婚約破棄の夜
よろしくお願いします。
夜会というものは、いつも眩しい。
水晶の輝きが何百にも分散して、広大な夜会場に降り注ぐ。
蝋燭一本一本の代わりに、精霊石が埋め込まれた灯りが室内を昼のように照らし出していた。
王城大広間。
年に一度の春の大夜会。
華やかなドレスを纏った貴族たちが、笑顔という名の仮面を付けて行き交う場所。
――ああ、ここだ。
シャンパンのグラスを静かに傾けながら、エリシア・フォン・ヴァレンシュタインは思った。
ここは乙女ゲーム『聖女と七つの誓約』の、断罪イベント会場。
そして自分は、嫌がらせを繰り返し、最後は婚約破棄されて追放される悪役令嬢――エリシア・フォン・ヴァレンシュタイン。
10年前に、すべてを思い出した。
当時10歳。屋敷の大理石の階段を踏み外し、後頭部を打ったあの瞬間に。
白い閃光とともに、「別の自分」の記憶が怒濤のように流れ込んできた。
前世の自分。
長時間労働に疲弊しながら、深夜のコンビニ帰りにゲームの続きを楽しみにしていた、どこにでもいる社会人の女。
点滅する横断歩道、スマートフォンの画面。
トラックのヘッドライト。
それからは、暗転。
目を覚ましたら、天蓋付きのベッドの上だった。
金の巻き毛。透き通るような白い肌。
鏡に映る少女の顔は、あのゲームで散々見た悪役令嬢そのものだった。
最初は夢だと思った。
次に現実だと理解した時、恐怖で動けなくなった。
そして七日間、ベッドの中で天井を見つめながら考え続け、ようやく決意した。
――この世界を、救う。
ゲームを最後まで攻略した自分だけが知っている事実がある。
どのルートを辿っても、どのキャラクターを攻略しても、エンディングから数年後、この国は滅ぶ。
攻略本の最後に掲載されたスタッフインタビュー。
担当シナリオライターが「語られなかった裏設定」として語った内容――魔力暴走の大災害「黒蝕」が、ゲーム後の世界を侵食し、王都を飲み込むのだと。
そして。
その黒蝕を唯一封じられるのが、ヴァレンシュタイン家に伝わる禁断の浄化術式だということも。
エリシアは薄く目を閉じた。
10年間、準備してきた。
邪魔をしないよう、目立たないよう。シナリオが動き出したら――今夜のように。
静かに、退場する。
「エリシア・フォン・ヴァレンシュタイン公爵令嬢」
低く、よく響く声が、夜会場を切り裂いた。
ざわめきが、波のように広がる。
エリシアはゆっくりとグラスを置き、声のした方向へ顔を向けた。
人垣が割れて、一本の道ができている。
その先に、アルベルト・ヴォン・ラインハルト皇太子殿下が立っていた。
夜会用の礼装は紺と金の配色。肩まで伸びた銀の髪が揺れる。凛として整った顔立ちは、まさしく「絵のような王子」という言葉を体現していた。
ゲームの立ち絵より、ずっと綺麗だった。
そしてゲームより、ずっと冷たかった。
金色の瞳が、まっすぐに自分を射抜く。
「貴女との婚約を、ここに破棄する」
夜会場が、一瞬で静まり返った。
誰かが息を飲んだ。
誰かがグラスを落としそうになった。
扇で口元を隠しながら、目を輝かせている貴婦人もいた。
エリシアは思った。
――始まった。
台本通りだ。
本来ならここで、エリシアは激情に駆られる。
聖女マリアを指差し、罵倒する。
「あの女の魔性に惑わされたのですか!」と叫び、醜態を晒す。
でも。
そんなことをするつもりは、微塵もなかった。
「……理由を、伺ってもよろしいですか」
できる限り静かに、問い返した。
アルベルトの金の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ。気づく者はほとんどいなかっただろう。
「聖女候補マリア・セラフィーノへの度重なる嫌がらせ。学院内での権力の乱用。王家の名を汚した罪だ」
台本通りの言葉が、落ちてくる。
エリシアはマリアを見た。
会場の端に立つ、茶色の巻き毛の少女。
彼女は俯いて、困ったように唇を噛んでいた。
きっとマリアは何も知らない。
悪いのは誰でもない。
ただ、世界がこう動くことになっていた。
それだけのことだ。
「そう、ですか‥」
エリシアは一礼した。深く、丁寧に。
この追放は必要だ。皇太子妃の立場では、禁書庫に近づけない。
王家の監視が常につく。
でも「罪人」ならば、ヴァレンシュタイン領に戻っても誰も気にしない。
むしろ遠ざかった方が、都合がいいと思われる。
「エリシア・フォン・ヴァレンシュタイン。本日をもって、貴女は王都を離れよ」
判決が落ちた。
エリシアは顔を上げた。最後にもう一度だけ、彼を見た。
冷たい金色の瞳。
整いすぎた顔。
その奥に、何かがあった気がした。
気のせいかもしれない。
――でもあの目は、なんだろう。
まるで、こちらの方が申し訳なさそうな顔をしている。
「異議は」
「ございません」
間を置かずに答えた。
本心だった。
この国の青い空が好きだ。
お転婆な子供たちが走り回る石畳の路地が好きだ。
煤けた煙突から漂うパンの匂いが好きだ。
だから守る。
あなたに嫌われたままでいい。
「では、よい」
扉へ向かう。
広場の端から端まで、誰も声をかけてこない。
それでいい。
それが正しい。
扉に手をかけた瞬間。
「――エリシア」
「っ‥」
声が低く、かすれた。
振り返らなかった。
振り返ってしまったら、きっとダメになる。
「‥今まで、ありがとうございました」
扉を押した。冷たい廊下の空気が、頬を撫でた。
うしろで扉が閉まる音がした。
エリシアは足を止めた。
ただ一歩も動けなくなって、石造りの壁に手をついた。
胸の奥が、燃えるように熱い。
それでも涙は出なかった。
泣くつもりはない。
選んだのは自分だ。
この世界に転生した意味を、自分で選んだ。
「……行こう」
自分に言い聞かせるように呟いて、背筋を伸ばす。
悪役令嬢は、退場する。
でも物語は、ここで終わりではない。
廊下の窓の向こう。
月が、やけに明るかった。
まるで――これから始まる本当の物語を、静かに見届けようとするかのように。




