聖女というのは、なぜ輝いているのか
学院の二年目が始まった春。
新しいクラスメートが増えた。
その中に、一人だけ。
明らかに、違う空気を持つ少女がいた。
転入の朝、クレアが廊下で声を潜めて言った。
「聞きましたか、今日転入生が来るって」
「聞いていた」
「聖女候補らしいですよ。平民出身の」
「そう」
「すごいですよね。平民から聖女候補って、何十年ぶりかって」
知っている。
知りすぎているほど、知っている。
「エリシア様、顔色悪くないですか」
「そうかしら」
「ちょっとだけ」
「春の気候が合わないのかもしれない」
嘘だ。
春の気候は関係ない。
ただ始まったか、という感覚があった。
転入生は、午前の授業の前に教室に現れた。
先生に連れられて、扉を開けた瞬間。
教室の空気が、変わった。
変わった、という表現が正確かどうか分からないが‥。
私にははっきり感じた。世界の何かが動いた。
修正力か?
眠っていたものが、目を覚ました。
「マリア・ルーチェです。よろしくお願いします」
声が、明るかった。
真っ直ぐな声で飾り気がない。
髪は淡い茶色で目は透き通るような緑。
笑顔が、自然だった。
作り物ではない。
ただ、嬉しいから笑っている、という顔。
輝いている、という表現が浮かんだ。
なぜあの娘は、ああも輝いているのか。
ゲームのヒロインだから、という答えは正確ではない。
彼女自身がそういう人間だから、だ。
真っ直ぐに生きているから、輝いて見える。
そういうことだと思った。
席は、私から三つ離れた場所だった。
マリアは最初、周囲に少し緊張していた。
当然だ。
平民が貴族ばかりの学院に転入してきたのだから。
でも昼食の頃には、隣の席の生徒と話していた。
笑顔で。
適応が早い‥いや、違う。
適応しているのではなく、ただ自然にいるだけだ。
場所に合わせているのではなく、自分のままでいる。
それが強さだ。
「エリシア、あの転入生、どう思う?」
リュカが昼食を食べながら言った。
「普通に見える」
「普通じゃないでしょ。あのキラキラ感」
「キラキラ」
「なんか、明るいんだよな。光の中にいる感じっていうか」
リュカも同じことを感じたらしい。
「聖女候補だからか?」
「それだけかな。なんか、もっと……本人の話を聞いてみたいな」
「話しかければいいでしょう」
「エリシアは話しかけないの?」
少し間があった。
「……様子を見るわ」
「珍しい。エリシアって意外とフットワーク軽いのに」
軽くはない。
ただ、マリアには慎重になる理由がある。
ゲームのヒロイン。
この娘が学院に来たことで、シナリオが動き始める。
私がどう動くかによって、物語の流れが変わる。
慎重に、でも不自然にならないように。
「気が向いたら話すわ」
「そっか」
リュカはまたマリアの方を見た。
「でもさ、なんか好感持てるんだよな。あの笑い方」
「すぐ好きになるのね、あなたは」
「悪い?」
「悪くはないけど、単純ね」
「単純でいいじゃん。難しく考えるより楽だし」
それはそうかもしれない。
単純に生きられたら、どれだけ楽か。
でも私には、単純でいられない事情がある。
午後の授業が終わった後。
廊下でマリアと目が合った。
向こうから、少し会釈してきた。
私も会釈した。
それだけだった。
でもその一瞬に。
マリアの目の中に、何か見えた気がした。
翡翠の瞳の奥に、私が感じているものに似た何か。
重さ‥年齢に合わない、知っている目。
夜、寮の部屋で一人になってから。
ベッドに座って、考えた。
あの目が、引っかかっている。
ゲームの中のマリアは、ただ明るいヒロインだった。
でも今日見た目は、それだけではなかった。
何かを、隠している目。
それから、何かを知っている目。
「……まさかね」
呟いた。
まさか、でももしそうだとしたら。
‥私と同じ。
前世の記憶を持つ人間が、もう一人いる。
ヒロインポジションの少女として。
確認する方法は、一つしかない。
直接、話すしかない。
でも今日会ったばかりだ。
急いで近づけば、不自然になる。
少し時間をかけて。
自然に、距離を縮める機会を作る。
そのためには。
「……まずは普通に、クラスメートとして」
独り言が落ちる。
難しいことではない。ただ、慎重に。
翌朝。
食堂に早めに入ると、マリアが一人でいた。
クレアもリュカもまだ来ていない。
机の上に、本を広げている。
何の本か、遠くて見えない。
私は少し考えてから、近づいた。
「隣、いいですか」
マリアが顔を上げた。
少し驚いた顔をした。
「あ、はい。どうぞ」
席に座った。
朝食を取りながら、向こうが本に目を戻すのを見ていた。
「何を読んでいるのですか」
「魔法理論の予習です。ついていけるか不安で」
「難しいですか」
「平民の学校と、教えることが違いすぎて」
マリアは少し苦笑した。
「でも、面白いとは思っています。魔法って、理屈があるんですね。何となくやっていたものに、ちゃんと名前がついていて」
「魔法を、もともと使えたのですか」
「浄化が少しだけ。祖母が教えてくれて」
浄化。
私と同じ系統だ。
「浄化を学ぶなら、クロード・ヴェルナー教授の授業が参考になります」
「そうなんですか」
「少し変わった先生ですが、理論が精密で」
