表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢エリシアは、国を救った代償に貴方を忘れました。  作者: テラトンパンチ
プロローグ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/32

追放された悪役令嬢

 王都を出る馬車の中で、エリシアはずっと窓の外を見ていた。


 石畳の道が、砂利道に変わる。

 砂利道が、森の中の獣道に変わる。馬車が揺れるたびに、シートに縫い付けられた刺繍の金糸が鈍く光る。

 出発前に侍女たちが荷造りをしてくれた旅行鞄には、最低限の衣類と薬草と、小さな護身用の短剣が入っている。


 宝石は持ってこなかった。

 ドレスも、一着だけ。

 悪役令嬢には、ちょうどいい身軽さだと思った。

 王都の城壁が遠ざかる。

 尖塔が、木々の隙間から見え隠れする。

 (あの城の中に、殿下がいる。)


 ――やめろ。

 エリシアは目を閉じた。

 考えるな。感傷は後だ。

 今は役目に集中しろ。

 そう言い聞かせても、昨夜の光景が瞼の裏に浮かぶ。

 シャンデリアの光、静まり返った夜会場。

 そして彼の金の瞳。

 最後に見た顔が、どうしても消えない。


 冷たい皇太子の顔ではなかった。

 整いすぎた表情の奥に、一瞬だけ滲んだ何か。

 それが何なのか、言葉にできなかった。

「……関係ない」

 小さく呟いて、エリシアは目を開いた。

 窓の外。森が深くなっていく。

 王都から遠ざかるにつれて、空気が変わる。

 魔力の流れが澄んでいく。


 この国の自然は美しい。

 守る価値がある。

 それだけで、十分だ。


 ヴァレンシュタイン家の領地に到着したのは、馬車で三日かかった後のことだった。

 小高い丘の上に建つ古い屋敷。

 白い外壁は年月に苔むして、蔦が窓枠を這い上がっている。


 広大な湖が屋敷の裏手に広がり、森がそれを取り囲んでいた。王都の華やかさとは無縁の、静かな場所。

 だが、エリシアはこの屋敷が嫌いではなかった。


 むしろ幼い頃から、この場所だけが好きだった。

 誰も期待しない。

 誰も採点しない。

 ヴァレンシュタイン公爵令嬢である前に、ただ「エリシア」でいられる場所。


「お嬢様、お戻りをお待ちしておりました」

 出迎えた家令のホルスト老人は、目に涙を溜めていた。長い白いひげが風に揺れる。

 追放の知らせはすでに届いていたのだろう。

 深く皺の刻まれた顔が、申し訳なさそうに歪んでいた。

「ホルスト、泣かないで。私は元気です」

 エリシアは微笑んで、老人の節くれだった手を両手で包んだ。


「それに――ここに戻ってきたかったのは、本当のことなのよ」

 嘘ではなかった。

 王都の夜会より、この屋敷の夕暮れの方が、ずっと呼吸が楽だった。



 その夜。

 エリシアは一人で屋敷の奥へ向かった。

 燭台を手に、長い廊下を歩く。

 奥の奥。書架が立ち並ぶ資料室の、さらに奥。

 床の一部が、他と微妙に色が違う石畳。


 幼い頃に偶然見つけた場所だった。

 (正確には、転生前の記憶から見つけ出した場所だけど)

