黒蝕の前兆
クロード教授との対話が深まってきた。
週に一度授業の後に残って話す事は、継続して続けている。
最初は「あなたのことを知りたい」という教授の側の確認だった。
今は少し違う。
お互いに、知っていることを少しずつ出し合っている。
研究者と、研究対象。
でも最近は、そう単純でもない気がしている。
その日の放課後。
教授の研究室は、いつもより静かだった。
窓の外は曇り。
魔力観測の計器が、机の端に並んでいる。
「座りなさい」
教授が珍しく、最初から椅子を勧めた。
「今日は少し、長い話になる」
私は椅子に座った。
教授が文献を一冊、机に置いた。
「これを見てください」
開いたのは、魔力汚染の観測記録だった。
王都から、王国全土に設置されている観測網のデータ。
数値を見た瞬間、わずかに眉が動いた。
「……これは」
「気づきますか」
「魔力の乱れが、南部と西部で同時に出ています」
「そう。しかも」
教授が別のページを開いた。
「三か月前と比べると、乱れの規模が倍以上になっている」
私は数値を見た。確かに、倍以上だ。
「黒蝕の前兆ですか」
「可能性が高い」
教授は眼鏡を押し上げた。
「通常、魔力の自然乱れは季節変動の範囲内で収まります。でも今年は、その範囲を超えている。特にここ二か月」
「いつ頃から始まりましたか」
「記録上は、昨年の秋から。でも顕著になったのは今年の春以降」
昨年の秋。
私が学院に入学する頃だ。
偶然、とは思えない。
「……タイムラインが、ずれているかもしれない」
声に出した。
教授が少し目を細めた。
「タイムライン、と言いましたね」
「……比喩です」
「そうですか」
信じていない声だった。
でも、追及しなかった。
「ずれているとしたら、どのくらい早まっていると思いますか?」
「分かりません。でも」
私は数値を見ながら、頭の中で計算した。
ゲームのシナリオでは、黒蝕は婚約破棄から三年後。
エンディングの年に発生する。
だが。
今のこのペースで乱れが拡大すれば。
「……一年から二年、早まる可能性があります」
教授は黙って聞いていた。
「最悪の場合、婚約破棄と前後して発生する」
「婚約破棄、という言葉が自然に出ますね」
「……予定されていることですから」
少し間があった。
「あなたは、自分が婚約破棄されることを知っている」
「予測できる状況です」
「予測、ですか」
また追及しなかった。
教授は立ち上がって、窓の外を見た。
「黒蝕が早まるとして、あなたの準備は間に合いますか」
直接的な問いだった。
私は少し考えた。
「第二段階の完全習得が、あと半年から一年」
「その後、禁術の発動理論を固めて」
「さらに半年から一年」
「計二年」
「はい」
教授は外を見たまま言った。
「タイムラインがずれていないとしても、ギリギリですね」
「分かっています」
「ずれていたら」
「……削れる部分を削るしかありません」
教授が振り返った。
「どこを削るつもりですか」
「準備期間を短縮する」
「無理をすれば、術式の精度が落ちる」
「そうならないように、密度を上げます」
教授は少しの間、私を見ていた。
それから、ため息をついた。
「……頑固だ」
「先生に言われたくありません」
「俺の方が頑固ですか?」
「代償を教えてくれないでいるのは、誰ですか」
少し間があった。
教授が、少し苦い顔をした。
「……そろそろ、話してもいいかもしれません」
心臓が跳ねた。
顔には出さなかった。
「本当ですか?」
「ただあなたが正しく知識を使える人間かどうか、という確認は‥」
教授は椅子に戻って座った。
「できた、とは言いません。でも、待っていても変わらないとは思っています」
「どういう意味ですか」
「あなたは、これ以上確認しても同じ答えを出す人間だということです」
それは、悪口なのか褒め言葉なのか。
「……聞かせてください」
「今日は、冒頭だけ」
「代償の全体像を話す前に、一つ確認したいことがあります」
教授が、珍しく真剣な目で私を見た。
「あなたにとって、今この世界で、一番大切なものは何ですか」
沈黙が落ちた。
予想していなかった問いだった。
一番大切なもの。
禁書庫の書物には「術式が使用者にとって最も大切なものを選ぶ」とあった。
だから教授は確認したいのだと分かった。
私が何を失うかを。
あるいは。
私が何を失う覚悟があるかを。
少し、考えた。
前世の記憶、この世界の知識。
父への愛情、クレアやリュカやゼファーとの日々。
そして。
「……正直に言いますか」
「それ以外の答えを聞く気はありません」
また少し、考えた。
「……一人の人への、気持ちだと思います」
声が、少し小さくなった。
「誰とは言いません。でも、今この瞬間、一番手放したくないと感じるのは、その気持ちです」
教授は黙って聞いていた。
「でも」
続けた。
「それを失っても、私は前に進めます。その人が生きている世界があるなら、それで十分です」
長い沈黙があった。
教授は窓の外を見て、それから私を見た。
「……覚悟が、できているのですね」
「できているつもりです」
「つもり、では困ります」
「‥できています」
言い切った、震えなかった。
教授は少しの間、また黙っていた。
それから、小さくため息をついた。
「次回、話します。代償の詳細を」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「でも礼を言います。先生が慎重でいてくださったことで、私も考える時間ができました」
教授は少し、困ったような顔をした。
「……やりにくい生徒だ」
「先生も、やりにくい教授です」
「自覚はある」
少しだけ、笑ったような気がした。
確認はできなかった。
教授が笑うのは、いつも一瞬だから。
研究室を出て、廊下を歩きながら考えた。
黒蝕の加速。
タイムラインのずれ。
やはり、この世界はゲームとは完全に一致しない。
リュカの存在がその証拠だったが、黒蝕のペースもそうだ。
なぜ加速しているのか。
私が記憶を持って転生したことで、何かが変わったのかもしれない。
物語の修正力が、乱れを感じている可能性がある。
逸脱者がいる。
シナリオ通りに動かない悪役令嬢がいる。
それが、修正力を刺激している?
