私は悪役令嬢で、でもただの少女でもあって
泣かない、と決めていた。
悪役令嬢は泣かない。
覚悟を決めた人間は泣かない。
前世の記憶を持つ者は、感傷に流されない。
そう決めていた。
だから十三歳のある夜に、一人で泣いた時は、少し驚いた。
自分でも、気づかなかった。
気づいたら、濡れていた。
その日は、特別なことがあったわけではない。
朝から魔法の練習。
午後に礼儀作法の稽古。
夕食は父と二人で、他愛ない話をした。
普通の一日だった。
夜、ベッドに入ってから。
なんとなく前世のことを考えた。
コンビニの帰り道。 深夜のアパート。
誰かに連絡したいと思って、でも連絡する相手が思い浮かなかった夜。
あの時孤独だったな、と思った。
そしてふと気づいた。今も、孤独だ。
父がいる。 アルマ先生がいる。
最近はクレアとも話す。
でも。
本当のことを話せる人が、いない。
私が前世の記憶を持っていること。
黒蝕を知っていること。
禁術を使うつもりでいること。
あの魔法陣に触れるたびに、怖くなること。
誰にも、言えない。
言えないまま、全部一人で抱えている。
気づいたら、泣いていた。
声は出さなかった。
ただ、涙が伝う。
止めようとしたけど、止まらなかった。
しばらくそのままにしておいた。
泣くことに意味があるかは分からない。
でも、止めることにも意味がないと思った。
波が来て、引いていくのを、ただ待つ。
波が引いた頃、天井を見上げた。
目が、じんじんした。
「……情けないわね」
呟く。
だが不思議と、後悔はなかった。
泣いたからといって、何かが変わるわけではない。
計画は変わらない。
覚悟も変わらない。ただ。
少し、軽くなった。
人間は、そういうものらしい。
前世でも、たまに泣くと楽になることがあった。
「一度くらい、泣いてもいい」
そう思うことにした。
翌朝、目が腫れていた。
侍女がそれを見て、少し困った顔をした。
「エリシア様、目が……」
「夢を見たの。少し変な夢」
「左様でございますか……冷たいタオルを」
「ありがとう」
冷たいタオルを目に当てながら、思った。
これが私の現実だ。
悪役令嬢で。 転生者で。
世界の終わりを知っている、孤独な少女。
でも同時に。
十三歳で。
目が腫れたら誤魔化しに必死になって。
たまに泣く、ただの少女でもある。
どちらも、私だ。
どちらかを捨てる必要はない。
覚悟を持っていても、怖くていい。
計画を立てていても、孤独でいい。
全部を知っていても、泣いていい。
それでいい。
その日の午後、クレアが遊びに来た。
王城での茶会以来、時々手紙のやり取りをしていた。
ヴァレンシュタイン家の屋敷に来るのは初めてだ。
「わあ、すごい屋敷ですね……!お庭も広い!」
クレアは目をきらきらさせて、周囲を見回した。
「大げさよ」
「大げさじゃないです!うちの倍はあります絶対」
侯爵家のお嬢様に言われると、少し複雑だ。
庭を歩きながら、他愛ない話をした。
学院の入学が、もう二年後に迫っていること。
どんな先生がいるか、先輩から聞いた話。
お互い好きな本の話。
クレアはよく喋る。
それが、今日の私には少しありがたかった。
頷いているだけでいい。
相槌を打っているだけでいい。
それだけで会話が成立する。
「エリシア様って、本当に色々読んでるんですね」
「そうかしら」
「魔法の専門書から歴史書まで。私なんて恋愛小説しか読まないですよ」
「恋愛小説も面白いわよ」
「読まれるんですか!?」
クレアが目を輝かせた。
「たまにね」
「どんな話が好きですか」
少し考えた。
「……うまくいかない話が、好きかもしれない」
「え、ハッピーエンドじゃないやつですか?」
「ハッピーエンドもいい。でも、うまくいかない過程を丁寧に書いてある話が好き」
「なんか、エリシア様らしいですね」
「そう?」
「うん。完璧そうに見えて、なんか、苦しいものが好きというか」
クレアはあっけらかんと言った。
鋭い子だ、と思った。
「……そうかもしれない」
「私はハッピーエンドしか読めないんです。悲しいの、苦手で」
「それも良いと思うわ」
「エリシア様は悲しくならないんですか、そういう話を読んで」
少し、間があった。
「なるわよ」
答えた。
「悲しくなる。でも、悲しくなれるのは、その話が本物だったってことだから」
クレアはきょとんとした顔をして、それからゆっくり頷いた。
「……なんか、すごいですね」
「何が」
「エリシア様の言葉って、たまにすごく重いんです。良い意味で」
重い。
そうかもしれない。
十三歳にしては、重たいものを抱えすぎているから。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてます!」
クレアが笑った。
私も笑った。
本物の笑顔で笑えた気がして、少し驚いた。
夕暮れ時、クレアを見送った後。
庭に一人残った。
空がオレンジ色に染まっている。
昨夜泣いたことを、思い返した。
孤独だと思った。
全部を話せる人がいないと思った。
それは今も変わらない。 クレアに本当のことは言えない。
でも。
本当のことを全部言わなくても、笑い合える人がいる。
それは、孤独とは少し違う。
「……全部話せなくても、いいのかもしれない」
空に向かって呟く。
誰に言うでもなく。
夜。
いつもより早く眠れた。夢は見なかった。
朝、目が覚めた時。
昨日の疲れが、少し取れていた気がした。
窓から秋の光が差し込んでいる。
今日も、魔法の練習がある。
禁書庫の研究も続く。
完璧な令嬢を演じる日が続く。
それは変わらない。
でも。
変わらないことの中に、少しだけ温かいものが増えた。
それは前に進むのに、案外大事なことかもしれない。
十四歳になる春。
私は第一段階の浄化魔法を、完全に習得した。
アルマ先生が、珍しく目を細めた。
「……予定より半年早い」
「先生のおかげです」
「慢心は禁物ですよ」
「はい」
「ただ」
先生は少し間を置いた。
「才能だけではありません。努力です。それだけは認めます」
アルマ先生の「認めます」は、最大級の褒め言葉だ。
「ありがとうございます」
「第二段階は、もっと難しい。心してかかりなさい」
「はい」
練習室を出た後、廊下で一人になってから。
掌を見た。
白い光を、一度だけ灯す。
ぱっと光って、すっと消える。
三年前、初めてこれを出した時。
熱くて、痛くて、すぐに消えた。
今は、安定している。
温かい。
自分の内側から出てくるような感覚。
これが、私の力だ。次は第二段階。
その先に、禁術がある。
まだ時間はある。
でも着実に、近づいている。
「大丈夫」
自分に言い聞かせた。
怖くても。 孤独でも。 たまに泣く夜があっても。
私は、悪役令嬢で。
ただの少女でもあって。
それでも、前に進んでいる。




