皇太子から見た婚約者
(皇太子side)
皇太子は、笑わない。
そう言われるようになったのは、いつからだろう。
七歳の誕生日だったか。
八歳の晩餐会だったか。
はっきりは覚えていない。
ただ、ある時から俺は気づいた。
周囲の人間が、俺の前では笑わなくなった。
正確には、笑ってはいる。
ただ、目が笑っていない。
計算された笑顔というのは、子どもにも分かる。
むしろ子どもの方が、敏感に分かる。
だから俺は笑うのをやめた。
笑わなければ、相手も計算する必要がない。
それが、一番楽だと思ったから。
十三歳の秋。
執務室の窓から、中庭を見下ろす。
侍従たちが忙しく動いている。
机の上には書類の山。
皇太子の執務は、十歳から始まっている。
最初は名義だけだったが、今は本物の仕事がある。
貴族の陳情書、騎士団の報告、魔力観測の記録を一枚一枚、読む。
判断し、署名する。
側近のルーカスが、新しい書類を持ってくる。
「殿下、ヴァレンシュタイン家よりの定期報告です」
受け取る。
ヴァレンシュタイン家。
浄化を司る公爵家。
そして、俺の婚約者の実家。
先月、初めて顔を合わせた。
公式の場での顔見せ。
十歳の令嬢で銀の髪、翡翠の瞳。
整った顔立ちだった。
礼儀も完璧だった。
だが。
俺の記憶に残っているのは、顔でも礼儀でもない。
目だ。あの瞳が、頭から離れない。
報告書を読む。
特に変わったことはない。
領地の作物の収穫量。
魔力観測値の平均と住民の人口統計。
だが。
最後の一行で、手が止まった。
「令嬢、夜中に地下へ降りる様子が確認された。詳細は不明」
「……」
報告書を閉じる。
「ルーカス」
「はい」
「この報告、いつのものだ」
「三日前のものです。定期便に紛れて届きました」
三日前。
令嬢が地下へ降りた。
夜中に。
十歳の子どもが。
なぜだ。
考える。
ヴァレンシュタイン家の地下には、禁書庫がある。
それは王家も把握している情報だ。
浄化の術式が眠っていると伝わっている。
だが通常、その存在を知るのは当主のみ。
後継者に伝えるのは、成人を過ぎてからというのが慣例らしい。
十歳の令嬢が、夜中に地下へ。
理由が分からない。
「父上――公爵は把握しているか」
「報告書には記載がありません。おそらく」
「知らない、か」
「はい」
ルーカスは優秀な男だ。
言葉を選ぶのが上手い。
報告書の行間を読んでいる。
「監視を強めろとは言わない」
俺は報告書を机に置く。
「ただし、次に何か動きがあれば、すぐに知らせろ」
「承知しました」
ルーカスが下がる。
一人になって、俺は窓の外を見た。
秋の空は高い。
王都の屋根が続く。
遠く南の方角に、ヴァレンシュタイン領がある。
会ったのは一度きりの令嬢が、今夜も地下へ降りているかもしれない。
なぜ、そんなことを気にする。
自分でも分からない。
夕刻。
家庭教師との勉強が終わり、ようやく一人になれた。
俺は王家の書庫へ向かった。
先代から受け継いだ膨大な蔵書。
その中に、ヴァレンシュタイン家の古い記録がある。
三代前の当主が王家に寄贈した写本だ。
「浄化の血脈について」。
書棚の奥から引き出す。
古い羊皮紙の匂い。
ヴァレンシュタイン家は、数百年前に大規模な魔力汚染を浄化した実績がある。
その時、当主は命を落としたと記録されている。
命を落とした。
代償は命だ。
ならばあの地下の術式も、同じことか。
令嬢が、それを調べに行ったとしたら。
「……何かを、知っているのか」
声に出した瞬間、ばかばかしいと思った。
十歳の子どもだ。
何かを知っているはずがない。
夜中に地下へ降りたのも、単純な好奇心かもしれない。
だが。
あの目。
十歳の目ではなかった。
書庫を出る。
廊下を歩きながら、考える。
俺はなぜ、これほどあの令嬢のことを考えているのか。
婚約者だからか。
いや、婚約は政略だ。感情を向ける理由にはならない。
では、なぜか。
単純に気になる、のだ。
あの目が。あの静けさが。
まるで全部を知っていて、それでも笑っているような顔が。
「殿下」
呼ばれて振り向く。
母上だった。
王妃。美しい人。
だが、俺に向ける目はいつも少し遠い。
「どちらへ」
「書庫から戻るところです」
「あら、熱心なこと」
母上は微笑む。
計算された笑顔ではない。
ただ、どこか疲れた笑顔だ。
「婚約の件、もう少し先でも良かったのに」
思いがけない言葉に、俺は少し目を細めた。
「王家の都合です」
「そうね」
母上は頷く。
「ヴァレンシュタインの娘は、どうだった」
「……礼儀正しい娘でした」
「それだけ?」
少し間があった。
「目が、良い娘でした」
母上は少し驚いたような顔をして、それから、今度は少しだけ本物の笑みを浮かべた。
「あなたが人の目を褒めるの、初めて聞いたわ」
「そうですか」
「そうよ」
母上は廊下の先へ歩いていく。
その背を見送って、俺は一人残された。
目が、良い。
褒めたつもりではなかった。
ただ、正確に表現しようとしたら、そうなった。
年齢に合っていない目。
何かを決めている目。
何かを諦めている目。
そして、それでも笑っている目。
夜、執務が終わった後。
俺は一人で窓の外を見ていた。
月が出ている。遠い領地も、同じ月を見ているだろうか。
ばかばかしい考えだ。
まだ一度しか会っていない婚約者のことを。
ただ。
一つだけ、確かめたいことがある。
あの目の理由。
何かを知っているような目の、正体。
いつかそれが分かる時が来るだろうか。
「……来るかもしれないな」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
皇太子は、笑わない。
だが今夜は。
ほんの少しだけ、口の端が上がった気がした。
誰も見ていないから、いい。
数日後。
また報告が届いた。
「令嬢、二度目の地下訪問を確認」
今度は紙を置かずに、しばらく持ったままでいた。
「……やはり、定期的に通うつもりか」
「どうされますか」
ルーカスが問う。
どうするか。
制止することはできる。
公爵に伝えれば、止めさせることができる。
でも。
そうしたくない、と思った。
あの目の令嬢が、何かを調べている。
何かを準備している。
その何かを、俺はまだ知らない。
知りたい。
止めるのではなく、知りたい。
「……見守れ」
「は?」
「監視ではない。見守れ。危険なことに踏み込みそうなら知らせろ。それだけだ」
「承知しました」
ルーカスは表情を変えない。
優秀な男だ。
俺は再び報告書を閉じた。
ヴァレンシュタインの令嬢。
エリシアという名前。
次に会う時は、もう少しちゃんと見よう。
あの目の、奥を。