黒蝕は修正力の残滓だという感覚がある。
つまり。
私がいることで、世界が早く壊れようとしているのかもしれない。
「……それでも、必要だと思いたい」
廊下に声が落ちた。
私がいなければ、世界は少し遅く壊れる。
でも、誰にも止められない。
私がいれば、早まるかもしれない。
でも、止められる可能性がある。
どちらを選ぶかは、もう決まっている。
校舎を出ると、ゼファーが待っていた。
「遅かった」
「教授と話していた」
「何の話を?」
「魔力の観測データ」
ゼファーは少し間を置いた。
「……顔色が悪い」
「そうかしら」
「少しだけ」
見抜かれた。
「少し、焦っていたのかもしれない」
素直に言った。
「今は?」
「落ち着いた」
「なぜ」
「廊下を歩いていたら、落ち着いた」
ゼファーは少し間を置いて、歩き出した。
馬車の方向に。
「ゼファー」
「なんだ」
「黒蝕のことを、少し調べてほしい」
足が止まった。
振り返った。
鉄灰色の瞳が、こちらを見ている。
「……何を調べればいい」
「南部と西部の魔力観測値。それから、過去に黒蝕の前兆があった時の記録があれば」
「騎士団の記録で調べられる」
「お願いできますか」
少し間があった。
「できる」
「ありがとう」
「礼はいい」
ゼファーが少し、表情を動かした。
呆れているのか、困っているのか。
この人の表情は、まだ読み切れていない。
でも。
「護衛対象が焦っている時に、落ち着かせるのも仕事のうちだ」
低い声が言った。
「それが仕事なの?」
「今日決めた」
ゼファーはそのまま歩き出した。
私は少し笑って、後についた。
夜、寮の部屋で。
窓を開けて、外の空気を吸った。
曇っているが、雲の隙間から星が見える。
黒い雨は、まだ遠い。
今夜の空は、まだ普通だ。
でも。
近づいている。
確実に、近づいている。
「……間に合わせる」
窓の外に向かって、静かに言った。
誰かに聞かせる言葉ではない。
ただ、声に出す必要があった。
自分の覚悟を、空気に刻むように。
雲が流れて、少しだけ星が増えた。
王都も同じ空の下にある。
殿下は今夜、何を見ているだろう。
また考えてしまった。
でも今夜は、そのままにしておいた。
考えていい、と許可したから。
失う前に、全力で好きでいるから。
だから今夜は少しだけ長く、同じ空を見上げた。
(アルベルトside)
夜、執務室に魔力観測の報告が届いた。
南部と西部で、観測値の異常が続いている。
先月より、悪化している。
俺は報告書を閉じて、窓の外を見た。
今夜は曇りだ、星が見えない。
ヴァレンシュタイン令嬢が、魔力観測のデータを調べているという情報が、今日届いた。
やはり、知って動いている。
俺も、動かなければならない時が近づいているかもしれない。
「ルーカス」
「はい」
「王家の禁書庫の、未来視の器の状態を確認しろ」
「……使われるのですか?」
「可能性がある」
ルーカスは何も言わずに頷いた。
優秀な男だ。
余計なことを聞かない。
俺は報告書をもう一度開き、数値を見る。
黒い雨は、まだ遠い。
でも遠いうちに、準備をしなければならない。
エリシアが準備しているように。
俺にも、できることがある。
それを、見つけなければ。




