして。
重厚な鉄扉が現れた。
高さは二メートルほど。幅も相当ある。
錠前も把手もない。ただ、扉の中央に一つだけ、手のひらほどの大きさの窪みがあった。
エリシアは燭台を足元に置き、右手の人差し指の先端をドレスの内側に隠した短剣で、ためらいなく切った。
薄い線。すぐに赤い珠が浮かぶ。
血の滲んだ指先を、窪みに押し当てる。
しばらく、何もない。
次の瞬間――窪みが、薄く光った。
かちり、と音がした。
機械仕掛けとは違う。鍵の開く音というより、何かが「認める」音に近かった。
扉が、内側からゆっくりと開いていく。
禁書庫は、想像よりも広い。
石造りの円形の空間。直径は二十メートルほど。
壁一面に古い書架が並んでいるが、本は数えるほどしかない。大半は「読むもの」ではなく、「封じるもの」のようだった。
いびつな形の結晶や、鎖で縛られた箱や、黒い布で包まれた何か。
だがエリシアの目は、それらには向かなかった。
部屋の中央。
床一面に、刻まれていた。
魔法陣。直径五メートル近い巨大な紋様。
細い線が無数に絡み合い、中心に向かって収束している。古い。非常に古い。
石が磨耗して、線の一部が掠れている場所もある。それでも、全体の輝きは失われていなかった。
陣の周囲を、ゆっくりと歩く。
一周してから、膝をついて細部を確かめる。
前世の記憶と照合する。攻略本のインタビュー記事で語られた「黒蝕を浄化する術式」の断片的な説明と、目の前の紋様が一致していく。
「……本物だ」
静かに、呟いた。
分かってはいた。10年間、分かっていた。
でも実物を目の前にすると、違った。
これが現実なのだと、骨の髄まで理解させられる。
エリシアは深呼吸して、右手を陣の外縁に触れた。
瞬間。
視界が白く弾けた。
―――
焼けるような痛み。
頭の奥に、誰かの声が響く。
言葉ではない。
感覚として、直接流れ込んでくる。
《浄化の者よ》
古い、古い意志の残滓。
《汝は知るか。この術の代償を》
知っている、とエリシアは心の中で答えた。
命が削れる。寿命が縮む。最悪の場合、発動と同時に死ぬ。
《否》
声は静かに否定した。
《命のみが代償ではない》
《汝が「知ること」もまた、代償となる》
《汝の持つすべての知識。汝が積み重ねた記憶。汝が愛したものの記憶さえも――》
《この炎の薪となる》
エリシアの体が、凍りついた。
記憶、前世の記憶、ゲームの知識。
この10年間の記憶。
そして――。
殿下の顔が、浮かんだ。
冷たい金の瞳。婚約破棄の夜に見た、一瞬の揺らぎ。
「今まで、ありがとうございました」と告げた時の、背中越しに感じた沈黙。
《汝が彼を愛した記憶もまた》
《薪となる》
「――っ」
声が、出なかった。
胸の奥が、ざわりと騒いだ。
怖い、と思った。
消えることより、怖かった。
10年間、隣で生きてきた感情が。幼い頃から積み重ねた「好き」という気持ちが。名前さえ言えなかった恋が。
すべて、灰になる。
《怖れるか》
声は責めない。ただ、問う。
エリシアは目を閉じた。
怖い。
本当に、怖い。
それでも。
あの子どもの笑顔を思い出す。
いつかこの領地の村で見た、無邪気に笑う子どもたちを。
石畳を走り回る、まだ黒蝕も怖さも知らない子どもたちを。
王都が崩れれば、彼らも。
彼女が守りたいものが、すべて消える。
《汝の答えは》
「……やります」
震えのない声で、答えた。
「命を削っても、忘れることになってもやります」
沈黙。
やがて、声は消えた。
術式との契約が、結ばれた音がした。
音ではなく、感覚として。胸の奥で、何かが深く刻まれる感触。
視界が戻ってくる。
エリシアは床に手をついた。
呼吸が荒い。額に汗が滲む。
禁書庫は静かだった。
燭台の炎だけが、ゆらゆらと揺れていた。
どれくらい、そのままでいただろう。
ようやく立ち上がり、エリシアは燭台を持って扉へ向かった。
石段を登る。
床を戻す。廊下に出た瞬間、夜風が頬を撫でた。
外に出る。
裏手の湖畔まで歩いて、石畳に座り込んだ。
膝を抱える。
月が、湖面に映って揺れている。
「……怖いな」
初めて、声に出した。
10年間、一度も口にしなかった言葉。
消えるのが怖い。
忘れるのが怖い。
でも。
「……もう一回だけ、笑いたいな」
誰に向けた言葉でもない。
ただ月に向かって、そっと呟く。
夜風が頬を撫でた。
王都と同じ月。
同じ空、同じ風。
今頃、あの人は何をしているだろう。
同じ月を見ているだろうか。
――見ているはずがない。
皇太子殿下は忙しい人だ。
エリシアは自分で笑って、膝に顔を埋めた。
笑えているかどうか、分からなかった。
その時だった。
遠く、地の底から響くような振動が走った。
微かに。ほんの微かに。でも確かに。
湖面の水が、波紋を描いた。
エリシアは顔を上げた。
空の東の端が、ほんの少しだけ、黒く濁っていた。
墨を一滴、垂らしたように。
「……早い」
息が止まる。
ゲームの設定では、黒蝕の前兆が現れるのはもっと先のはずだった。なぜ、早まっている。
何かが変わった。
自分が記憶を取り戻したことで、何かが変わった?
それとも――。
脳裏に、アルベルトの瞳が浮かぶ。
あの夜の、あの揺らぎ。
もしかして。
もしかして、あの人も。
「……まさか」
首を振る。
考えすぎだ。今は関係ない。
今は時期を見極めることだけを考えろ。
命を使えるのは一度きり。
早すぎても、遅すぎてもいけない。
エリシアは再び空を見上げた。
黒い濁りは、まだ小さい。まだ間に合う。
でも。
確実に、時間は動き始めていた。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「全部、うまくいく」
月は答えない。
ただ静かに、夜の湖を照らし続けていた。
その光の中で、エリシアはもう一度だけ膝を抱えて、小さくなった。
泣きはしない。
でも、今夜だけは。
少しだけ弱くてもいいと、思った。