マリアが、少し興味深そうな顔をした。
「ありがとうございます。あなたは……ヴァレンシュタイン様ですよね」
「エリシアで構いません」
「エリシア様」
「様もいらないわ」
マリアが少し目を丸くした。
「えっと、では……エリシア、さん」
「それでいい」
少し間があった。
マリアが、ふっと笑った。
「なんか、思ったより、話しやすいですね」
「思ったよりとは」
「王太子殿下の婚約者って聞いて、もっと、近づきにくい方かと」
そういう印象があるのか。
「近づきにくくはないわ。ただ、先に話しかけることが少ないだけ」
「それは、今日は例外ですか」
「今日は、気になることがあって」
マリアが少し身を固くした気がした。
気づいているのかもしれない。
でも私は、続けた。
「昨日廊下で目が合った時、あなたの目が少し気になって」
「……私の目が」
「何かを知っている目をしていた」
沈黙が落ちた。
マリアは下を向いた。
少しの間、黙っていた。
やがて、顔を上げた。
「……何を知っている、と思いましたか」
声が少し変わっていた。
さっきまでの、明るい声ではなく。
少し、重い声。
私は真っ直ぐ彼女を見た。
「分かりません。でも、似ていると思った。私の目と」
マリアが、今度はしっかりと私を見た。
「……どういう意味ですか」
「今は、それだけよ」
立ち上がった。
「また話しましょう、マリア」
朝食を持って、別の席に移った。
背中に視線を感じた。
振り返らなかった。
その日の放課後。
図書室で一人で本を読んでいたら、隣に人が来た。
マリアだった。
黙って座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
それから、マリアが小さな声で言った。
「……エリシアさんは」
「なに」
「この世界が、ゲームだって言ったら信じますか?」
私は本のページから目を上げなかった。
少しの間、沈黙した。
それから、静かに本を閉じた。
「そうね、信じるわ、それにゲームである事を私も知っている」
一言だった。
マリアが、息を呑む気配がした。
「……いつから」
「十歳の時に、記憶が戻った。あなたは」
「私も、同じ頃。別の理由で気づいた」
少し間があった。
「あなたが悪役令嬢だって、知っていました」
「知っていたでしょうね」
「嫌がらせをされると思っていた」
「‥しないわよ」
マリアは、ゆっくりと私を見た。
「あなたは、最初から逸脱していたんですね」
「そうね」
「なぜですか?」
「世界を守る方が、大事だったから」
マリアが、少し目を細めた。
「……黒蝕を、知っていますか」
「知っている」
「止めるつもりですか」
「止める」
また沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
やがて。
マリアが、少し震えた声で言った。
「……一人でやるつもりですか」
「そのつもりだった」
「だった、と言いましたね」
「あなたがいることで、少し変わるかもしれない」
マリアが、目を少し赤くした。
「私は、ヒロインポジションで。修正力が私を中心に動いていて」
「分かっている」
「それが嫌だった。でも、変えられなくて」
「今日から変わる」
私は言った。
「あなたは今日から、悪役令嬢に嫌がらせをされない。シナリオは、最初からずれている」
マリアが私を見た。
「……エリシアさん」
「ただし」
続けた。
「あなたに、一つお願いがあります」
「何ですか」
「私が何かをしようとした時。止めないで」
マリアは少し間を置いた。
「何をしようとしているか、聞いても」
「禁術を使う」
短く、言い切った。
マリアが、息を止めた気がした。
「……代償はありますよね?」
「ええ、内容も分かっている」
「本当ですか‥」
長い沈黙の後。
マリアが、深く息を吐いた。
そしてマリアが、少し声を詰まらせた。
「あなたのことも、できれば守りたい」
思いがけない言葉だった。
私は少し目を細めた。
「なぜ?」
「あなたは最初から、一人で全部背負ってきた。それが分かって」
少し間があった。
「同じ記憶を持つ者として、そのまま見ていられない」
胸が、少し痛んだ。
ヒロインに、守ると言われた。
悪役令嬢が。
それがおかしくて、少し笑えた。
「……ありがとう」
初めて、その言葉を誰かに言えた気がした。
「でも守れなくても恨まないで。私が選んだことだから」
「恨みません。でも、諦めません」
マリアが、真っ直ぐな目で言った。
光の中にいるような少女が。
まっすぐに、こちらを見ていた。
輝いている理由が、少し分かった気がした。
この娘は、諦めない人間だ。
どんな状況でも、諦めることを知らない。
それが、輝いて見える理由だ。
図書室を出て、廊下を歩きながら思う。
同志がいた。
予想していなかった形で。
でも。
一人ではなくなった。
完全に一人ではなくなった。
それが、少しだけ、怖かった。
一人の方が、楽だった部分がある。
誰かを巻き込まなくて済む。
誰かに心配させなくて済む。
でも。
マリアは「諦めない」と言った。
ならば私も。
「……諦めないわ」
廊下に向かって、小さく言った。
届く相手もいない言葉が、石の壁に吸い込まれた。
でも。
言えたことで、少しだけ軽くなった。




