ヴァレンシュタイン家の禁書庫
朝が来るたびに、記憶は少しずつ鮮明になっていく。
夢を見た。 前世の夢だ。
深夜のコンビニ。
レジ袋の中に、チョコレートとカップラーメン。
帰り道、スマートフォンを見ながら歩いていた。
画面には乙女ゲームの攻略wikiが開いていた。
『悪役令嬢エリシアの断罪エンド一覧』。
我ながら業が深い。
目が覚めた。
天蓋付きのベッドの中で、しばらく天井を見つめた。
秋の朝は、まだ少し冷える。
侍女が来る前に、頭の中を整理する。
昨日の続きだ。私が死ぬ未来の、正確な手順。
机に向かい、紙を一枚広げる。
本当はメモを取りたかった。
でも証拠が残るのはまずい。
だから全部、頭の中だけに刻む。
まず、タイムライン。
今、私は十歳。
学院入学は十五歳。
ヒロイン――聖女候補マリアが学院に転入してくるのは十六歳の時。
シナリオが動き出すのはそこからだ。
婚約破棄の夜会は十八歳。
そこまで、あと八年。
「……あと八年か」
思ったより長くて、思ったより短い。
婚約破棄の後、追放されたエリシアがどうなるかは、ゲームでは描かれていない。
悪役令嬢の末路など、ヒロインには関係のないことだから。
でも私は知っている。
ヴァレンシュタイン家の禁書庫のことを。
婚約破棄から三年後。黒蝕が発生する。
王都の空が黒く染まり、魔力汚染が広がり、魔獣が暴れ、植物が枯れる。
騎士団が出動しても、どうにもならない。
その時。
禁書庫に眠る術式だけが、それを止めることができる。
代償は、命。
あるいは、それに匹敵する何か。
「代償の詳細は……まだ分からない、か」
攻略本には「命を対価に」とだけあった。
具体的に何を失うのかは、書かれていなかった。
でも、まあ。
どうせ碌なものではないだろう。
そこは現地調査するしかない。
問題を整理する。
障害その一。
禁書庫はヴァレンシュタイン家の地下にある。
今すぐ調べに行くことは可能だ。
ただし、十歳の子どもが突然地下に籠もり始めたら、父に怪しまれる。
ヴァレンシュタイン公爵。
前世の記憶が混ざってくると、父の印象が少し変わった。
ゲームの中では「娘を溺愛する心配性の父親」として描かれていた。
エリシアが断罪された後、彼も爵位を剥奪されるというエンドもある。
「……父には、何も言えない」
言えない。
言っても信じてもらえないし、信じてもらえたとしても、心配をかけるだけだ。
この計画は、一人でやる。
障害その二。
皇太子妃という立場。
これが厄介だ。
婚約者として王城に呼ばれる機会が増えれば、行動が制限される。
王家の監視の目も、自然と強くなる。
だから婚約破棄は、むしろ好都合なのだ。
ただ問題は。
婚約破棄まで、まだ八年ある。
その間、なるべく目立たず、なるべく良い悪役令嬢を演じて。
シナリオを大きく逸脱しないように、静かに準備を続けなければならない。
「……地味な八年になるわね」
つぶやいて、少し笑う。
悪くない。 どうせ前世でも、地味な毎日を送っていた。
障害その三。
これが、一番厄介だ。
自分の感情。
アルベルト・フォン・ラングラーフ。
ゲームの中では、冷酷な皇太子として描かれていた。
でも攻略ルートを読み込んだファンには有名だった。
実は内面がとても豊かで、信頼した相手には驚くほど深い感情を向ける。
そして先月、実際に顔を合わせた。
立ち絵より、ずっと綺麗だった。
立ち絵より、ずっと目が鋭かった。
そして。
私を見た時の、あの視線。
「……考えるな、と昨日も言ったでしょう」
自分に言い聞かせる。
彼はヒロインのものだ。
ゲームの攻略対象で、最高難易度で、最も深い愛情を持つ人で。
そして私は、その邪魔をしてはいけない。
邪魔をしなければ。
彼は幸せになれる。それで、十分だ。
十分、のはずだ。
一つだけ、確かめたいことがある。
ヴァレンシュタイン家の血脈について。
公爵家は代々、「浄化」を司る家系だという。 それは貴族社会では広く知られた事実だ。
ただし、具体的な術式についてはほとんど知られていない。
禁書庫の存在を知っているのは、家の当主と、その後継者だけ。
私は後継者として、その知識を受け継ぐ権利がある。
「……お父様に、お願いしてみようか」
いや、駄目だ。
十歳の子どもが「禁書庫を見せてください」と言い出したら、絶対に怪しまれる。
