告げられなかった言葉
(アルベルトside)
扉が、閉まった。
音は小さかった。
大広間の騒めきにかき消されるほど、ささやかな音。それなのに、アルベルト・ヴォン・ラインハルトの耳には、鐘の音よりも大きく響いた。
静かに。
あまりにも静かに、彼女は去っていった。
「殿下、ご決断をお讃えします。さすがは――」
側近の誰かが口を開く。
アルベルトは片手を上げ、それ以上の言葉を遮った。
今は、何も聞きたくない。
誰も、気づいていないだろう。
婚約破棄を言い渡した自分の手が、今もわずかに震えていることを。
背後に隠した右手を、ゆっくりと握りしめる。
爪が手のひらに食い込む。それでも、震えは止まらなかった。
「……俺は席を外す。続きは適当に取り仕切れ」
低く告げて、アルベルトは夜会場を離れた。
誰かが何かを言っていた。
聞こえなかった。
廊下を歩く。
石畳に靴音が響く。
胸の奥が、ひどく騒がしい。
本来なら今夜のイベントは「予定通り」のはずだった。
エリシアが激情に駆られて聖女マリアを糾弾し、自ら墓穴を掘る。
民衆の前で醜態を晒し、追放の正当性を高める。
そのはずだった。
だが今夜の彼女は違った。静かすぎた。
「異議はないのか」
あの言葉は、シナリオにはない。
自分の口から、勝手にこぼれた。
反論しろ、と思った。
喚き散らせ、と思った。
俺を憎め、と思った。
そうしてくれた方が、ずっとよかった。
でも彼女は。
「ございません」
たった一言で、すべてを終わらせた。
あの声が、まだ耳に残っている。
静かで、凛として、そして――どこか、諦めたように穏やかだった。
最後に見た顔を思い出す。
扉に向かう彼女の背中。一度も振り返らない。
広場を横切る姿に、怒りも、悲しみも、見えなかった。
まるで、すべてを分かった上で、この結末を選んでいるように。
アルベルトは長い廊下を突き当たりまで歩き、塔の上へ続く石段を登った。
誰もいない、月明かりだけが窓から差し込んでいる。
――俺が、彼女に婚約破棄を告げたのは。
彼女を、守るためだ。
三ヶ月前。
王城地下、最深部にある禁書庫。
王族の血を引く者しか立ち入れないその場所に、アルベルトは一人で降りた。
目的は、古い資料の確認ではなかった。
中央の台座に安置された水晶の遺物。
「未来視の器」と呼ばれる王家秘蔵の宝。
百年に一度、使用を許される。
それ以上触れれば、視る者の精神を削る。
歴代の王たちはそれを知りながら、危機の際にだけ手を伸ばしてきた。
アルベルトが触れた理由は単純だった。
ヴァレンシュタイン家に関する、古い警告文を書庫で見つけたからだ。
曰く――「黒蝕の刻、浄化の血族は自らを焼く。王はその炎から目を背けてはならない」
意味が分からなかった。
だが無視できなかった。
そして遺物に触れた。
映ったのは、断片的な未来だった。
黒い空、崩れ落ちる王都の塔。
民衆の悲鳴、そして――。
白い光の柱。
その中心に立つ、金の髪の少女。
エリシア・フォン・ヴァレンシュタイン。
彼女は笑っていた。
恐れも、後悔もなく。
ただ静かに、光の中で消えていく。
アルベルトは手を伸ばした。
届かなかった。
そこで映像が途切れた。
遺物から手を離した瞬間、足元がぐらつき、壁に手をつく。
呼吸が荒い。額に汗が滲む。
消えていく彼女の笑顔が、網膜に焼きついていた。
その時、理解した。
エリシアは何かを知っている。
そしてその「何か」に向かって、自ら進もうとしている。
王太子妃の立場では、彼女の行動を縛ることになる。
王家の監視が常に付き、禁書庫には近づけない。
彼女が知っている「方法」を、試すことができない。
ならば。
自由にしてやらなければならない。
婚約破棄という形で。
夜会という人目のある場で。
傷つけることで、最も早く、最も確実に。
――これが、俺にできる最大の援護だ。
そう、決めた。
だが。
今夜の彼女の目が、想定と違った。
覚悟を決めた者の目だった。
怒りでも、悲しみでもなく。穏やかで、どこか遠くを見ている。
まるで――すでにすべてを受け入れた後のような。
あれは俺が見た未来の中の彼女と、同じ顔だった。
胸の奥が、冷えた。
塔の最上部。
石造りの手すりに両手をつき、アルベルトは夜の王都を見下ろした。
煌々と灯る街明かりと、笑い声の混じる喧騒。
平和に見える。穏やかに見える。
だがあの黒い空の光景が頭を離れない。
ルーカスが最新の報告書を届けてきたのは、婚約破棄から二日前のことだった。
曰く――北東の山岳地帯で魔力の乱れを観測。動植物の異常行動も散見される。
微弱だが、確かな黒蝕の前兆。
予想より早い。
「……お前は何を急いでいる」
夜風に向かって、低く呟く。
黒蝕のことか。
エリシアのことか。
自分自身のことか。
三ヶ月前に見た未来が変わっていないとは限らない。未来視の遺物が映すのはあくまで「今の選択が続いた場合の可能性」だ。
変えられる。変えられるはずだ。
だが変えるために動けば。
別の未来が開く。
エリシアが消えず、生きる未来が。
では、その代わりに何を失う?
アルベルトは拳を握り、手すりの石に押しつけた。
冷たい石の感触が、思考を現実に引き留める。
今夜の彼女の言葉が、何度も頭の中を巡る。
「今まで、ありがとうございました」
嘘のない声だった。
本当にそう思って言っていた。
それが、最も、腹立たしかった。
礼を言うな、と思った。
俺はお前を傷つけた。
大勢の前で、追放という烙印を押した。
それに、礼を言うな。
「……エリシア」
届かないと分かっていて、名を呼んだ。
風が吹く。月が雲の端をかすめる。
その光の色が、あの白い柱と重なって見えた。
もし未来が変えられなかったなら。
もし彼女が、本当に――。
思考を、強引に断ち切る。
そうはさせない。
それだけは、絶対に。
王太子として、国を守る。
そのために手駒を動かすことが俺の役割だ。
感情で動く王は、暴君になる。
分かっている。だが今夜だけは。
この塔の上で、誰も見ていない場所で。
一人の男として、彼女の名を呼ぶことを、誰かに許してほしかった。
「待っていろ」
低い声が、夜に溶ける。
届かないと分かっている。
それでも口にしなければ、胸の奥が焼き切れそうだった。
「俺は必ず――お前が消えない未来を、選ぶ」
月が、雲の向こうに消えた。
一瞬、夜が深くなった。
再び現れた月の光が、王都の石畳を白く照らす。
その光の中で、アルベルトはようやく気がついた。
自分の頬が、冷たいことに。
手の甲で、乱暴に拭う。
皇太子が、泣くものか。
だが。
月明かりの下、金の瞳の端に宿った一粒は、間違いなく本物だった。