 石畳の継ぎ目に指を入れ、引き上げる。


 下に向かって続く、古い石段。

 湿った空気が上がってくる。

 黴と土と、それから、何か別のもの。

 魔力と血の臭いがする。、


 燭台を掲げ、降りていく。

 十段。二十段。三十段。

 段を下るたびに、温度が下がる。

 壁に滲む水気が、炎の光を反射してぼんやりと輝く。

 そして。

 重厚な鉄扉が現れた。

 高さは二メートルほど。幅も相当ある。

 錠前も把手もない。ただ、扉の中央に一つだけ、手のひらほどの大きさの窪みがあった。


 エリシアは燭台を足元に置き、右手の人差し指の先端をドレスの内側に隠した短剣で、ためらいなく切った。

 薄い線。すぐに赤い珠が浮かぶ。

 血の滲んだ指先を、窪みに押し当てる。

 しばらく、何もない。

 次の瞬間――窪みが、薄く光った。


 かちり、と音がした。

 機械仕掛けとは違う。鍵の開く音というより、何かが「認める」音に近かった。

 扉が、内側からゆっくりと開いていく。



 禁書庫は、想像よりも広い。

 石造りの円形の空間。直径は二十メートルほど。

 壁一面に古い書架が並んでいるが、本は数えるほどしかない。大半は「読むもの」ではなく、「封じるもの」のようだった。

 いびつな形の結晶や、鎖で縛られた箱や、黒い布で包まれた何か。

 だがエリシアの目は、それらには向かなかった。

 部屋の中央。

 床一面に、刻まれていた。

 魔法陣。直径五メートル近い巨大な紋様。

 細い線が無数に絡み合い、中心に向かって収束している。古い。非常に古い。

 石が磨耗して、線の一部が掠れている場所もある。それでも、全体の輝きは失われていなかった。

 陣の周囲を、ゆっくりと歩く。

 一周してから、膝をついて細部を確かめる。

 前世の記憶と照合する。攻略本のインタビュー記事で語られた「黒蝕を浄化する術式」の断片的な説明と、目の前の紋様が一致していく。

「……本物だ」

 静かに、呟いた。

 分かってはいた。10年間、分かっていた。

 でも実物を目の前にすると、違った。

 これが現実なのだと、骨の髄まで理解させられる。

 エリシアは深呼吸して、右手を陣の外縁に触れた。

 瞬間。

 視界が白く弾けた。


―――


 焼けるような痛み。

 頭の奥に、誰かの声が響く。

 言葉ではない。

 感覚として、直接流れ込んでくる。

 《浄化の者よ》

 古い、古い意志の残滓。


 《汝は知るか。この術の代償を》

 知っている、とエリシアは心の中で答えた。

 命が削れる。寿命が縮む。最悪の場合、発動と同時に死ぬ。

 《否》

 声は静かに否定した。


 《命のみが代償ではない》

 《汝が「知ること」もまた、代償となる》

 《汝の持つすべての知識。汝が積み重ねた記憶。汝が愛したものの記憶さえも――》

 《この炎の薪となる》

 エリシアの体が、凍りついた。

 記憶、前世の記憶、ゲームの知識。

 この10年間の記憶。

 そして――。

 殿下の顔が、浮かんだ。

 冷たい金の瞳。婚約破棄の夜に見た、一瞬の揺らぎ。

「今まで、ありがとうございました」と告げた時の、背中越しに感じた沈黙。

 《汝が彼を愛した記憶もまた》

 《薪となる》

 「――っ」

 声が、出なかった。

 胸の奥が、ざわりと騒いだ。


 怖い、と思った。

 消えることより、怖かった。

 10年間、隣で生きてきた感情が。幼い頃から積み重ねた「好き」という気持ちが。名前さえ言えなかった恋が。

 すべて、灰になる。


 《怖れるか》

 声は責めない。ただ、問う。

 エリシアは目を閉じた。

 怖い。

 本当に、怖い。

 それでも。

 あの子どもの笑顔を思い出す。

 いつかこの領地の村で見た、無邪気に笑う子どもたちを。

 石畳を走り回る、まだ黒蝕も怖さも知らない子どもたちを。

 王都が崩れれば、彼らも。

 彼女が守りたいものが、すべて消える。

 《汝の答えは》

「……やります」

 震えのない声で、答えた。

「命を削っても、忘れることになってもやります」

 沈黙。

 やがて、声は消えた。


 術式との契約が、結ばれた音がした。

 音ではなく、感覚として。胸の奥で、何かが深く刻まれる感触。

 視界が戻ってくる。

 エリシアは床に手をついた。

 呼吸が荒い。額に汗が滲む。

 禁書庫は静かだった。

 燭台の炎だけが、ゆらゆらと揺れていた。



 どれくらい、そのままでいただろう。

 ようやく立ち上がり、エリシアは燭台を持って扉へ向かった。

 石段を登る。

 床を戻す。廊下に出た瞬間、夜風が頬を撫でた。

 外に出る。

 裏手の湖畔まで歩いて、石畳に座り込んだ。

 膝を抱える。

 月が、湖面に映って揺れている。

「……怖いな」

 初めて、声に出した。


 10年間、一度も口にしなかった言葉。

 消えるのが怖い。

 忘れるのが怖い。

 でも。

「……もう一回だけ、笑いたいな」

 誰に向けた言葉でもない。

 ただ月に向かって、そっと呟く。


 夜風が頬を撫でた。

 王都と同じ月。

 同じ空、同じ風。


 今頃、あの人は何をしているだろう。

 同じ月を見ているだろうか。

 ――見ているはずがない。

 皇太子殿下は忙しい人だ。

 エリシアは自分で笑って、膝に顔を埋めた。

 笑えているかどうか、分からなかった。


 その時だった。

 遠く、地の底から響くような振動が走った。

 微かに。ほんの微かに。でも確かに。

 湖面の水が、波紋を描いた。

 エリシアは顔を上げた。

 空の東の端が、ほんの少しだけ、黒く濁っていた。

 墨を一滴、垂らしたように。


「……早い」

 息が止まる。

 ゲームの設定では、黒蝕の前兆が現れるのはもっと先のはずだった。なぜ、早まっている。

 何かが変わった。

 自分が記憶を取り戻したことで、何かが変わった?

 それとも――。

 脳裏に、アルベルトの瞳が浮かぶ。

 あの夜の、あの揺らぎ。


 もしかして。

 もしかして、あの人も。

「……まさか」

 首を振る。

 考えすぎだ。今は関係ない。


 今は時期を見極めることだけを考えろ。

 命を使えるのは一度きり。

 早すぎても、遅すぎてもいけない。

 エリシアは再び空を見上げた。

 黒い濁りは、まだ小さい。まだ間に合う。

 でも。


 確実に、時間は動き始めていた。

「大丈夫」

 自分に言い聞かせるように、呟く。

「全部、うまくいく」

 月は答えない。


 ただ静かに、夜の湖を照らし続けていた。

 その光の中で、エリシアはもう一度だけ膝を抱えて、小さくなった。

 泣きはしない。


 でも、今夜だけは。

 少しだけ弱くてもいいと、思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