では、どうするか。
単純に忍び込むしかない。
「……うん、悪役令嬢らしくなってきた」
一人で笑う。
よし計画が立った。
今夜父の執務が終わった後、地下へ下りる。
鍵は血で開くそれだけ分かっていれば十分だ。
夕刻父に呼ばれた。
「エリシア、昨日の怪我はどうだ。頭は痛くないか」
公爵は娘の顔をしげしげと見た。
厳格だが優しい人。
ゲームの描写と、概ね合っている。
「問題ありません、お父様」
「無理するな。医師を呼ぼうか」
「本当に大丈夫です」
父は少し眉を寄せて、でも頷いた。
「……お前、最近少し変わったな」
心臓が跳ねた。
「何かありましたか?」
「そうではないが」
父は窓の外を見る。
「目つきが変わった。大人びたというか……」
沈黙が落ちる。
「転んで頭でも打ったからではないですか」
笑って返した。
父も笑った。
「そうかもしれんな。食事はしっかり摂れよ」
「はい」
執務室を出て、廊下で一人になってから。 ゆっくりと、息を吐いた。
「……やっぱり、分かるのか」
父は鋭い人だ。 気をつけなければ‥。
夜。
屋敷が静まり返った頃、私は起き出した。
ランプを手に、石造りの廊下を歩く。
地下への階段は、使用人棟の裏にある。
昼間、さりげなく確認してあった。
石段を降りる。 冷たい空気。
湿った匂い。 古い石の匂い。
突き当たりに、重たい鉄扉がある。
近づく。
扉の中央に、小さな紋様が刻まれている。 血の紋。
ヴァレンシュタインの家紋と同じ形。
小刀を出す。
昼間、こっそり持ち出しておいたものだ。
そして指先を、ほんの少しだけ切った。
痛い。 少し血が滲む。
紋様に、触れる。
かちり。
音がして、扉が開いた。
中は薄暗かった。
魔力で灯る石のランプが、いくつかある。
私が入ったことで、自動的に点灯した。
部屋の中央に、魔法陣が刻まれている。
大きい。
部屋の床一面を覆う、複雑な紋様。
見ているだけで、頭が痛くなるような精緻さ。
壁には棚があり、古びた書物が並んでいる。
まず、書物から手に取る。
文字が古い。
ヴァレンシュタイン家の歴代当主の記録らしい。
浄化術の歴史や、使用事例、その代償についての記録。
三冊目に、ようやく具体的な記述を見つけた。
「――使用者は、発動の対価として、自らの『核』を差し出す」
核。
「魂の中核。それは記憶であることも、感情であることも、知識であることもある。何を失うかは、術式が決める。使用者が選ぶことはできない」
「……なるほど」
命以外もある様だ。
その場合命の代わりに、何か大切なものを失う。
それが何になるかは、分からない。
前世の記憶かもしれない。
魔法の知識かもしれない。
‥誰かへの感情かもしれない。
どれを失っても王都が救われるなら。
私は構わないそう思ったのに。
なぜか。
アルベルト殿下の顔が、ちらりと浮かんで。
「……あなたへの気持ちを失うなら、それでもいいか」
問いかける。
答えは、自分でも分からなかった。
まだ、ちゃんと好きかどうかも分からないのに。
失うことを恐れるのは、おかしい。
書物を元の場所に戻し、部屋を出る。
扉を閉めて、石段を上る。
廊下に戻ると、屋敷は静かだった。
自室に戻り、ベッドに潜り込む。
天井を見上げる。
今日分かったことは、禁書庫には入れる事と、術式の大まかな性質は把握した。
代償は「何か大切なもの」。
命かもしれないし、それが何か分からないこと。
黒蝕の正確な発生時期。
術式の発動条件の詳細。
代償の具体的な内容。
まだ、知らなければならないことがたくさんある。
八年で、全部調べなければ。
「……地味で、忙しい八年になりそうね」
くすりと笑う。
瞼が重くなってくる。
それでいい。計画は立った。
あとは、一歩ずつ。
眠る直前、ふと思った。
前世の私は、このゲームが好きだったのだろうか。
深夜に攻略wikiを読み込んでいたくらいだから、たぶん好きだったのだと思う。
でも、なぜ好きだったのかは、もう思い出せない。
きっと。
誰かが、誰かを選ぶ物語が、好きだったのだ。
自分にはなかなかできないことだったから。
目を閉じる。
次の夢は、どちらの記憶を見るだろう。
前世の狭いアパートか。
それとも、この豪奢な屋敷か。
どちらでもいい。
起きたら、また考える。
今は、少しだけ眠ろう。




